3 華外の牧民
数日、明は床の上で過ごした。
相変わらず食事はアスドラに食べさせてもらってはいたが、あれからろくに会話は交わしていなかった。肉中心の食事にも寒く乾燥した気候にも少しは慣れたが、アスドラの粗野な言動はなじめなかった。それでも、明に対しての世話ぶりは決して冷たくはなかった。
食事はしっかりと手伝ってくれるし、調子が悪い時には冷やした布を頭に当ててくれた。熱でうなされているときには、じっと側にいてくれた。優しい言葉を掛けるわけでもないのに、不思議と温かく感じる事もあった。
アスドラと明は同じ寝床で寝た。はじめは抵抗があったが、北の夜は夏でも冷え込む。まだ秋だというのに寒さは特につらい。水も凍るほどに冷え込む夜に、暖を取るためと思えばそのうち慣れた。アスドラは朝早く羊と共に出て行き、夕方日が沈む頃に帰ってきた。寝泊まりする天幕の近くには草がないため、餌場を求めて移動しているらしい。毎日たくさんの蹄の音が遠のいていくのを少しほっとしながら聞いているのだった。
明の体調はなかなか良くならなかった。急な環境の変化のせいもあるのだろうが、熱が出たり引いたりで落ち着かず、身体のだるさも相変わらずだった。だから床の上でずっと過ごしていたのである。アスドラも特に何も言わなかった。
明が目を覚まして五日が経った。アスドラはいつものように明に手軽に食べれる小麦を練って焼いて作った保存食を手渡してから出て行った。寝台の横に杯もある。お腹がすけば片手でも空腹が満たされる。あとは一日寝ているだけだ。
長い間床の上にいると、色々なことを考えた。
その中でも、明は意外にも気持ちが落ち着いていることに驚いていた。敵に捕まってこうしているというのに、しかも片腕を亡くしたというのに、意外と喪失感のようなものはなかった。
腕は、一種の代償のような気がしていた。明は彩月を守ることが出来た。片腕はその代償なのだ。そして、趙人である明という存在はあの時もう捨ててしまったのである。
彩月への思いも、右腕も、そして命さえも、彩月を守ると決めた時に置いてきたのだ。
だからもう、何も思い残すことはなかった。自分の役目はもう終わった。あとは流れに身を任せればいいのだと、そう感じていた。
明はいつものように退屈に思いながら天井を見て、またごろごろと寝返りを打ちながら一日を過ごしているうちに、この日は午後には少し身体が楽になっていた。
起きあがってみても、特にくらくらしたりはしない。
明は好奇心に駆られ、外に出てみたいと思った。寝床の下に明の靴があり、それを履いた。久しぶりに靴を履く。深呼吸をしてみて、すこしすっきりした。
帳幕を出て、一気に空気が冷たくなる。じゃり、と音を立てながら地面を歩き、明は当たりに広がる景色に目を奪われていた。
何もなかった。
そこは草原が広がるばかりで、木の一本もなければもちろん建物などあるはずもない。ただ、草原が見渡す限りに広がっているだけだった。
明は思わず大きく息を吸って、ため息を漏らしていた。傾きかけた太陽が、少し赤く草原を照らしている。遠くに果てしなく広がる草原の線が、どこか丸みを帯びているように見えたのである。
何もないのに、なんて雄大で美しいんだろう。
寒さも忘れ、明はその景色に見入っていた。
この大地がアスドラを育てたのだと思うと、妙に納得がいくような気がした。彼の気性の荒さも、素っ気ないほどの真っ直ぐさも、この大地で培われたものなのだろうか。
ふと、少し距離のあるところにきらきらと光るものがあった。湖である。夕日に照らされながら、あまりの寒さにだろうか、白いが靄上がっていて幻想的だ。それほど広くはないが、遠く河がどこかに続いている。そういえば、身体は汗もかいてべたべたしている。
きょろきょろと辺りを見渡して誰もいないのを確認しながら水辺まで歩くと、思い切って水浴びをした。水は悲鳴を上げるほど冷たかったが、身体の不快感の方が嫌だった。アスドラに言えばお湯くらいは用意してくれるかもしれないが、なんだかそれも気が引ける。
ものすごい速さで全身を洗ってから、着物の一部で身体を拭いた。風が一層冷たく感じ、明は震えながら走り帰って家に入り込んだ。
炉の火はアスドラが帰ってくるまでいつもくすぶらせているのだが、勝手は分かっていたので火を熾した。片手では時間がかかり、更に暖かくなるまで時間はかかったが、日が沈むまでには冷えた身体も元に戻っていた。
