11 再会
明の出産から、一週間が過ぎた。
瑛峻の付けてくれた乳母は非常に優秀で、足りない母乳は補ってくれるし、明を尊重してよく抱かせてくれるが泣き出すとすぐ変わって世話をしてくれる。乳母自身の出自も上流ではなく、蛮族の子と蔑むこともない。明はほとんど苦労することなく心身の回復に専念することが出来た。おかげで一週間も経てば、ご飯も普通に食べて動けるようになった。
それほど育てているという実感もあるかないかの内に、通常通り彩月と日々を過ごし、彩月が勉学や読書をしている間、後は夜間がもっぱら明と赤ん坊の時間だった。
一週間も経つが、まだ名前も決まっていなかった。
名前を付けられないでいるのは、そのまま、この子の将来の不安が重くのしかかっているからだった。
このままここで育てていいのだろうか。確実に差別され、後ろ指を指されるここで。隠しても隠しきれないこの顔立ち。
日に日にアスドラを思わせる目鼻立ちになるこの子に趙国の名前を付けるのか。付けて良いのか。
そんな事を考えながら過ごしていた、夕食後のひとときだった。
急に館が騒がしくなった。ばたばたと足音が右へ左へと乱れ、がちゃがちゃと金属音がする。
明はちょうど彩月の裁縫に付き合って赤ん坊をあやしていたが、二人は思わず顔を見合わせた。
「何かしら。随分騒がしいわね」
「見て参りましょうか」
「――私も行くわ」
立ち上がった明に続いて、彩月も手を休めた。
「警備の兵士が慌てているみたいだもの。珍しいわ」
扉を開けると、ちょうど通りかかった兵士がいた。中年の男は早足で通り過ぎようとしていたが、二人の姿を見ると慌ててその場に膝をついた。
「何があったの?」
「は、侵入者が現れたとのこと」
館の中に入り込むなど、珍しい。明は彩月を押しとどめるようにして部屋へ入ろうとした。侵入者なら、彩月を守らなくてはならない。
「お嬢様、中へ」
「何者なの?」
「詳しくは、未だ。蛮族とだけ聞いております。夜闇に紛れ塀を越えたようですが、既に一人捕縛しております。念のためこちらにも至急警備の者を集めます故、どうかお部屋にお戻りください」
話の後半は、ほとんど聞いていなかった。
蛮族!しかも、闇に紛れてということは一人で来たのかも知れない。
まさか。
胸が高鳴るのを感じる。
「どこです……」
震える声を抑えられない。赤子を抱く片手に、自然と力が入る。
警備兵が怪しんで窺うような顔をするのも、気にならない。
「ひとまず格子のある離れの書房へつなぎ、仔細を……」
言い終わらないうちに、駆けだしていた。
もしもそうなら。何を置いても、会わなくてはならない。背中がひやりと冷たくなった。初めは早足だったのが、すぐに駆け足に変わっていた。
彼ならば。もしもそれがアスドラならば。――何を置いても行かなくては。何を持ってしても、守らなくては。たとえ自分が殺されようとも。
「明!どこへ行くの!」
「いけません、お嬢さま!」
彩月とそれを制止する侍官の声を後方に聞いたが、止まることは出来なかった。
暗い廊下を逸る気持ちでただ走っていた。
書房の近くでは、瑛峻が兵士に指示を出していた。明は急いでそれに駆け寄る。
「捕らえた者は……」
「明。彩月はどうした?」
「部屋においでです。若様……!」
赤子を抱え、息を切らせてやってきた明に、瑛峻は表情を崩さなかった。
「匈奴の兵士だ。知り合いか」
「分かりません。でももしかすると……」
瑛峻がどこまで気づいているのか、わからない。だが血相を変えた自分を見たら、察しの良いこの公子のことだ、多くを語らなくても分かっているのかもしれない。
「会って、何を話すつもりだ?」
「……………」
聞かれても咄嗟には答えられなかった。何を言うかなど、はっきりとは考えていなかったのだ。
「言えないのか。――共にここを出て行くつもりか。それとも、別れを告げるつもりか。会わせるかどうかは、その返答による」
言われて、明は視線を泳がせた。
