2 目覚め、失ったもの
意識はとぎれとぎれに続いていた。何が夢で、何が現実なのか、朦朧としてよくわからない。ただ、熱を帯びた身体が、全身で心臓の鼓動を伝えていた。
肩が熱い。――そうだ、矢を射掛けられたのだ。そう思うのにも時間がかかる。
息苦しさに、体を少し動かした。手足の感覚が、なにか柔らかいものに触れる。どうやら、何かの毛皮の上に寝かされているようだった。背を上にして寝かされている。しかし、それ以上体は少しも動かなかった。鐘を打っている様な激しい頭痛と、それと同時に脈打つ肩の痛み。体が動かないのは、ぴくりとでも動かせば全身の筋肉に激痛が走るからだった。
暑さで汗をかいている。たまらなく不快でも、どうしようもなかった。
ふと、ひやりとしたものが額に触れた。水を含んだ布のようだった。誰かが掛けてくれたのだ。大きな手。それ以上は何もわからなかった。
少し眠りについて、また起きる。起きると言っても瞼が重く、目を開ける事はほとんどできない。開けられないまま意識が落ちるように、闇に引き込まれていく。その繰り返しだった。昼か夜かもわからない。
肩が熱い。その熱さは更なる痛みを呼ぶほどの熱さで、痛いのか熱いのかもわからなくなってきた。着物が外されるのがわかる。ただされるがままになっていた。何も考えられず、抵抗しようという気すら起こらなかった。
肩に、激痛が走った。あまりの痛さに声を上げることすらできなかった。それが背に刺さった矢を抜いたためだと、かなり経ってから思う。しかしその痛みに、明はまた暗闇の中に意識を落としていった。
遠くに馬のいななきが聞こえた。
まず感じたのは、辺りを包む、今まで嗅いだこともないような不思議な香り。それは、何かの薬草のような香りと、獣臭さと、そして何より大地の香り。
明はゆっくりと意識を取り戻した。以前までの体の熱さや頭痛は嘘のように、とても頭がすっきりしていた。明はうつ伏せに寝ていた。右肩は相変わらず痛かったが、我慢できないほどではない。
明はゆっくりと起きあがろうとして、突然そのまま顔面から寝床に突っ伏してしまった。柔らかい毛皮の上だったため大して痛くはなかったが、それより明は体の均衡を失ったことが不思議でならなかった。そして自分の右の方をみて、はっとした。
左手と同じく床に手をついたはずが、まったく動いてはおらず、伸ばしたままだったのである。
おかしい、としか思えなかった。今自分がいるところがどこなのかとかいうことよりも、今はこの右腕を動かすことが先である。
明は肩の痛みに耐えて、仰向けにごろりと寝返りを打った。痛みに、思わず声が出る。左手で右手を探り寄せる。大丈夫、腕はある。右手を持って顔の前にかざしてみた。しかし、右手の感覚は全くなかった。そして動かそうとしても何の反応もなく、震えすらしない。左手を離せば、ぼとりと虚しく胸の上に落ちた。あるのは肩までの感覚。それから先は、まるで他人の腕か人形を触っているようだ。
どうしよう。
まず思ったのは、これでは彩月を守れない、ということだった。
そう思ってから、はたと辺りを見渡した。なんとか左手だけで起きあがる。それは思ったよりも身体を使い、とても疲れているということに気づいた。
初めて見る風景。ここがどこかの帳幕であるのは確かなようだ。つまり、匈奴の住む場所と言うことだ。遠くに聞いた馬のいななきも、遊牧民族である彼らの所有する馬なのだろう。
水場があり、中心には炉のような場所もある。自分が寝かされている寝台は広く、羊の毛で出来たらしい掛け物もある。部屋は噂に聞いていた通り、一部屋の幕で出来ているようだった。匈奴人の住まいは移動できるよう車に乗せているとか、布を張っただけだとかしか聞いていなかったからどんな粗末な住まいかと思っていたが、想像よりもずっと広い。加えて調度品には、どれも非常に凝った彫刻や塗装がされていた。
調度品に目を奪われつつも、明は頬が冷たくなっているのに気付いた。北というだけあって、かなり寒い。いつものようにしっかり服は着ているが、それでも空気は冷たかった。しかし明が身を思わずふるわせたのは、寒さのせいだけではないだろう。
一つの空間に、しっかりと生活感のある家具の数々。それが更に明の孤独感を引き立てる。
明はぎゅっと残されたほうの拳を握りしめた。
気をしっかり持たなくては。彩月がどうなったのか、まだ分からないのだ。あの調子では逃げ切ったとは思うが。もしそうなら、腕の一本くらいは惜しくない。それどころかこの命だって、少しも無駄ではなかったのだから。
そんなことを考えた、その時だった。
ばさりと豪快に幕がまくり上げられ、一人の男が現れた。
明は心臓が止まったかと思うほど驚き体を縮めた。
「――気がついたか」
男は、特に感情もなく明をじろりと見た。あの気を失う直前に見た男だろうか。まだ若い。しかしがっしりとした筋肉質な体つきも、精悍な顔つきも、異民族の衣服も帽子も、すべて気圧される威圧感がある。この寒さでも胡服だけの薄着で、一目で分かるほど鍛えられた体。その大きな体に獣の毛皮で作った帽子をかぶり、後ろ一つで三つ編みにした髪が腰まで垂れていた。
