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4 新しい居場所

 そうして寒さは日に日に厳しくなっていった。家畜の毛も、すっかり冬支度が済んだようだった。手触りのいい山羊の豊かな毛に触れてしばらく考えにふけっていた明だったが、おもむろに立ち上がった。

「よし」

 高い空を見上げ、気合いを入れる。

 明はすっかり身体も治り、元気に走り回れるほどになった。

 走れるようになった明は一つやってみたいことがあった。ある朝の日、明は恐る恐るアスドラに尋ねた。

「馬に?」

 アスドラは予想通り怪訝な顔をした。明は自分が小さくなっているのを感じた。

「馬に乗れたら、もっと手伝えると思うんですが……片手では無理でしょうか」

「手綱は片手で持つ。動かすことは出来るだろうな。やろうと思えば、手は使わなくても馬は動く」

 そう言ってアスドラはしばらく考えているようだった。またあの、何を考えているのか分からない顔だ。

 長く感じた沈黙の後、そうだな、とアスドラは遠くを見て言った。

「身体もすっかり良くなったようだ。大人しい馬から始めるか」

「ありがとうございます」

 その日から明はアスドラに馬を教わった。

 やることができたのは明にとって本当に嬉しいことだった。明は暇さえあれば馬の練習をした。しかし、馬は思うようには全く動かなかった。アスドラの言うことは一言どころか舌鼓(ぜっこ)だけでよくで聞くのに、明がいくら馬の腹を蹴っても馬はびくともしない。そうかと思うと、かってに水を飲みに行ったり動きたいときに動く。完全になめられていた。

 馬に言うことをきかせられないのも一つだが、やはり馬上で均衡を保つのは思っていた以上に難しかった。今まで知らない間に右腕をつかっていたのだと実感する。

 それでも明は実に根気よく馬に乗り続けた。

 数日すれば何とか馬を歩かせて止めるくらいはできるようになっていた。

 明にとっては大きな進歩である。



 

 ある日、明とアスドラは昼食の後二人で馬を走らせた。アスドラの提案である。走らせると言っても、軽く走る程度。いわゆる駈け足というのは、明にはまだまだできない。

 家も見えなくなるほど進んで、それでもどこまでも草原が広がっているのを見て明は感嘆の息を漏らした。秋を通り過ぎて冬になろうとしている草原は、膝ほどの高さ程度の木々が赤や黄色に色づき、それは見事な眺めになっていた。一面、美しい色彩のを着物を広げたような鮮やかさである。

 ところが、なぜかそれを見てもアスドラはあまり晴れやかな顔ではない。

 ここのところアスドラは様子がおかしい。自分が馬に乗るのは反対なのだろうか。そう思っていると、アスドラは突然場所の説明を始めた。

「日が昇るのはあの湖の方だから、――明、お前の故郷はあっちだな」

「そう言えば、私が捕まった場所とここは、どのくらい離れているんですか?」

「………………」

「アスドラ?」

 せっかく話し始めたのに聞こえなかったかと問いかけると、アスドラは何故か背中を向けた。

「一日馬を走らせれば着くだろう」

 一日。結構遠い。

 しかし、それを聞いても明は不思議と何の感情も生まれなかった。遠くになってしまった自分の故郷を、懐かしいとは感じるが帰りたいとは思わなかった。

 そう思う自分に少し戸惑い、黙っていると、アスドラが馬を進めた。まだすぐに方向転換できず慌てているとアスドラは振り返りもせずに馬腹を蹴った。

「羊を見てくる。そこで練習していろ」

 それだけ言って、走り出してしまった。

 自分の馬がついて行こうとするのを、慌てて止めた。まだ走るのは怖い。きっとすぐに振り落とされる。

「アスドラ?」

 いつまで、と聞こうとしたが、一瞬で遠くまで走っていってしまった。

 いつにも増して素っ気ない動作が不可解だったが、とりあえず練習を続けることにした。



 

 しばらく一人で練習していたが、アスドラはいつになっても帰ってこない。

 暗くなって、急に不安があふれてきた。

 アスドラと共に馬を走らせてきたため、帰り道といってもよく分からない。草原には目印となるものがないのだ。こんな事なら景色にばかり目を奪われずに何か目印を考えておけばよかった。