アスドラが帰ってきたのは、身体も温まって一段落してからだった。
アスドラは帰ってきてまず炉に火がついていることに目をやった。
「一人でつけられたか」
「あ……はい、あの、すみません、勝手に」
「いや――」
アスドラはそれだけ言って上着を放り投げると、炉の前で手をかざした。アスドラのまとってきた冷気が、さっと帳幕の中に流れる。叱られるか文句を言われるかと覚悟していたのだが、予想とはちょっと違った。
「――人がいると暖かい天幕に帰れる。悪くない」
喜んでいるようなので、とりあえず安心である。目が合ったので愛想笑いをすると、アスドラはちょっと不思議そうに明を見つめた。
「なにやら、今日はすっきりしているな」
「あ、あの……身体の調子が良かったので、軽く身体を清めて来ました」
「勝手が分かったか」
「そこの、湖で」
言った途端、アスドラはぎょっとした様子だった。いけなかったのかと、急に不安になる。まさかあそこは飲み水の汲み場所だったのだろうか。しかし、それにしては汚かった。
「あの、すみません……」
「今の季節、あの冷たい湖に入るなど、馬鹿かおまえは?また熱が出るぞ」
熱が出て迷惑が掛かるのはアスドラである。明は申し訳なくなってうつむいてしまった。確かに、居候の分際で勝手な真似だった。
「まあ、歩けたことは良かったんだろうが」
「あ、あの……明日も、夕刻、火を熾しておきます。朝も」
突然何を言い出すのかという表情のアスドラに向かって、明は続けた。
「他にも出来る事があったらおっしゃってください」
さっき、火を熾してアスドラが喜んでいた。明はそれで自分の居場所が出来たように思い、嬉しかったのである。
ずっと身体を使って働いていた明にとって、ただ寝ている生活の方がずっと気分がふさいだ。
アスドラはどう感じたのか分からないが、ただ一言、
「まだ本調子ではないのだ、火を熾すだけで十分だ」
と言っただけであまり取り合わなかった。
それから明は相変わらずゆっくりと日々を過ごした。
朝アスドラが目覚める頃に火を熾して湯を沸かし、夕方アスドラが帰るころにまた火を熾した。片手では確かに難儀したが、努力すれば不可能ではなかった。
しかし、それまで毎日を忙しく過ごしていた明にとって、火を熾すだけの毎日はあまりに退屈な日々だった。帳幕の中を掃除しようと思っても、アスドラの荷物を勝手に触るのは気兼ねしたし、何よりアスドラはほとんど身の回りのものをもっていなかった。
いつも夕方になればアスドラが家畜と共に帰ってくる。そうすればアスドラはこの頃、色々な話を教えてくれた。
遊牧民族は本来、数人の家族で生活している。結婚して独立すればまた一族から出て家族を作る。アスドラのように帳幕を張って暮らすのである。家の側に家畜を飼い、日中は馬に乗って家畜を水場やいい草のあるところへ歩かせる。日が暮れるとまた帰ってくる。そして周辺に草がなくなれば、また別の土地へ移動する。ただ、アスドラはまだ独立していない。今は明がいるから移動できず合流していないだけで、明が本懐すれば合流するつもりらしい。
アスドラの父親は匈奴の中でも、「万騎」という称号を持った族長らしい。趙で言うところの、諸侯のようなものだろうか。課税などは多少あるようだが、政治の体系は全く厳密なものではなく、それぞれ独立の集落と軍が存在する。
そうして匈奴の話を聞く一方、日中明はただぼうっと家の周りを歩き、遠くに馬や羊の声を聞き、雲の動きを見たり時折羽を休める鳥を眺めたりして過ごした。
そのうち、あまりに暇すぎてアスドラの蹄の音が遠くからでも分かるようになった。
その日もアスドラの蹄の音が聞こえ、明は入り口を開けて近づくのを待った。いつもこうして外に立って迎えるのが明の日課になっていた。今日は馬が二頭。アスドラは誰かを連れていた。
近づいてきて、アスドラと同じような顔立ちだ、と思った。目鼻立ちがはっきりとしていて、自信に満ちた顔。
「メイ、帰った」
アスドラが馬上からそう声を掛けるのにはっとして、明は慌てて頭を下げた。
「お帰りなさい」
視界の端に、アスドラの連れがじろじろとこっちを見てくるのが分かった。獲物を品定めかのような、嫌な目だった。明は居心地が悪くなって中に引っ込んだ。
アスドラの連れは天幕の外で何事かを話していたようだったが、中には入ってこずにすぐにそのまま去っていった。
アスドラだけ中に入ってきたのを見て、明は不安になって聞いた。