ああ、この公子は気づいている。しかし、今はそのようなこと構ってはいられない。
だが問われると、返答に詰まった。もしアスドラなら、会って何を言おうというのか。単身自分の元にきたと思うと、胸が張り裂けそうなくらい嬉しい。同時に、命の危険にあるアスドラを思うと辛くて苦しかった。
会いたかった。だが、彩月を置いてついて行ける訳もない。
迷いを見せる明を見て、瑛峻は溜息をついた。
「済まぬ。私は本当に、残酷な事を行っているな」
思わぬ優しい声に、明は顔を上げた。
瑛峻は明を促して、書房が見えるところに連れてきた。
遠目に明は必死で目をこらす。
格子の向こう、一人の人影。傷だらけで動きがない。だが、あれは……。
明ははっとしておもわず一歩踏み出した。衝撃に声も出ない。
「あれはお前の夫か」
「…………はい」
かろうじて、しばらく立ってからの返答。声が掠れている。だが、瑛峻は動じなかった。
「そうか。その子の父なのだな」
「はい」
明はぎゅっと赤ん坊を抱きしめた。
「お前を追って単身わが屋敷に乗り込んできたか。――流石は牧民の若者。その胆力は聞きしに勝るな」
「彼は……どうなりますか」
瑛峻は明を見下ろし、赤子の頬に手をやった。
「この屋敷に入った理由を吐かせ、使えるようなら人質として使う。使えなければ殺す。――だろうな、従来であれば」
背筋が凍り付くような感覚に襲われた。震えそうになるのをぐっとこらえる。
「若……様」
「命を救うことはできる。奴が、二度とこの土地を踏まぬと約束できるなら」
瑛峻は配下の者に、扉を開けるように命じた。
「お前を追ってきたのだ。話すと良い」
それは思いも寄らぬ言葉だった。温情でそんなことを言っているとは思えなかったが、瑛峻の意図が何であれ、会話をこうも簡単に許されるとは思わなかった。どうやら瑛峻には、蛮族と心を通わせた明を咎めるつもりはないようだ。蔑む素振りもない。
「若様」
「話して、共に帰りたいなら行け」
弾かれたように明は顔を上げた。
共に帰る。それは、考えないようにしていたことだ。必死で忘れようとしていたことだ。狼狽しているのを隠す事も出来ず、明は視線を泳がせていた。瑛峻は間髪入れず言った。
「彩月を思い、残るのなら、奴を説得しろ」
瑛峻の言葉に再びはっと考え直す。――そうだ。彩月を置いて行けるわけがない。
「夜明けまで待つ。――事が公になってはならぬ故、夜明けまでに去らぬ時は、処理すると思え」
「―――はい」
答えは決まっていた。瑛峻の厚情に、明は頭を深く下げた。
「アスドラ……」
聞き慣れた、声。疲労に意識を手放しかけていたアスドラは弾かれたように入り口を見た。
「明!!」
「アスドラ!」
明は駆け寄って、傷だらけのアスドラに泣きそうな声を上げた。
「なんて、危険なことを……!」
頑強な身体についた、無数の傷。いとおしい体、いとおしい声。明は涙が出そうになるのを必死にこらえた。そっと身体に触れる。その温かみにやはり涙をこらえることはできない。
アスドラが優しく力強く抱きしめてくれる。
大地の匂い。変わっていない。
二人は長い間言葉も交わさずに、抱き合ったままでいた。何を言う必要もなかった。アスドラは明に何も聞かず、明もアスドラに何も言う言葉は見つからなかった。
「アスドラ……」
「帰ろう、明。迎えに来た」
「アスドラ」
嬉しくて、溜まらなかった。たった一人でこんな所まで迎えに来てくれた。
「会いたかった、アスドラ。何度貴方の夢を見たことか」
「俺もだ。お前が居なくては、何をしてもこの世にいないようだった。――それは」
アスドラが明の手元に視線を落とす。
明は涙を浮かべたまま、にこりと笑った。
「貴方と私の子です。アスドラ、貴方に似ているでしょうか」
「ああ……ああ!」
アスドラが心底嬉しそうな顔をする。それを見ると、明の心もふっと軽くなった。
「立派な子だ。明、よくやった。お前は本当に、最高の妻だ」
明が子供をアスドラに抱かせた。アスドラの腕に収まると子供はいっそう小さく見える。