 アスドラのいない場所が怖くてたまらない。考えてみればアスドラと外で離れるのは初めてだった。あの大きな腕の中で、今までどれほど守られてきていたのか実感した。随分暗くなっているのにアスドラは迎えに来ない。何かあったのだろうか。

 遠くに狼の吠えている声が聞こえた。馬が耳をそばだて、反応しているのが分かる。寒さとともに急激に不安になる。

「どうしよう……」

 明は手綱を緩めて、馬の首筋を撫でた。

「お前、おうちが分からない?」

 馬には帰巣本能がある、と聞いたことを思い出した。手綱を緩めていれば、馬は自然と帰るかもしれない。

 手綱が緩んだのはいいことに、馬はしばらく経つと勝手に草を食べ始めてしまった。お腹が空いていたのだろう。

「私だって、お腹空いた……」

 自然と独り言が漏れる。空腹になると心までますます寂しくなった。

 また、狼の遠吠えが聞こえる。先ほどよりも近い気がする。そういえば、いつだっただろう。用を足しに行った茂みで、鹿か何かの獣の足を見つけた。驚いてアスドラに伝えると、狼の食べ残しだとこともなげに言われた事がある。明の不安が伝わったのか、それとも流石に草原に一頭では寂しくなったのか、馬が草を食べるのをやめた。

 馬はゆっくりと歩み始める。

 その足取りに迷いはなかった。家に帰っているのだ。

「よかった……」

 とりあえずゲルに戻れば、アスドラが今どうしているのか分かるはず。明は冷えてきた空気を避けるように手を毛皮の中に入れた。




 幕屋に戻り、明かりがあるのに驚いた。その上、入り口で、アスドラは騎乗してずっとこっちを見て待っていたのだった。

「アスドラ!」

 明の姿を見て、アスドラはすぐに馬で駆けてきた。

「メイ……」

「良かった、迎えに来ないから、何かあったのかと……どうしたんですか?」

 アスドラは神妙な顔をして明を見下ろしていた。少しの沈黙の後、アスドラは明の馬を先導しながら固い声を放った。

「お前が、もし騎馬を覚え、ここを去るのなら、それでも良いと思っていた」

「え……?」

「賭けのようなものだった。お前の本意を知りたかった」

 家に着いてから、アスドラは馬を下りた。ゆっくりと明の身体を馬から下ろしてくれる。力強い腕が、軽々と明を持ち上げた。

「試すようなことをして済まなかった」

 考えていなかった。馬の練習に夢中で、黄家のことなど。何より、これほど世話になっているアスドラの元から黙って出て行くはずがないのに。

 複雑な気持ちだった。自分は試されていた。それでわざわざ別れる前に故郷の方角などを言っていたのか。

 明の冷えた体を温めるように、アスドラは家の中に明を入らせた。

「お前が去らなければ言おうと思っていた」

 一呼吸置いて、アスドラはまっすぐに明を見つめた。

「メイ、俺の妻になるか」

 突然、あっさりと言われる。

 短い一言だった。

 何を言われたのか分からないほど単調な台詞だ。

 思わず聞き返したほどだった。アスドラはまた同じ調子で同じ言葉を言った。

「俺の妻になるか、と言った」

「妻……って、え?」

「もうじき冬になる」

「は、あ――」

「冬になれば一族が一所に集い、生活を共にする。お前の素性も問われるだろう。女達が俺などより上手くお前に色々と教えてくれる。妻として仕事を教わるかはお前次第だ。そうでなければ、俺の庇護の元、暮らすか。――決めるのは、お前だ」

 匈奴の民は、遊牧民だから常に出会いと別れ。客人には非常に温かいと聞いている。しかし、それはあくまでも客人に対しての話である。趙人の、しかも略奪先で手に入れた明を一族が客人として扱うとは考えにくい。アスドラがどうであっても、他の人々は受け入れないのではないだろうか。きっと皆は奴隷を連れていると思うだろう。どうせ前もそうだった。どう思われても明は気にしない。

 気になるのは、アスドラの言い方だった。

 アスドラの言葉を聞いていると、妻も奴隷も彼にとってはそう変わらないように聞こえる。明は分からなくなった。

 アスドラは明を妻にと望んでいるのだろうか。それは、明を好きと言うこととは別なのだろうか。

「アスドラにとって、妻ってなんですか?」

 恐る恐る聞いたが、アスドラは何を分かり切ったことを、という表情をする。

「妻は妻だ。俺の子を産み、共に家族と家畜を守る者のことだ。それ以外に何がある」

「あの……アスドラはどうして、私を妻に?」

「分からぬ奴だ。お前が言ったのだろう、もっと出来ることを教えろと。今のお前は言うなればただの居候だ。居候にあれこれさせるわけにはいくまい。俺と暮らし、仕事を共にするのであればそれは生涯の伴侶となる。そうでなければバヤルの奴隷と同じだ」

