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蒼天と草原の大地から  作者: サイ


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10 新しい命

 半年は瞬く間に過ぎていった。

 明のお腹は次第に目立つようになり、やがて臨月を迎えた。

 陶専は公子に付いて都と領地を行き来していたが、出産が近くなると領地にとどまるようになった。

 そして夏の満月の夜、明は無事に男子を出産した。

 出産は予想以上に時間がかかり、一日近くに渡る難産となった。生まれた頃には空も白んでいる。だが産まれてしまえば母子共に健康で元気だった。

 赤ん坊の泣き声が館に響く。ほっとする反面、微妙な空気が流れた。

「先生……」

 憔悴(しょうすい)して、汗にまみれながらも、明はなんとか意識を保っていた。この子がお腹にいるとわかったときから、決めていた。絶対にこの子の盾となり、この子を守り育てると。

 出産が近づくにつれ、彩月が、そして館の者が、もうすぐ死ぬ子を産むのだと言っているように思った。だから、絶対に手放してはならないと感じていた。

「目鼻立ちがはっきりしている。確かに北方の血を持つ子だな」

 そう言って、布にくるまれた赤ん坊を明に見えるように差し出してくる。

 産着すら用意することはできなかった。しかし赤ん坊は、絹の布にくるまれて落ち着いていた。

「この子が……」

 まだ目も良く開いていない。本当に真っ赤な顔をしていて、しわだらけだった。髪も短く、まだ産湯にもつかっていないため汚れていたが、時折声にならないような声を上げて、手足を力強く伸ばしていた。

「――可愛い」

 思わず笑みがこぼれた。

 指一本動かすのも億劫だったが、なんとか左腕を差し出す。片手では上手く抱けず、陶専は赤ん坊を明の胸に置いてくれる。恐る恐る、左手を添えた。温かい体。ほっとため息が漏れた。

「ありがとうございました。先生。本当に、ありがとうございます」

 涙がにじんで来る。ずっしりと腕に感じる重みが、とても心強かった。

 無事産まれた。この世に生み出すことができた。この先何が待ちかまえているかはわからなくても、とにかくこの子は産まれてきたのだ。

「健康な男の子だ。よく頑張ったな」

 そう言う陶専も汗でいっぱいである。心から感謝して、明は頭を下げた。

「私が扉を開ければ、公子も彩月様も入ってくる。心の準備はよいか」

「先生は……」

 どうしてそれほどよくしてくれるのか、聞こうとしたが、上手く言葉にはならなかった。

 質問を待っている様子の陶専に、少し違った質問になる。

「先生は、匈奴を何と思われているのですか」

「それは、難しい質問だな」

 陶専は手に持っていた布で自分の額から汗をぬぐうと、一つ息を吐いてその場に座った。

 ゆっくりと手を伸ばし、赤ん坊の小さな手に触れる。

「かつて私はその北方の民に多くの同胞を殺された。憎しみに駆られ、私も彼らを根絶やしにしてやると、討伐軍に加わったこともある」

「では、どうして……」

「一つには、きりがないからだな。この戦いに終わりはない」

「……………」

「明、お前が想像している以上に、北狄(ほくてき)と趙人の溝はずっと深い。これは単純に、生活の習慣、文化の差という問題ではない。確かに我らが荒地で生きてゆけぬのに反し、遊牧民は耕した土地では生きてゆけぬ。しかしもっと底に根深い問題があるのだ」

「どういう、ことでしょうか」

 陶専は立ち上がると、そっと窓を開けた。熱のこもった室内に涼しい風が吹く。

「人はな、基本的に人を差別する生き物なのだ。そしてそれは、無意識にも起こる。たとえ奇跡が起きて趙人と牧民が和解したとしても、ひとりひとり、お互いの間にある、お互いを蔑む心までは誰にも消し去れないだろう」

