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蒼天と草原の大地から  作者: サイ


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「彩月」

 声をかけ、瑛峻は部屋に入った。

 彩月はちょうど、明に何かを食べさせようとしているところだった。しかし明はほとんど反応せず、難儀している様子だ。

 彩月も顔色はよくなかった。明がこんな調子では、彩月もろくに寝ていないのだろう。それでも明を自室から出そうとしない。瑛峻は深刻なため息をついた。

 彩月は瑛峻の顔を見ると、珍しく恐い顔で詰め寄った。

「お兄様のせいよ!あんな物を見せて、もう明は、廃人のようになってしまって!」

「私のせいなのか?彩月、よく考えてみなさい」

「お……仰っていることの意味がわからないわ」

「私はお前に、黄家の子女としてあるべき姿を教えてきたつもりだ。しかし、それが間違いであったのだと今、痛感している」

 今まで見たこともないような、瑛峻の冷たい顔だった。彩月は(ひる)んだ。

「黄家の人間としてお前が得られるものの代償に、お前が負うべき役割の最も重きをお前に教えることを、私は怠っていた」

 冷たく無感情な声。そんな声は聞いたことがなかった。反射的に体が逃げようとして、それよりも早く、瑛峻の手が彩月の腕を掴んだ。

 強引に立たせてその手を引く。

「ついておいで」

「痛……お兄様、痛い、放して!」

 叫んでもその手は緩むどころか更に強くなった。彩月の細く白い腕に、瑛峻の指が食い込む。

 抵抗しようと思っても力では敵わず、彩月は引きずられるようにして歩かされた。

 



 彩月は無理矢理馬車に乗せられた。この戦のさなかにどこに連れて行こうというのか。

 馬車が出発してようやく瑛峻は手を放した。言い含めてあるのか、御者は何も言われなくても走り出す。

 彩月の手にはくっきりと指の形に痣ができている。瑛峻は批難のまなざしも受け付けないほど、硬い表情をしていた。訳のわからない恐怖に彩月はただ黙って座っているしかなかった。

 馬車は屋敷を出て、静かな街を走った。

 不気味な静けさだった。戦時中の街など歩いたことはない。人のいない街というのは、これほど薄気味悪いものなのか。

 馬車は更に進み、城門に近づいた。まさか、と思う彩月の不安は的中した。

 城門が開いたのだ。

「お兄様、まさか……!」

 彩月の問いかけにも、瑛峻はただ前を見るばかりで答えない。城門ははじめから馬車だけを通すつもりだったようだ。黄家の旗の目印に城門は開き、そして馬車を通してすぐにまた閉じられた。

 戦時中である。よほどのことがない限り、城門の開閉は行わない。しかも、この一切武装していない馬車を通すなど。

 彩月は青い顔を更に青ざめて瑛峻に飛びついた。

「何をお考えなのです。城門を出るなど。死にに行くおつもりですか!」

 瑛峻は答えなかった。目的地があるように、ただ前方を見ている。

 降りられないかと辺りを伺う。しかし、馬車の速度はとても降りられるものではなかった。

「お兄様!嫌です、帰りましょう!ねえ、お兄様!」

 兄の体にすがって、顔を埋めた。恐怖で体が震え始める。

 瑛峻が彩月の体を抱え起こした。無理矢理両肩を掴んで自分から引きはがす。

「彩月。もうすぐ見えてくる。しっかりと目を開けて、周りを見なさい。お前が言う戦というものがどんなものなのか」

「や……いや、嫌――!」

 半狂乱になって、彩月は目をきつく閉じた。今まで、戦どころか生き物の死すら見たことはない。屋敷の中で綺麗な物しか見て来なかった。戦場など想像を絶する場所に違いない。

 しかし瑛峻はそれを許さなかった。

 頬に熱い痛みを感じた。頬を叩かれたのだ、間を置いて気づく。

「お兄様……!」

 思わず瑛峻を睨み付け、しかし更に鋭い兄の目に気圧されてたじろいだ。

「彩月。目を開けぬなら、何度でもお前を叩くぞ。その痛みとて、死んだ者の痛みと比較にはなるまい」

「まるで……まるで、この戦が私のせいかのように仰るのですね、お兄様!」

 悲鳴のように叫んだ。しかしそれでも瑛峻は躊躇しなかった。

「この戦を引き起こしているのは、明の夫だ。しかし、防ぎ得なかったのは、お前と私の責任だ」

 鉄の表情が一瞬揺らいだ。

「だから私も共に見る。この目に焼き付けて、私は生涯忘れない」

 馬車が激しく揺れ始めた。

 戦場である。戦でつけられた無数の蹄と轍の跡。この戦場は今は両軍対峙していないらしく、生きている人間は一人もいなかった。

 馬車が速度を緩め、その異臭に彩月は鼻を覆った。生き物の腐ったにおいである。

 兵士らはまだ片付けられることもなく、辺りに放置されていた。血と肉とが混ざり合い、腐った臭い。それに群がる烏や野犬、様々な生き物。見渡す限りの死体は匈奴兵も黄家の兵も、おびただしいほどの数だった。