「名は考えたか?」
「いいえ、まだです。つけてやってください」
「そうだな。しっかりと、考えてやらねば」
アスドラはそっと赤ん坊の頬を撫でた。赤ん坊は今は寝息を立てて寝ている。
「お前が去って、一族の中にはお前は趙に望んで帰ったのだという者もいた。だが、俺は信じなかった。準備に時間がかかったが……こうして会うことができた」
「アスドラ……」
「いい。説明は要らぬ。お前が俺の元を、望んで離れるはずがない。理由など聞かぬ。この子を見れば、お前の気持ちは分かる」
明はごくりと息をのんだ。
「――いいえ、アスドラ」
明の声音に、アスドラが怪訝な顔をするのが分かる。拒絶の言葉を聞くことになるなど、思いもしなかったのだろう。まともに彼の顔を見ることができなかった。
「この子と共に、帰ってください。どうか、私のことは忘れて……」
「何を言っている?」
「私はここに、残ります」
「――メイ」
がっしりと肩を掴まれる。それでも明はアスドラの顔を見れなかった。
「メイ、俺を見ろ。どういう事だ。俺と共に帰りたくないのか」
「帰りたいと、ずっと思っていました。でも……私はここを離れるわけにはいかない」
「どういう事だ」
「ここには、私がお仕えしていた方がいます。その方は、私がいなければ生きていけません」
話しているうちに涙が出てきた。思いはとうにアスドラと共にあるのに。どうして、離れなくてはならないのか。
いや、そんなことを考えてはいけない。だって自分は、ここにいるべき人間なのだから。
「メイ!」
「私が勝手だったのです」
明はとうとう泣き叫んだ。
「奴隷の身でありながら、こんな幸せ、許されるはずがない!アスドラ、貴方への愛を、私は全部あの大地に置いておくから……!だから、帰って――」
アスドラを直視出来ず、明は目をつむった。最後は泣き叫ぶような声になってしまっている。
「違う!奴隷などと関係ない。お前はどうしたいんだ。どうして、己の望むことを為そうとしない。投げ出してしまう。お前が終わらせてしまっては、おれは、この俺の思いはどこへおいていけばいい!」
「この子を……アスドラ、この子に、私にくださった愛を全て、どうかこの子に」
アスドラは激しく首を振った。
「嫌だ!俺はお前を愛している。誰もお前の代わりになどなるものか!」
「アスドラ……」
お願いだから手を放してくれと、明はアスドラに縋った。
「趙人でありながらアスドラは私に優しくしてくれた。一族の皆も。そんな皆を苦しめる事なんて、できない……!」
「メイ。お前は、また間違っている。お前に皆が優しかったのは、お前が趙人であることを鼻に掛けず、何にでも努力を惜しまなかったからだ。同じ趙人でありながら鈴は我らを見下し、決して我らを理解しようとしなかった。ただそれだけの違いだ。だからお前はもう俺たちの一族だ。皆、戻ってこいと言ってくれた」
「それでも……」
明はアスドラの指をそっと包んだ。
「私の体は一つ。もとより、この家の所有物だったのです」
「メイ!」
アスドラが子を抱く腕に、そっと手を添えた。
「貴方の子です。アスドラと私が夫婦であった証。ここではこの子は育ちません。憎まれ、蔑まれてしまう。どうかあの大地で、自由に馬と風と共に育ててやってください」
「メイ……俺には出来ない。お前なしで、この心の穴をふさぐものなく、生きてなど……」
「できます。アスドラは誰より強い。私の愛した人だから」
明は立ち上がった。涙はもうなかった。
「主人が、貴方が二度と来ないのであれば逃すと約束してくれました。その子を連れて、帰ってください」
「メイ……お前はそれで良いのか。一生そうやって生きていくのか。それがお前の生き方なのか」
「――そうです。元は死んだ命。これが私の道なのです」
呆然として、言葉が無いようだった。明は振り返ることもできず逃げるようにしてその場を後にした。
走り去っていく明と入れ替わって、瑛峻は書房に入った。