「今の人は……」
「バヤル。俺の従兄弟だ」
従兄弟。まさか。明は思い当たる節があった。もう完全に元気になった身体。大して役に立たない片腕。
「あの……」
「なんだ」
言い淀んでいると、アスドラは待ちきれなくなったようで無視して食事の支度に取りかかってしまった。
「あの、私……確かにこんな腕で、ほとんどお役には立っていません。でも、出来ることなら何でもします」
アスドラは手を止めると、肩越しに振り返り怪しむような顔をした。
「何だ、唐突に」
「働くのは慣れています。こんなこと、私に言うことが許されないのは知っています。それでも、どうしても私は……」
何と言っていいのか分からず言い淀む明に、アスドラは一つ大きく息を吐くと肩をすくめた。
「何の話か、さっぱりわからん」
そうだ、アスドラはあまりこういう事の勘はいい方ではない。はっきり言わなければ。
明は思いきって声を振り絞った。
「ど、奴隷にというなら、アスドラが使ってください。顔も知らぬ人のところに行くのは嫌です。ましてや、あの人のところなんて……」
あの嫌な目。思い出すだけで寒気がする。顔立ちは似ていても、目は似ていない。あの値踏みするような目。
明はアスドラを直視できずに、目をつむっていた。
そもそも明は拾われただけの厄介者である。お前に何の決定権があってそんなことを言うのかと、殴り飛ばされても文句は言えない。元々、元気になるまでという約束だったのだから。
ふっと頬に風を感じて、明はびくりと身体をこわばらせた。しかし予想と違って、アスドラの手が優しく頬に触れただけだった。明は恐る恐る目を開けた。
そこには、アスドラのいつもの何を考えているのか分からない顔があった。真剣な目だが、その思いは読めない。
「お前は、馬鹿だ」
「……アスドラ」
「人の話もろくに聞かず、勝手に早とちりをする」
それはアスドラの方だ、と思ったがそれはもちろん口に出さない。
「何を考えているのかもよく分からぬ。――メイ、俺がいつお前を人にやると言った」
「――え?」
「暖かい家に帰るのがこれほど心地いいものとは思わなかった。寝床に人一人いるだけでこれほど暖かいとも。――お前を手放すつもりはない」
「では……あの従兄弟というのは」
「もうすぐ冬だからな。ここらは雪に覆われる。俺たちは低地に移動する。いろいろと準備がいるから、合流する日取りも含めてその打ち合わせだ。ついでに物の交換と」
では、完全に明の勘違いだったというわけだ。
明は急に恥ずかしくなって、くるりと背を向けて座り込んでしまった。一部屋なので逃げ込めるところはない。
勝手に早とちりして、自分を奴隷として使ってくれなどと、なんと恥ずかしいことを言ってしまったのだろう。
「大体、お前のように片腕しか使えぬもの、おいそれと人に渡せるものか」
ため息混じりにそう言われ、明は身の置き場がなくなる。
それもそうである。自分のような傷物は、おそらく商品価値としてはかなり下の部類なのだろう。そう思ったところへ、ぽん、と頭に手を置かれた。
「ま、それでもお前なりに役に立っていると言うことだ」
明は小さな声で、それでもしっかりと言った。
「アスドラ。もっと……」
「ん?」
「私にできることを、もっと言ってください」
「……………」
アスドラはしばらく何も言わず、考え込むように黙った。
「アスドラは毎日家畜の世話しに出かける。夜も何度も起きて家畜を見ているのを知っています。いつも忙しそうなのに、私一人休んでいるなんてもう嫌です。私だって、下手だけど、馬にも乗れていました。教えてもらえれば、ご飯だって作れると思います。もっと――もっと役に立ちたいのです」
アスドラは片手を口元にやり、じっと考え込んでいた。
そんなに悩ませるようなことだったのだろうかと、ますます不安になる。
しばらく一緒に暮らしてはいるが、アスドラの考えることはまだ明には全然読めなかった。
「考えておこう」
それだけしか言ってもらえなかった。
しかしその後もアスドラが何かを言うことはなく、ただ日ばかりが過ぎていった。
どうか、この下の
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎をちょん、としていただきましたら
大変励みになります。
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