 明は眉を寄せて、じっと自分の子供を見た。

 やっと出てきたこの子に、この先降りかかるだろう視線はどんなものか。

「――よく考えるのだ、明。どうすればその子を健やかに育てられるのか」

 そんなことを言われても、どうすればいいのか想像も付かない。

「まずは当面、その子を守ることだけを考えればよい。――いいな」

 明は固く頷いて、子供をしっかりと抱いた。扉が開く。

 一気に、彩月が駆け込んできた。

「明、ああ、無事だったのね!」

「お嬢様……。ずっとついていてくださったのですね」

「当たり前じゃない。明が苦しんでいるのに、私だけのうのうとなんてしていられないわ。――さあ、お前達!」

 彩月の声に、侍女が二人、すっと入室して来た。頭をさげ、そのまま明の寝台の脇へ来る。

「さあ、明。その子をこちらへ」

 顔見知りの侍女だった。白い袖が、すっと差し出される。

 彩月の顔を見上げると、彩月はにっこりと笑った。

「明、何も心配することはないわ。その忌まわしいものはすぐに消えて無くなるのよ。何もなかったことになるのだから。渡してしまいなさい」

「お嬢様……」

 ぎゅっと、手に力が入る。固まる明にしびれをきらし、彩月は侍女に厳しい視線をやった。

「何をしているの。早くおやりなさい」

「は、はい。――明、さあ、渡して頂戴」

 腕が赤ん坊を取り上げようと伸びてくる。明は思わず自分の袖で隠すように赤ん坊を抱きかかえた。

「明?」

 彩月の不審がる声。

「何をしているの?どうしたの?」

「お嬢様……私は、この子を育てたいのです」

 消えそうな声だったが、何とか絞り出した。彩月の顔が曇る。眉を寄せて、怪訝な顔を明に向けた。視界の端に、扉の側で公子が身動きするのも見えた。

「どういう事?分からないわ。何を考えているのか」

 彩月はここで初めて赤ん坊を見た。赤子であるというのに、もう匈奴人の顔立ちをしている。彩月は大きく息を吸うと、みるみる怒りを露わにした。

「なんて憎らしい……その目鼻立ち。なんて忌まわしい顔立ち。これほど明を苦しめておきながら、寝息を立てて寝ているわ」

「彩月様」

 宥めるように、ゆっくりと名を呼ぶ。彩月は憎しみの視線を外し、明を見た。

「ああ、分かったわ明」

 彩月がそっと明の肩に手を置いた。

「明は優しいから、この子供の身を案じているのね。まったく、なんてお人好しなの。同情は無用よ。自分にされたことの報いを、受けさせればいいの」

「いいえ、この子には何の罪もないのです。どうか――」

 言い終わる前に、彩月は奪い取るようにして赤ん坊をつかみ取った。右側から取られたため、動かない腕ではどうしようもなかった。明は慌てて起きあがった。めまいと頭痛に襲われ、少し動けなくなる。

 突然母親から引き離され、片手で汚いものを触るように乱暴に掴み上げられた赤ん坊は火がついたように泣き始めた。まだ上手く泣くことも出来ない。擦れたような声で必死に泣いていた。うるさいと言わんばかりに彩月はもう片方の手で口を覆いながら侍女に赤子を渡そうとする。まだ座っていない頸が垂れる。

 明は真っ青になって彩月の袖を掴んだ。

「お待ちください。彩月様、お願いです。その子を私に返してください」

「何を言うの。子供を産んで今は少し気が動転しているのね」

「違います。お嬢様!」

 初めての、明の激しい声。彩月は怯んだ。その隙に明は左手で赤ん坊を掴みながら支えた。片手では、やはり奪い返すことは出来ない。

「おかしいわよ、明。この子が憎いでしょう?忘れてしまいたいじゃない」

「いいえ」

 これだけは譲れない。明は必死で彩月に訴えた。

「お願いです。私の子なのです。お腹を痛めて、今やっと産むことが出来た、ただ一人の私の子供なのです。私などに子を産む権利などないと分かっている。けれど、お願いします。明の最初で最後のわがままです。この子を私にください。私に育てさせてください」