「アスドラはどちらでもいいんですね」

 何か納得できなくて、明は黙った。胸のもやもやした感じがとれなくて、息苦しくなってくる。アスドラが何も言わないのを見て、明は思わず家を飛び出した。

 何故かは分からない。ただ、アスドラの側にいるのが息苦しかった。

 アスドラに何も文句など言えない。言えるはずがない。いつ捨てられても仕方のない立場だったのを、今日まで庇護してくれたのに礼を言わなくてはいけないほどだ。夜の空気を吸って、明は歩き続けた。

「メイ!」

 力強く左腕を取られる。走って追いかけてきたらしく、息を切らしたアスドラが怒った表情で見下ろしていた。

「夜は一人で外を歩くなと言っているだろう、危険だ!」

 明は目を逸らして黙り込んだ。

「何だ。何が不満だ。何を拗ねている」

 威圧感のある声。いつもなら萎縮してしまうが、今は何故か反発心がわき上がってきた。黙ってそっぽを向く。

「メイ?何を怒る。俺がそれほど気に入らぬか」

「………………」

「何とか言え!苛々する!」

「―――――拗ねてません」

「どこがだ、黙り込んでろくに口も聞かず、飛び出してきて」

「どうでもいい私のことなど、放っておけばいいじゃないですか」

「何のことだ」

「アスドラはただ、優しいんですね。死にかけた人間を放っておけなかった。だから私を拾った。――そして今も」

 やっと分かった。どうしてこんなに胸がつっかかるのか。

「優しいから、私を見捨てられない。一族が集まったら、私の処遇が問われる。下手をするとどこかへやられるから、それが嫌だと言った私を哀れんで、それであんな事を言いだしたんですね」

 アスドラはただの同情、でも明は――。

「同情で妻を持つことなんてありません。夫人は愛して望むものです。私がその場所に収まるわけにはいきません」

「俺の妻にはなりたくないという意味か」

「………………」

「お前の言っていることが分からない。確かに見捨ててはおけなかった。だから拾い、世話をした。だが俺は好きでもない相手を、一生を共にする妻に望むほど馬鹿ではない」

 明はアスドラを見上げた。やっと目が合う。アスドラは少し不機嫌な、眉を寄せた顔で明を見下ろしていた。

「俺は妻、と言ったはずだ。妻とは何かも話した。バヤルのように子を産むだけの女を望んでいるのではない。子を守り、育て、共に家を守る伴侶のことだ。同情でそれが選べるか」

 黙っている明にアスドラはとうとう怒鳴りだした。

「本当に、お前と話していると焦れる!何故はっきり言わぬ。知りたいことがあるのなら、はっきりと知りたいことだけを尋ねろ!俺はもう我慢の限界だ!」

「ごめんなさい!」

 身を縮めて明は叫んだ。とりあえず謝らないと絞め殺されそうな気迫だった。

「何がごめんなさいだ」

 青筋の浮いてそうな――暗くて見えないが――アスドラの顔を見上げながら、明は恐る恐る尋ねた。

「私の知りたいことは一つです。私を……妻にと、望んでくれているのですね」

「初めからそう言っている。言っているのに、お前の知りたかったことはそれだけか?」

 心底呆れるような声。

 それにしても、アスドラはわかりにくい。アスドラもそう思っているのだろうが、いつもの事ながらどうしてこうも会話がかみ合わないのだろうか。

 初めの言葉を聞いて、アスドラが自分を妻に望んでいるとはどうしても思えなかった。仕方ないから妻にでもなるか、という提案の雰囲気だったのだ。それはアスドラなりに明の決定権を尊重しての台詞だったのだが、それは明には分からなかった。

