13 犠牲
戦が始まる。その噂はすぐに領内を駆け巡った。戦の真の理由は誰一人知らない。ただ、いつもの略奪行為が繰り広げられるのだと思っている。領民はある者は逃げ、ある者は戸を打ち付け略奪に備えた。
領主の館でも戦支度は着々と進んでいる。
彩月はもちろん戦の理由は明に言わなかったが、明も馬鹿ではない。すぐに気づいた。
明は青い顔で彩月にすがった。
「彩月様。私は出て行かねば……」
「何を言うの、明」
「だって、私がここにいては戦になるのです。私は行かなくては。彩月様」
「だめよ!一度説得して、駄目だったのでしょう?それとも匈奴へ永住するつもり?私から離れて!」
「彩月様……」
「駄目よ、駄目、駄目!!明、お前は二度と離さないわ。明、どこにも行かせないわ!たとえ二人っきりになっても。死んでも!」
両肩をぎりぎりと掴まれた。しかしその痛みよりも、彩月の取り乱し様に怯んだ。
明が帰ってきたばかりに見た風景が頭をよぎる。
――私が離れたら、彩月様はまたああなってしまう。
どうすればいい。戦は今にも始まろうとしている。自分がアスドラの元へ帰れば、きっと収まる戦だ。しかし彩月を放っていけば、今度こそ彩月の心は崩壊してしまうだろう。
どうしてこんなことに。
なんと言うことをしているのだろう。アスドラも、自分も……。
戦が始まるのは早かった。使者のやりとりから数日で両者は対峙することとなる。
黄家の預かる街の城壁から、数里の距離だった。
まずは黄家の数で押す優勢から戦は開始した。
実は、陳将軍にはよくよく言い含めてある事があった。
戦の中で敵総大将を見極めよ。そして、一点集中しその者の首を取れ、と。
左翼、右翼に兵は残したものの、文字通り中央突破の大軍をもってして将軍は戦果をあげた。黄家の誇りの為にも、匈奴兵に後れを取るわけにはいかなかった。
大地に敷かれた黒い布を、黒い刃が一直線に切り裂くようだった。
切り裂いた刃もまた、布に呑まれていった。
初戦にしては被害は甚大だったが、それでも首は獲った。帰り道を絶った、名もなき突撃兵たちの功績である。
「名乗りをあげぬゆえ、総大将か定かではござらぬが、常に指示を出している様子にござった」
屋敷で陳将軍の報告を聞き、瑛峻は急いでその遺体を見た。
違う、あの男ではない。あの男は総大将ではないのか。
特に落胆したわけではない。
アスドラを殺したからといって戦が終結するとも思いにくかった。殺せれば良し、という程度にしか思っていない。
あの男はそう簡単に死にそうにはなかった。
瑛峻は迷った末、明を呼んだ。残酷な事と分かってはいたが、どうしても確かめておかなくてはならないのだ。
この首が大将に匹敵するものかどうか。
彩月は明を離そうとはしなかった。少しの間だからと明が言っても、瑛峻が言い聞かせても離さなかった。無理やり離すと取り乱し暴れ出す始末だ。
「明に何を言い含めるつもりなの?絶対にだめよ」
「では、そこで待っていなさい」
深刻な呆れ顔をされ、扉の前で待てと言われ、ようやく納得する。
明は青い顔をしていた。
無理もない。主人と夫との間で板挟みになり、戦にまで発展するとは思わなかっただろう。
「お前に残酷な仕打ちをしていると思う。だが、決してお前を痛めつけるのが目的ではないと分かってほしい」
明は口を開いたが、何も声は出てこなかった。何を言っていいのか分からないのだ。何度か思いを巡らせたが、やがてうつむいて頷くだけだった。
「お前には、これを見て欲しい」
部屋の中の布を掛けられたそれを見て、明は凍りついた。
青い顔がますます血の気を失い、今にも倒れそうだった。瞬きをするのも忘れ、ただじっとその遺体を見つめていた。
本当は怖くて、見ている事なんてできなかった。実際、ほとんど意識は手放していたかもしれない。瑛峻が何か言ったが、全く聞こえてはいなかった。
硬直する明をよそに、瑛峻は布を払った。
「ひっ……」
声にならない悲鳴が聞こえた。明の喉が鳴っただけの悲鳴だった。
アスドラではない。しかしそれは、良く見知った物の顔だった。
明は近付いてそっとその頬に触れた。冷たく硬くなった皮膚。土で汚れ生気のない白い顔だった。
「この者が誰なのか知りたい」
瑛峻の言葉はだいぶ経ってから耳に届いた。
どれほどの時間がたっただろうか。瑛峻は根気強く待った。