明が何も言えず固まっていると、男はずかずかと明に歩いて寄ってきた。声が出たら、悲鳴を上げていたかも知れない。
ぬっ、と目の前に器を差し出される。
びくりと体を反応させる明に対し、男は無感情な声で言った。
「喰え。粥だ」
低く、無愛想な声。言葉が通じる。匈奴でも南方の者は交易もするため漢民族の言葉を話すと、そう言えば聞いたことがある。
予想外の食料に、明は思わずまじまじとその器を見た。確かに、木の器からは雑穀の粥のいい香りが漂ってくる。
怖くはあったが、本当にくれるのかと思い、またちらりと男の顔を伺ってみる。
男は更に器を突き出してきた。
「早く受け取れ。――毒など入ってはいないぞ」
気が短くてそのうち怒鳴り出すのではないかと思うような声音だったため、明は慌ててその器を受け取った。元々、命令されると逆らえない。記憶にある人生のほとんどを使用人として育った明にとって、それは体に染みついた習慣のようなものだった。
男は満足そうにして寝床の横にどっかりと座った。
動作といい口調といい、ひどくがさつで乱暴である。孤児とはいっても良家で働いていた明にとって、そんな行動をするのは馬屋番くらいなものだったのでちょっとそれも恐ろしい。
さて、明は左手で受け取った椀を見下ろし、つばが出そうになるのを必死でこらえていた。食べたい。しかし、右手が使えない為に器にあるスプーンを握れないのである。
膝の上に置いて食べようかとも思ったが、掛け物のせいで安定が悪そうだ。器を持つ前ならまだ何とかなったのだが、なみなみと注がれた器を持っていては身動きがとれない。
右手の大切さを早くも身をもって痛感していると、男がまた不機嫌な声を出した。
「どうした。喰わないのか」
明が何か言おうとするのを遮って、男は嘲笑のようなものを明に向けた。
「蛮族のものなど食せぬか。王国民は小娘であろうとしょせん王国民か。――飢え死にするがいい」
そう言って乱暴に器を奪おうとしたため、明は思わずさっとその手を避けた。器ごとよけられ、男の手は宙を空振りする。
男は一気に怪訝な顔つきになった。眉間のしわが恐ろしくて、明は肩をすくめる。
だが、お腹は究極に空いていた。あれから何日が経過したのかは分からないが、もう今にも倒れるほど空いているのだというのは分かる。どうしてもこの粥はほしかった。
だから二度目に男の手が伸びたときも、必死でそれをよけてしまった。
すると男は当然ますます怒り、立ち上がって明を見下ろし怒鳴り声を上げた。
「何の真似だ、女!」
一里先まで届くのではないかと思うほどの大声。そのあまりの迫力に、明は思わず左手の器を抱えて身を丸めていた。恐怖に小さくなっていく明を無視して、男は更に続けた。
「食うのか、食わんのか。それとも殺されたいのか!」
「――待って!」
明はかすれた声で、かろうじて叫んだ。男の手が、腰の剣に伸びようとするのをなんとか止めたかった。それはあまりに微かで声とは言えない声だったが、男は何とか黙って待ってくれた。
声を出して初めて、ひどく喉が渇いていたことに気づく。
男はため息を一つつくと、水場から一杯の水を汲んできてまた明の前に突きだした。
「――まさか水が先にほしかったんだ、などという理由か?なんという傲慢な女だ」
それでも水を汲んでくれた男に、明は意外に思った。匈奴は趙の人を捕らえたら奴隷にして使い捨てに使うと聞いていたのに。
「どうした、ほら、飲め。喉が渇いては声も出せぬぞ」
右手が使えずまた受け取れなかったが、今度は明もそのままじっとしていることはしなかった。どうやら彼は短気な性格のようなので、あまりゆっくりしているとまた怒り出しかねない。
「右手が……動か、ない」
かすれていてひどい声だったが、どうにか言葉にはなった。しかし相手からは何の反応もなかった。通じたのか不安になって見上げると、男のまっすぐな眼とぶつかる。薄い褐色の瞳は無感情に明を見つめていた。
「そうか……」
彼はそれだけ呟くと、そのままその場に再び腰を落とした。
「粥を貸せ。取らぬから」
静かに言われて、明は器を差し出す。すると替わりに男は水の入った器をくれた。あまりきれいではなかったが、頓着してはいられない。明は一気にそれを飲み干す。水はとても冷たく、かなり土の味もしたが、喉が渇いていたせいかひどく甘く感じた。
「そら」
声を掛けられてそちらを向くと、彼は準備万端で一口粥ののったスプーンを明に突き出していた。口を開けろと言わんばかりである。明は驚くと言うよりも気後れした。そんなことを風邪をひいた彩月にしたことはあっても、されたことはないし、第一恐ろしく迫力のあるこの大きな男にされると体が萎縮してしまう。
しかし男は全く頓着なく、目が早くしろと言っている。
「あの……器を持っていただければ、自分で……」
恐る恐る、気遣って言ったつもりだったが、男は逆にむっとした様子だった。
「俺の手では食えぬと言うか。――時におまえ、利き腕は?」
「え、右――ですが」