「ここは三日前の戦場だ。戦は少しずつ、城門に近づいている」

 瑛峻の台詞など頭に入っては来なかった。突然の吐き気に彩月は馬車の縁から顔を乗り出した。

「う……う、あ」

 吐き出そうとしても、胃の中は空。胃液の苦さばかりが口の中に広がった。涙目になってぬぐおうとして、すぐ視線の先、馬車の車輪横に、ごろりと転がっている主を失った一本の腕。

「ひっ……」

 悲鳴と共に後ずさる。体を起こせば余計に死体の山が目に入る。

「お兄様、お願い、帰って!もう嫌です、嫌、嫌、いや……!」

 再び瑛峻にすがりつく。今度は瑛峻も引きはがさなかった。力強く彩月を抱きしめる。

「彩月。私もたまらない」

「だったら……!」

「だが、これが今起きている現実だ。彩月、これがお前と私が引き起こした戦の現実だ」

「だって……だって、こんな……こんなこと、知らない!」

「今は停戦している。今日は兵が死なずにすんだ。しかし明日はどうだろうか。明後日は、その先は?この死体が着実に増えていく」

「……………」

「こんな物を見るために、今日まで生きてきた訳じゃない。こんな物のために、黄家を守ってきたんじゃない」

 兄の声は痛々しく胸に突き刺さった。

 こんなつもりじゃなかったのは、彩月だって同じだ。ただ明と一緒にいたいだけだったのに。自分を慕ってくれる明と、毎日を楽しく暮らしていきたかっただけなのに。

 明と共にいたいと願うだけで、こんな戦にまで発展してしまった。

 どこで間違ってしまったのだろうか。

「彩月、もしこれでも明を手元に置きたいと願うのなら、私はもう何も言わない」

 そっと瑛峻は頭をなでた。昔からするように、優しく。

「つらい思いをさせた。あとは自分で、よく考えなさい」

「お兄様……」

「帰ろう。帰りながらどうするのか考えなさい。城門についたら答えを聞かせてくれ。お前がどんな答えを出しても、もうお前に失望したりしない」

 どうしてここまでして、判断をゆだねるのか。彩月にはわからなかった。しかしとりあえずは、元の優しい兄に戻ってほっとする。

 兄の言いたいことはわかる。黄家の責任として、領民を守るため、明を手放せと言いたいのだ。

 まだ迷いの残る彩月を見て、正直瑛峻はがっかりした。ここまでしても彩月が考えを変えないのなら、もう残された手は一つだった。

 それだけは避けたかったが。

 御者に戻るよう指示しようとして、遠くに蹄の音を聞く。匈奴兵の巡視だろうか。見つかると面倒なことになりそうだ。そう思い急いで指示するが、馬車は方向転換に時間がかかる。

 急いで向きを変えるが、何とか城門に向かったときには、もう顔の判別ができるほどに近づいていた。御者が馬を加速させようと鞭を取る。

「待て……止めよ!」

 馬車が急いで出発しようとするのを止める。馬上の主は、知った顔だった。

 アスドラだ。

 馬は止まった。向こうもこちらに気づいた様子で、じっと伺うように見てくる。

 お互い声も届くほどの距離だった。

「……………」

「……………」

 しばらく睨み合い、沈黙。アスドラがゆっくりと馬を進めた。御者が息を呑み、腰の剣に手を伸ばす。それを片手で制した。

「馬車を見かけ来てみれば、お前か」

 武装しているアスドラに対し、こちらは丸腰。しかし怖じる様子を見せる訳にはいかない。

「停戦中だ」

「それで女と物見遊山か。結構な身分だな」

「ああ。――妹と、お前が起こした愚かな戦を見物に来た。ずいぶん殺したな」

 アスドラは黙って彩月と瑛峻を見下ろした。

「メイの主人か」

 視線を感じて、彩月は身を固くする。家の者以外に素顔を見られるのも恥じることであるが、何より、匈人と言葉を交わすなどもってのほかだ。

「お兄様……一体」

 何故兄がこの者と面識があるのか、わからない。

「彩月。この男は明の夫だ」

「この者が……?」

 彩月は顔を見られるのも構わず、アスドラの顔を見た。蛮人の顔立ちはよくわからないが、確かにあの赤子によく似ている気がする。

「ではお前が、私から明を奪いに来た者か」

 アスドラは怪訝な顔をした。

「お前から?お前がメイを捕らえているのか」

 アスドラの言い分に、彩月は沸々とわき上がる感情を抑えることもせず、ただ目の前の男を睨み付けた。戦場では物怖じすることなく敵を斬り続けたアスドラは勿論少しも動じることはなく、ただ静かにその視線を受け止めた。