明は人形のように、その場に力なく座り込んだまま動かなかった。息をしているのかすら、定かではなかった。しかし、瑛峻は待った。
明からどうしても聞き出さなければ、先には進めない。
明の掠れた声が聞こえたのは、日が沈んでしまってからだった。人払いをしているため蝋燭の明かりもない。明かり取りの窓から入る星の光がわずかにものの形を判別できる程度に照らしている。
明の声は、はじめ、小さすぎて風の音かと思ったほどだ。瑛峻は数歩近づいた。掠れた声はかろうじて聞き取れた。
「……たし、が、悪いのですね。私が、アスドラを説得できなかったから。あの時、アスドラにもっとちゃんと別れを告げていれば、こんなことには……」
「それはわからない」
瑛峻は逸る気持ちを抑えた。明の思いは今、アスドラに傾いている。無理に言葉を引き出す事はできない。
「明。それは知った者だったか」
「私がこの方の正体を言えば、戦が終わるのですか?その情報で、更にアスドラ達に不利な事になるのなら、私は……」
どうしたら、と思い、ふと思い当る。
「私が死ねば、戦は終わる」
「それは違う」
瑛峻はきっぱりと言い放った。
「お前が死ねば、奴らは更に苛烈に攻め立てるだろう。我々がお前を殺したとして。そして彩月も壊れる」
「ではどうか、お力をお貸しください。私があちらに行けば、戦は終わるのでしょう」
「それでは黄家を守った事にはならない。再び彩月は病み、その風評を止める事はもはやかなわないだろう」
暗くとも明の顔色が更に悪くなっていることは容易に想像できた。
解決の糸口が見つからないのは、みな同じだ。
「私は黄家を守る最善の道を探っている。お前には辛い思いをさせることになるが、もう少しこらえて欲しい」
「私のつらい思いなど、どうでもいいことなのです。そんなことよりも、死んでいく方々の思いは、――もう、彼らは、思う事すら……!」
明が死体の手を握った。
涙も出る様子はなかった。
「若様を、信じます。きっとこの戦を、一番早い方法で止めてくださると」
明の方が、今にも発狂しそうな声音だった。張り詰めた弦が、ほんの一弾きではち切れるような。
「止める。黄家、領民のため、一時でも早く」
「このお方は」
明は死者の手のひらを、そっと頬に触れた。
かの大地で、この人はそっと自分に触れてくれた。優しく、温かく。
困っていることがあれば、いつでも言いなさいと、本当に温かい笑顔で。
「ドゥルジ……私の、義兄です」
今はもうない、手の温かさに。その名を呼んで、涙がこぼれた。
「ドゥルジ……ごめ、なさ……」
言葉にはならなかった。涙と嗚咽で喉が痛くなるばかりで、何も言えなかった。明はそのままずっと冷たく固いドゥルジの手を握り子供のように泣いているしかなかった。
その後も戦は日の出とともに行われ、また日の入りに休息し、それが三度繰り返された。
慣れない弓馬兵との戦に黄家の兵の間には早くも疲労の色が出始めている。大将首を取っても一向に戦に終わる気配が見えないのが兵の士気を更に落としていた。一体どうすれば終わりなのか。誰にも分からないのだ。最後の匈奴兵一人まで殺していかなくてはならないのか。数で勝っていた黄家も、もうじき敵方と同数になろうとしていた。大将首を取ってからというもの守りに徹しているが、じりじりと軍は後退していた。あと数日もすれば城壁まで到達するだろう。そうなれば籠城戦。精神的に追い詰められている状態では難しい。
烈火のように攻め立てられ、城壁からも死体の山は見てとれた。烏や野犬が群がり、地獄絵図が次第に完成していく。
街はひっそりと静まり返っていた。不安を口に出すことすらできない心底の恐怖が街も屋敷も包み込んでいる。
最も苦しんでいたのは明だっただろう。半ば幽閉されるようにして、屋敷はおろか彩月の部屋から出る事すらできなかった。明はここ数日、ほとんど眠る事も食べる事も出来なかった。意識を手放すように一瞬眠っては、叫び声を上げて目を覚ます。その繰り返しだった。顔色はみるみる悪くなり、青白いと言うよりも土気色で死人のような顔をしていた。横になることもせず、宙の一転を見つめ、部屋の隅で壁にもたれ、動かずじっと座り込んでいた。
屋敷奥では連日軍議が行われていた。大きな戦果もないが、さほど大きな被害もない。しかし死体の数だけはじりじりと増え続けていた。