「話は済んだか、北方の民よ」
赤子を抱いたまま、アスドラはその場から動けずにいた。あまりの衝撃に頭を抱えているようだった。
激情型だな、と瑛峻はその男を見て思った。
体つきもよく、年も若い。どうやら明とは恋仲にあったようだ。お互いに望んで夫婦になったのだということも分かった。それで赤ん坊を育てたいと言った明の行動にも納得がいく。だが、そんなことはたいした問題ではない。
明が彩月の元に留まることを選び、この男は帰るしかない。赤子も手渡したことにより、男は帰るだろう。結果はそれで十分だった。
「兵士に領地の端まで送らせる。子供共々、二度とこの地に踏み入るな」
「お前が……メイを縛っているのか」
ぼそりと低い声。瑛峻は動じずに答えた。
「私ではない。彼女が自分で決めたのだ」
「とてもそうは思えない。俺たちの土地では、メイはあんなにも生き生きとしていた。それがここではどうだ。あんなにつらそうにして……」
「なんとでも言うがいい。誰もが、いつでも望む選択ができるとは限らぬ」
アスドラは嘲るように笑った。
「上辺だけのお前ららしい物言いだ。メイを縛り、あたかもメイの判断のように言わせて、その実お前達がメイにああ言わせているのではないか」
北方の民の言い分など、聞く気は無かった。瑛峻は話を終わらせようと言った。
「それがなんだというのだ。黄家の、我が一族の永続のためであれば、私は何でもする。しなくてはならないのだ。所詮蛮族。我らの思いなど理解は出来まい」
「できぬな。思いを押し殺し続け、何の繁栄か。誰のための栄華だというのだ」
瑛峻はアスドラを見下ろした。この男には分かるまい。
幼い頃から教えられてきたのだ。家のため。一族のため。自分の両肩には、もう取り払えないほど重く、数千人の領民と数百人の一族、家臣の命がかかっている。それよりも己の感情を優先するものなど、あってはならない。
アスドラはゆっくりと立ち上がった。どうやら帰る気にはなったらしい。
「明は俺を愛している。俺はあいつのためなら全てを捨てられる。お前にはそんなものもないのだろう」
「私は家のために生まれた。家のために死んでいくのだ。それが私に課せられた宿命」
アスドラは大きく吐き捨てるように笑った。
「宿命などない!漢人が手前勝手に義理だの、忠義だのと振りかざすために造った偽物の役割だ。人は自然に生まれ、生き、死んでいく。ただそれだけだ」
「蛮族らしい物言いよ。お前に、一族領民の命を抱える重さなど分かるまい」
「本当に抱えているのか?案外、お前などいなくても皆生きていけるものだぞ。一人で重い重いといいながら、抱えているのは幻など。とんだ笑いものだ」
「幻などではない!」
瑛峻は初めて声を荒げた。アスドラの言葉が、どうしても許せなかった。
全てを耐えてきたのだ。
生まれてからずっと、黄家の嫡子という重荷を背負って、今まで生きてきた。あらかじめ決められた道を進む以外、方法などない。おかしいと思っても、それが法であれば守らねばならない。風習であれば合わせねばならない。
「楽なのだろう」
アスドラの冷静な声に、瑛峻は睨み付けるように目をやった。
「決められた道を進み、人に行き先を教わることが」
「楽なものか。お前に望まぬ選択を強いられる者の思いが分かるものか。ただ馬に乗り、自由に生きる貴様らに」
アスドラが不敵に目を細めた。
「やはり不本意であったか。案外、素直だな」
瑛峻は思わず開いた口をふさげず、はっとして首を振った。心なしか頭痛を感じる。
絶対に分かり合う事はないのだ。決められた役割に収まることと、自由に草原を掛けること。お互い、手に入れられる物、捨てなければならない物が真逆過ぎる。
「連れて行け」
瑛峻は配下に命じ、アスドラを連行させた。
「俺は諦めぬ。必ずメイを取り戻しに来る。メイが望む限り」
「次は首を落とす。その覚悟で来るがいい」
そう言って脅しを掛けたが、匈奴と言われるその男にどれほどの効果があるのかは疑問だった。