「お前がメイを放さぬというなら、戦が終わることはないだろう」

「これほどの死体を作って、まだ足りないというの。なんと野蛮な」

「子を産んでメイは名実共に一族の者となった。我らは一族を取り返すためなら、死も恐れぬ」

「そうやって武力に頼り力で物を言わせんとするところが、野蛮だというのよ」

「その言葉、そのままお前に返すぞ。メイを力で縛り、子と引き離したのはお前達だろう」

「明は私の側を選んだのよ!」

「メイが心からそう言っていたのなら、俺もこんな戦は起こさなかった。だが、メイが泣いた。俺の元には帰れぬと泣いたのだ。あいつの言っている事はいつもよくわからぬが、メイが望んでいることはわかる。夫婦だからな。――そこにいても、メイは幸せにはなれぬ」

 明が幸せに?

 彩月が黙り、アスドラは今度は瑛峻に視線をやった。

「我が兄の遺体、しっかりと受け取ったぞ」

「……………」

 アスドラの声には怒りはなかった。覚悟していたことなのだろうか。

「それで、これは何の真似だ。お前は使者を使い、準備をするからと――」

「黙れ」

 強い口調で遮られ、アスドラは険しい表情になった。

「何だと」

「―――――」

 ここで話されては都合が悪い。瑛峻は一瞬考えてから馬車を降りた。

 慌てる御者にそこで待てと指示し、アスドラに目線でついてくるように指示する。

 馬車からわずかに離れて二人は向かい合った。

「何だ、何の用だ」

 馬上から見下ろされる。

「馬から下りろ」

「何故」

「いいから早くしろ」

「……………」

 アスドラは馬から乱暴に飛び降りた。土煙が立つほど、激しく足音がする。

 眉を寄せ、不機嫌な顔を隠そうともせず瑛峻は小声で話した。

「諸事情あって、内密に事を進めている。しかし、約束通り明日には必ず明を送り届ける。黙って待っていろ」

「あの女は、納得していない様子だが?」

「お前には関わりのないことだ」

 ぞっとするほど低い声だった。少しの間を置いてアスドラは口の端を上げて笑った。

「そうか。面倒な事だな」

「……………」

「――趙人というのは本当に、恐ろしく野蛮な生き物だな。俺たちでは思いもよらぬ事を、平気でやろうとしているらしい」

「平気で、だと?」

「重い荷物がまだ下ろせないか?難儀なことだな」

「黙れ。貴様にはわからぬ」

「わからんな」

 アスドラは言い捨てて一瞬で馬上に戻った。

「家族の命より重いものなど、この世にはない」

「どの口がそれを言う。お前が起こした戦で、どれほど多くの命が失われたことか。そのお前がよくも」

「ああ、――そうだな。俺が一番愚か者だ」

 はっ、とかけ声一つで馬は勢いよく走り出した。よく肥えた馬はものすごい速度で遠のき、すぐに見えなくなった。

 瑛峻は暗い表情で馬車に戻る。真っ青な顔をした彩月が瑛峻にしがみついた。

「お兄様。どうなることかと……」

「ああ、大丈夫だ」

 自分に体重を預けてくる彩月を受け止めながら、アスドラの言葉がよぎった。

 野蛮……。

 違う。野蛮なのは趙人ではない。――自分だ。




「……………」

 馬車の上で、兄妹は会話を一言も交わさなかった。

 どちらでもいいと、兄は言った。それならば彩月は迷うことなく明と共にいる事を選びたい。死体の山には、正直相当な衝撃を受けたが、彩月はまだ黄家が絶対に負けないと思っていた。

 馬に乗ったアスドラを見た時にも、その衣服を見て、あんな野蛮な民族に黄家の兵が負けるはずがないと思った。絹の着物と違い、獣の皮を被った明の夫。力強く、自信に満ち溢れた出で立ち。