「頃合いか」
ぽつりと、それまで上の空だったように見えた瑛峻が呟いた。
一瞬、場が鎮まる。
「置いてある大将の遺体を出せ。奴らに届ける」
「なっ……こ、公子。それは」
ざわめく会場を無視して瑛峻は続けた。
「遺体とともに出向き、停戦を申し出る」
「この戦の最中に、使者を送ると言う事でございますか」
「そうだ」
瑛峻は視線を向けた。その先には開戦の折の使者がいる。
「――行ってくれるか、孫常」
周囲はざわめいた。
開戦の折にはまだ、使者の理由は納得がいった。しかし今回は、趙人同士であってもあまり例の無い事である。死体を届けて更に怒りを増幅させる事など当然予測できるはずである。
重い沈黙ののち、孫常はゆっくりと口を開いた。
「公子には、何かお考えがおありなのですね」
「ある。しかし、今ここでは言えぬ」
「承知いたしました」
孫常は立ち上がり、しっかりと礼を取った。
「一度は死ぬと覚悟した命。惜しんでいては、黄家を守れませぬ」
「お前の忠義は、誰よりも私が良く知っている。必ず生きて帰ってきてほしい」
「は」
短く答えるのへ、瑛峻は少し緊張した面持ちで頷き、その礼に応えた。
驚くことに、停戦は受け入れられた。
孫常は再び生きて返され、その任を果たしたのだ。
重臣は騒ぎ立てて入れ替わり立ち替わり孫常を訪れ、一体どんな手を使ったのかと尋ねた。しかし孫常はただ、
「若君の命ずるままにしたのみにござる」
と、頑として詳細は語らなかった。
この男の口の堅い所は瑛峻の見込んだとおりだったという事だ。
そして瑛峻の思惑通り、事は運んだ。孫常が帰ってくるまでは、宙に浮いたような確信だった。それが、ようやく地についた気がする。
光明が見えた。
それまで、瑛峻はほとんど眠っていなかった。黄家がこれほどの危機にさらされた事はなく、突然降りかかった災厄に、その重圧を感じ今にも押しつぶされそうだった。それを精一杯の虚勢でなんとか平静を装っていたのだ。
ここへきてようやく、重く息を吐いた。
しかしすぐに思い直す。まだ、油断はできない。
ここで手を緩めるわけにはいかない。
一度、自室に戻った。瑛峻にとって、屋敷の中でここだけが唯一心安らぐ場所だった。自分の家と言えるのは、この一室のみと思っていた。黄家においては、屋敷の表であろうと奥であろうと、自分を殺す事ばかりしてきた。
「崔姫」
突然の来訪に崔姫は驚きながらも、笑顔で迎えた。
「おかえりなさいませ」
ここ数日、執務室にこもって少しも顔を見せなった主人である。今はこの家の大事。これまでもこういった時には帰ってこない事が普通であった。
あやしていた我が子を侍女に預け、ゆったりと頭を下げた。
そっと瑛峻は崔姫を腕に抱いた。ふっくらとした感触に、懐かしくほっとする。崔姫は瑛峻より歳は上であったが、いつも数歩下がって笑顔で後ろに立っている。そんな妻だった。黄家跡取りの側室としての役目もよく分かっており、男児を出産した後も決して出過ぎると言う事がない。
「お顔の色がすぐれませぬ。何か、用意させましょうか」
「いや、いい」
瑛峻は崔姫を離した。すぐに出て行くつもりだった。
崔姫の両手を取り、子どもの顔を見てからゆっくりを目を閉じた。心地いい温かな手の感触。崔姫の肌は仕事を知らない、吸いつくような玉の肌だった。ずっと触れていられるならどんなにいいことか。
「元気をもらいに来ただけだ。もう行かねば」
「はい。――お気をつけて」
それしか言う事ができない。
しかし次の瞬間、崔姫ははっとした。
瑛峻の表情は、今まで見た事もないほどに冷酷で色の無い顔をしていたのだった。
冷たい氷の刃のような、研ぎ澄まされた顔だった。
「私は、鬼になる」
「旦那様……」
不安な声を出してしまい、崔姫は慌てて瑛峻の手を強く握った。
「お待ちしています。お帰りを、いつでも」
表情は硬いまま、瑛峻は笑った。
「ありがとう。お前がいてくれるから、私は行ってこられる」
瑛峻は迷いを捨てるように、振り返らず部屋を後にした。
一直線に、向かう先は妹の居室だった。
どうか、この下の
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎をちょん、としていただきましたら
大変励みになります。
よろしくお願いします。