「私の勘違いでした。ごめんなさい」

「思ったことを口に出さないことを美徳と考えるのは、趙人の特徴だな。俺はそういうまどろっこしいことが嫌いだ」

 思ったことを口に出すのに肝心なところが抜けているのは牧民の特徴だろうか。もちろんそんなことは口に出して言えない。

「それで、返事は?」

「え?あ、はい。――よろしくお願いします」

「ああ、任せておけ」

 にっ、と笑ったアスドラの顔に、どきりとする。力強い瞳がふっと細められ、優しくなる。慈しまれているような、そんな錯覚に陥る。

「腹が減った、帰るぞ」

「はい」

 腕をひかれ、歩き出す。急な事だったが、次第に胸が高鳴ってくる。初めは苦しいと思ったが、じっとしていられないような、妙な興奮が胸からわき上がってきた。それが喜びなのだと、しばらくしてから気づいた。

 自分が誰かの妻になる日が来るなどと、思いもしなかった事だ。

 アスドラは、自分を必要としてくれている。想ってくれている。それが嬉しくてたまらない。明もアスドラが好きだったのだと、初めて気づいた。

 短気で、早とちりで、時々怖いアスドラだが、動けない明を世話してくれた優しさも、静かに自分の事を語ってくれた夜もあった。明はそれほどアスドラが好きだったのだと今になって分かったのだ。ぎゅっと胸を握りしめたくなるが、残った右手は動かなかった。

「大丈夫か?」

「え?」

 右腕を見ていた所を見られたのだ。以前から、動かない腕が感覚もないのに鋭く刺すように痛むことがよくあった。またそれか、と尋ねられる。

 明は首を振った。

「大丈夫です。――アスドラ、あの……私、さっきから」

 思い詰めたような明の言葉にアスドラは立ち止まった。

「なんだ」

「さっきからもう、たまらなく胸がどきどきして、いてもたってもいられない気分なんです。たとえるなら、あっちの湖まで走っていきたいような」

「は?馬鹿かお前は。狼に食われたいのか」

「たとえ、と言ったじゃないですか」

 意味が分からない、とアスドラは眉間にしわを寄せた。

「アスドラ、私は今、ものすごい衝動に駆られているんですが……」

「――お前、さっきからおかしいぞ?熱でもあるんじゃないか」

「駄目なら駄目と言ってください。アスドラ、抱きついてもいいですか」

「―――――は」

 アスドラの目が点になった。そんな顔は一年に一度あるかないかである。

「こんな気持ち、初めてで……飛び上がるほど嬉しい時というのは。何かを握りしめたい気分です」

 興奮して、頬が上気している。出来るなら本当に走っていきそうな勢いだった。

 アスドラはそんな明を見て困惑したまま息を一つ吐くと、そっと背に両手を回した。

 夜一緒に寝る時のように、そっと、包み込むように明の頭を抱いた。明は片手をアスドラの背に回すと、ぎゅっと力を込めた。額をアスドラの胸に押しつける。土と獣のにおい。今では慣れた、毎晩感じるにおいである。アスドラの力強く、そして何処か少し恐ろしい印象そのままである。

 しばらくそのまま明に任せていたが、ふと背に回された手から力が抜けたのを感じてアスドラはまた呆れた声を出した。

「落ち着いたか……?」

 答えない明に、アスドラはまた問いかけた。

「メイ?」

「片腕がないのが、今、初めて惜しいと感じます。アスドラ、私は子供を産んでも、両手で抱いてやることが出来ない……」

 その声にアスドラは黙った。胸に押しつけられた明の顔が見えず、アスドラはそっと明の頭をなでた。くぐもった声は感情もわからない。

「メイ。泣いているのか……?」

「片手の母を、子供は寂しく思わないでしょうか。……アスドラはこの片腕を、いつか負担と思わな――」

「馬鹿野郎」

 明の台詞を遮って、アスドラは不機嫌な声で切って捨てた。

「馬鹿なことを言うな。守れると思ったから妻にと望んだのだ。俺が腕一本も補えぬと思うか。俺の妻ならば俺の一部。俺もお前の一部だ。お前の腕が足りぬなら俺の腕をやる。お前の腕を(わら)う者は俺を嗤う者だ。何も負い目を感じるところはない」

「アスドラ……」

 アスドラがそこまで思ってくれているとは思わなかった。率直で、何より嬉しい言葉だった。

 明は、右腕を惜しんで泣くのは今日が最初で最後だと、心に誓ったのだった。


どうか、この下の


⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎をちょん、としていただきましたら


大変励みになります。


よろしくお願いします。

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