 文明のない民族だ。

 だから、明を側においておくためには、黄家の兵に犠牲を払ってでもこの戦に勝利さえすればよいと思っていた。

 あんな男に、奪われるわけにはいかない。彩月の唯一無二の親友を。

 ふと、引っかかるものがあった。

 『メイは幸せにはなれぬ』

 アスドラと名乗った男の発した言葉が嫌に引っかかる。蛮族の言う事など気にしなければいいのに、何か引っかかっていた。

 明の、幸せ。

 明は彩月と共にいて幸せではなかったというのか。友と共に暮らすことこそ、幸せではないか。

親友……いや、親友ではない。元々明は彩月に与えられた人間だった。

 友達では、なかった。

 頭を打たれたような衝撃だった。

 自分は、明を親友と言っていた。しかし、実際には思い通りになる存在だった。使用人と同じく自分の思うとおりに動かしたかった。実際、明は望みのままに動いてくれた。

 そうして、明には彩月を大切に思う以上に、愛する人ができたのだ。

 友人ですらない、ただの主人の彩月に勝ち目などなかった。

 彩月にとっては大切な明だけれど、明の彩月に対する感情は、ほかの侍女たちと同じではないか。

 一人で親友と思っていた。なんと愚かなことだったのだろう。

 次第に涙が流れた。

 大好きな明。

 明を思うようにしようとした時点で、自分はあの男に負けていたのだ。

 勝ち目など、なかったのだ。

 馬車は城門に到達した。

 瑛峻は彩月に向き直り、そっと声を掛けた。

「彩月」

 ゆっくりと、彩月は言った。

「明を手放します。お兄様」

 彩月の目には涙が浮かんでいた。その言葉に瑛峻は大きく息を吸い込んだ。張り詰めていた気持ちが、ほっと溶けるようだった。自分の心臓に、初めて温かい血が戻ってくるような気がした。

 ああ、私はまだ人でいられる。

 そっと握っていた剣から気付かれぬように手を離し、彩月をそっと抱き寄せた。

「彩月。済まない……」

「何故、お兄様が謝るの?」

「手荒な事をした。お前には、美しい物だけを見て、幸せでいてもらいたかった」

 それは兄の本当の思いだったのだろう。

「お兄様――」

 いいんです、とは言えなかった。今の彩月は兄に慰めの言葉を掛けられるほどの余裕はない。

 明との別れは、刻一刻と迫っていた。




 突然彩月が瑛峻に連れて行かれたと思ったら、長く帰ってこない。明は次第に心配になった。

 瑛峻の顔は暗く冷たくなかったか。

 彩月の身が案じられた。実の兄妹の間に、その心配はないだろうとは思う。しかし瑛峻の厳しさも、よく知っている。

 食事もろくにしていないから、頭が働かない。指一本動かすのも億劫だった明には、屋敷の門で二人を待つのがやっとだった。

 馬車の音がしたのは、明が門にきて半時ほどたってからだった。

 もう日も沈みかけている。

「彩月様……!」

 慌てて駆け寄って、その左の腕を掴む。

「ご無事で」

「明」

 彩月は少し驚いて、そしてほっとしたような顔で明の頬に触れた。

「ああ、明。やっと私を見てくれたのね」

「お嬢様……」

「そんな顔をされたら、余計に離れがたいじゃない」

「――え?」

 聞き返す明を彩月はそっと抱きしめた。

「ああ、明。本当に、すっかり痩せてしまって」

 二人を見ていた瑛峻と目が合う。

 瑛峻は少し疲労の色を見せながらも、明の困惑気味の視線を受け止めていた。

「出立は、明朝だ。支度しておきなさい」

 まさか、と聞き返そうとする明に、彩月は抱擁を解いた。言い聞かせるように、ゆっくりと視線を合わせる。

「今日は二人で、ゆっくりと夕餉を頂きましょう。そして、ゆっくりと眠るの。そうしたら明日、あなたはアスドラのもとに帰るのよ」

 驚きに目を見開く明に、彩月は続けた。その目には涙が浮かんでいたが、流れてはいなかった。

「拒むことは許さないわよ、明。一晩で元のようにはならないけれど、ここにいたからやつれたなんて言われたら、癪だもの」

「彩月様」

 どうしていいか分からず、思わず首を振った。だって、でも、そうしたら彩月は。

「明」

 彩月は目を伏せた。ここでようやく、一筋の涙が流れる。

 それを美しいと、思った。

 こんな涙を流す人だっただろうかと。

「幸せになってほしいの。せめて、最後には友達でいたいから」

 明はどうすればいいのかわからず、ただ彩月の涙をぬぐった。昔からよくする動作だった。彩月が泣けば、いつも明はその涙を拭いていた。

 彩月は笑った。力のない笑みだったが、それも美しかった。

 