「では、左でうまく掬えはしまい。――いいか、人の好意は受け取るものだ。それとも今おまえがしているのは遠慮ではなく俺への嫌悪ゆえのことか」
明は慌てて首を振る。では食え、と言わんばかりの表情に、明は思い切って口を開けた。
口の中に粥を入れられて、明ははじめその妙な味に思わず口元を押さえた。
生臭い。
かろうじて顔をしかめなかったのは目の前の人間に悪いと思ったからだが、彼はそんな明の表情を楽しんでいるかのようだった。
「山羊の乳を入れた。栄養がある。うまいだろう」
「―――――」
明は嘘が下手なので何も言えなかった。
しかし、空腹のためか二口目、三口目と食べるうち、その味もだんだん気にならなくなっていった。
とりあえず器の中をすべて平らげると、ぬれた布を投げ渡され、それで手や口周りを拭く。優しいのか乱暴なのかよく分からない男である。
「――おまえ、名は?」
しばらくして尋ねられ、明はなんと言ったらいいのか少し迷った。もう捕まって数日たったのだろうから、彩月のふりをする必要はない。明は偽名を使って隠さなければいけない身分でもないし、そもそも偽名というのも思い浮かばない。
「あの……私をご存じですか」
黄家の娘、彩月と思っているのかという問いだったが、当てははずれたようだった。男は何とも言えない微妙な顔をした。
「まさか、記憶までなくしたとは言わんだろうな」
「あ、いえ、そうではなくて」
「――では、前にどこかで会ったことがあったか?」
「ありません」
明は半ば呆れてしまった。
どうしてこの男はこうも気が短くてしかも早とちりなんだろう。いや、気が短いから早とちりなのだろうか。介抱してくれたのは明を彩月と勘違いして身代金でも取るためかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「あの、明、です」
「メイ?短い名だな。王国人はもっと多くの名を持っているだろう」
「私は姓がないので……」
給金ももらえずただ主に仕える、奴隷同然であることを指して言ったが、男は気づいていないようだ。趙国の位階や身分のことを言っても、果たしてどの程度理解されるものか。
「名だけということか。家族はいないのか」
「いません。でも、主人はいます」
男はまたじっと明を見つめた。よく感情の分からない目をする人だ、と明は思った。それでいて、多くを考えているような目だ。
「俺はアスドラという」
「アスドラ……」
アスドラはにっと笑った。はじめて笑顔を見た、と明はつい見入ってしまった。笑うと急に威圧感が和らぐ。
「我らの名は一つだ。漢人はいくつも名を持つくせに我らの名を発音するのが下手だが、お前はうまい」
「は……」
「俺は馬に乗り、牛と羊を追い暮らしている。時に族長の収集で遠くから仲間が集い、南の領土を襲う。意図はいろいろとあるが、今回は趙への偵察を兼ねた牽制だった。運が悪かったな」
「あの、私はどのくらい……」
「一日かけて移動して、その後三日寝ていた。死ぬかと思ったぞ」
「馬車は――馬車はどうなりましたか」
「お前の仲間か。歩兵は殺したが、馬車は逃した。見たところ、趙兵ではないようだったからな」
ほっとする反面、胸をえぐられるような気がした。護衛の兵たちの中には、それなりに話をする者もいた。彼らを簡単に殺したと言えるアスドラが、また急に恐ろしくなった。
「お前を射たのは俺ではないが、射た奴がいらぬと言うので俺がもらってきた。あのままあそこにいては死んでいた」
「……………」
「矢には毒が塗ってあったからな。帰ってすぐに取り除いたが、右腕は間に合わなかったようだな」
素直に感謝する気にはなれない。他民族というだけで人間をそこまで軽く扱える感覚にはついていけなかった。
「さて……どうするかな」
急に尋ねられても、何のことか分からない。返事をしない明をじっと見つめ、アスドラは無感情に言った。
「捕まえた王国人を奴隷として使っている者もいる。奴隷で集落を作り、今お前が食べたような米を作っているのだ。俺の従兄弟はこの前捕まえた女に子を産ませる為に連れている。俺は未だ家族も奴隷の一人も持たぬ身だが、これからも特に必要とは思わぬ。――が、せっかく助けた命だ、今までのように誰ぞにやるのも惜しい。やればお前のような細腕、そう長く持つまい」
アスドラの見えないところで、明がぎゅっと拳を握りしめた。
「――まあ、時はまだある。とりあえず身体が本懐するまで面倒を見よう」
「……………」
明の命はアスドラの手の内に合った。ならば明がどうこう言えることはない。
やはり礼を言う気にはなれず、明は黙ってうつむいた。アスドラがどんな顔をしていたのか、そのまま彼は出て行ってしまったので確かめることも出来なかった。
どうか、この下の
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎をちょん、としていただきましたら
大変励みになります。
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