 二人はいつもと同じように夕食を食べ、いつもと同じようにお茶を飲んだ。

 彩月は他愛の無い話しかしてこなかった。明も先ほど言われた事を聞く機会をつかめないまま話を合わせる。

 話は主に昔の事だった。その頃が彩月にとっても明にとっても楽しい話題だった。彩月が今は戦はしていないと教えてくれたのも、話を楽しく感じさせてくれた。ふと、このままこの時間が続いてもいいのではないかと錯覚に陥る。それは二人とも同じ思いだっただろう。

「一緒に寝ましょう」

 と彩月は言った。明も当然従った。一つの寝台で眠るのは久しぶりだった。

 昔は嵐が怖いとか、さみしいとかで眠れないとすぐに彩月は明を呼び、一緒に寝てもらっていた。その頃が懐かしい。

「彩月様」

 おそるおそる、明はたずねた。

「一体、若様と何があったのですか」

 彩月は力無く笑った。

「お兄様は関係ないの。私が決めたのよ、明」

「でも、あまりに急です」

 自分がいなくなってもいいのかとは、流石に聞けない。それは他でもない明が望んだ事だった。

「明。――わたし、気付いてしまったの。貴方を友達だと思って、ずっと今日まで来たけれど……それは私の独りよがりだったんだってことに。明を思いのままにして、束縛して、それで自分が満足していた。貴方の思いは何一つ聞いていなかった」

「そんな」

「親友だと思っていたけど、それでは他の使用人と変わらないもの」

 彩月はそっと目を伏せた。影が差しているせいなのか、その表情は暗く頼りなく思えた。

 明は思わず身を起こした。

「あなたの願いや幸せを考えて、最善と思う事をするわ。せめて最後は友達でありたいから」

「彩月様」

 思わず明は彩月の手を取った。本当は両手で握りたかったが、左でしか握れない。

 いつもと同じ、柔らかくてきめ細かい、お嬢様の手だ。

「何故そんな悲しい事を言われるのですか。明は、彩月様に親友だと言われるたびに嬉しくてたまらなかったのに」

「言っていたけど、違うのだと気付いたの。悲しいけれど」

「それはおかしいです」

 そんな悲しい顔をしたまま別れる事は出来ない。明は彩月に向き直った。

「彩月さまは今、相手の幸せを考えるのが親友だと言いました。だったら私は、ずっと、この家に来た時から彩月様の幸せを考えなかった日はありません」

「明……」

「私は彩月様の使用人です。けれど使用人でも奴隷でも、誰よりも彩月様をお守りしたいと思っているし、幸せを願っているつもりです。私が親友と呼ぶのはおこがましいのはわかっています。けれど、私は彩月様をそう思いたい。それなのに、彩月様がそう言われたら……私は……もう、どうしたらいいのか」

「明、違うの」

 彩月も身を起こした。

「私の問題なの。私が、貴方をちゃんと見ていなかったのだと気づいたの」

「けれど、気付いて、私を親友ではないと思ったのでしょう?」

「だって……」

 彩月は困ったような顔をして、俯いた。

「考えなかったわ。明が、そんなに私を思ってくれているなんて。――私はまたわかっていなかったのね」

 明を思い通りにしようと思っていたから、強制的に親友だと言っていた。それが間違いだからやめようと思ったが、また明の気持ちを置き去りにしていた。

「もっと明の気持ちを考えたいわ。貴方を一人の人として、どうすればいいのか考えて送り出すわ。そうしたら、私達……親友かしら」

「嬉しいです、彩月様」

 明が笑顔に戻ると、彩月も笑顔になった。心の底から自然と笑みがこぼれたのは何ヶ月振りだろうか。

「良かった。親友として明を送り出す事ができて」

「彩月様……」

「寂しくなるけど」

 彩月はそう言って明に抱きついた。声がかすれている。

「でも、親友だもの。離れていたって、大丈夫だわ」

「はい……」

「辛くなったら、いつでも帰ってきていいのよ。私の側は開けておくから。――だって、アスドラと喧嘩して、実家がなかったら困るでしょう?」

 明は思わず笑ってしまった。

 実際にそんなことは無理だとわかっている。けれど、いつでも帰れると言ってしまった方がいくらか心の慰めにはなった。

「分かりました。そう思うと安心して行けます」

 二人はそうしていつまでも抱き合い、やがてどちらからともつかず眠っていた。


次で最終話になります。


もし読んでくださっている方がいらっしゃいましたら、

どうか、この下の


⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎をちょん、としていただきましたら


大変励みになります。


よろしくお願いします。

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