「どうしたというの。この赤ん坊は、紛れもなく蛮族の顔立ち。これを育てるというの?」

「愛おしいのです。私から生まれたこの子が。どうしようもないほど、愛おしいのです」

 汗にまみれ、自分に縋る明を、彩月はまじまじと見下ろした。二人とも固まって、ただ、赤ん坊の泣き声だけが響いていた。

「彩月、明……」

 静かな声が後方から聞こえた。瑛峻である。傍らには陶専。明は一瞬そっちを見たが、すぐに赤ん坊に視線を移した。

「彩月、その赤ん坊を離しなさい。明、赤ん坊は取らぬから、寝台に戻りなさい」

 彩月の不服そうな顔が瑛峻に向けられる。瑛峻は少し困惑顔で、それでも有無を言わせぬ様子で二人に命じた。

「陶専の話によると、長時間の難産で明の体は今休息が何より大事と。彩月、明を興奮させるんじゃない」

「だって……」

「早くしなさい。私の言葉が分からないわけではないだろう」

 彩月は渋々、手を離した。明は慌てて子供を抱き留める。その拍子に少しふらついて、慌てて彩月に支えられた。

「――彩月」

 瑛峻は少しやれやれ、といった様子で歩いてきた。明の体を起こして寝台に座らせる。

「彩月、お前はもう少し、人の命を大事にすることを学びなさい。――いや、人に限らず、生きるものの命について」

「この赤ん坊は人ではないわ。生きてもいないはずのものだったのよ」

「はず、ではなく、今生きているだろう?軽々しく殺すだの消すだの、言うものではない。仮にも人の上に立つ黄家の子女である自覚があるのならね」

「お兄様は平気なの?こんなの、あんまりじゃない」

「お前の気持ちばかりじゃないか。明の言葉を聞いていたのか?明は、子を育てたいと言っているだろう?殺して欲しい、なかったことにして欲しいなんて一言も言っていないんだ。今まで一度だってね」

 どきりとして、明は瑛峻を見上げた。北での生活のこと、察しているのか。しかし次の言葉がその思いを否定した。

「子供を愛しいと思うのは母親であれば当然のことだ。明はもう奴隷じゃない。使用人だろう?子供が生まれたら、暇を出してやるものだ。我らは自分に仕える使用人を守るものだ」

「……………」

「使用人にすると言ったのは彩月、お前だろう。黄家の娘は、軽々しくものを口にしない。嘘偽り、約束の反故などあってはならないからだ。そんなことを続ければ信用をなくすからね。――これは私がいつもお前に言っていたことだよ」

「分かっているわ」

「だったら、どうすればいいのかもう分かるだろう?」

「暇は出さないわ」

「彩月」

「でも何もしなくていいから。私の側にいてくれるだけで。赤ん坊のことは、またいずれ考えるから」

 瑛峻は軽く頷くと、明に向き直った。

「明。乳母を付ける。幸い、先日生まれた私の子に付ける乳母の候補がまだ職を探しているからな」

「いいえ、そこまでしていただくわけには!」

 瑛峻は明の台詞を押しとどめるように、そっと頬に触れた。温かい手だった。

「子供一人育てるのは大変なことだ。今は甘えなさい。――体が冷たい。顔も真っ青だ。早く横になって、体を回復させる事だけを考えなさい」

 赤ん坊はやっと泣きやんでいた。まだ眠ってはいないが、目を閉じている。静かになって、急に体が重くなったように感じる。思った以上に、体は酷く疲れていた。

 瑛峻が声を掛けて、皆が退室していく。彩月も何も言わずに部屋を後にしていった。

 侍女が一人だけ、何か用のあったときのために残ってくれた。

 きっと、瑛峻に陶専がうまくいってくれたのだろう。感謝しても仕切れない。そして、瑛峻の有り余る庇護にも。

 明は傍らに赤子を抱えながら、寝台に横になった。

 



 一日経った夜中に、頭をなでられる感覚にゆっくりと目を覚ました。

 いつも眠りは浅いのだが、流石に今日は泥のように眠っていた。

 蝋燭の明かりで、彩月がいるのだと分かる。目覚めたことに気づいたのか、じっと目を見つめてきた。

「明、大丈夫?」

「……はい」

 昨夜の事があるため、少し居心地が悪い。

「ごめんなさい」

 先に謝られて、明は少し目を見張った。

「どうして、謝られるのです」

「明に自分の気持ちを押しつけていたの。兄様に懇々と言われて、それに気づいたから」

「お嬢様」

 明は微かに笑った。

「謝るのなら私の方です。とんでもない我が儘をいっているんですから」

 彩月はその台詞に、明から目を離して寝台に頭だけを預けた。床に直接座っているらしい。

「今日はずっと、よく泣いていたわね。ちゃんと眠れている?」

「この子が寝ているときに、寝てるから大丈夫です」

「――私ね、気づいたの。明がいたら幸せなんじゃないの。明が笑って、私の側にいてくれるから幸せなの。だから、明。早く元気になって、また一緒に遊びましょう」

「彩月様……」

 ずっと考えていたのだろうか。昨日もろくに眠っていないというのに、彩月の方こそ体が心配だ。だが、よほど瑛峻に言い聞かせられたのだろう。こんなに落ち込んでいる彩月も久しぶりに見る。

「彩月様」

「ん?」

「若様のお説教、三年ぶりですね」

 明の言葉に彩月はちょっと疲れた笑顔を見せた。

「本当。兄様ったら、都へ行ってますます口が達者になったのよ。もう言い返す隙なんて一つもないんだから」

 そう言ってくすくす笑うので、明もつられて笑った。

 昔から彩月は兄の言うことには絶対に聞くのだ。

 それだけ尊敬しているし、たった一人の兄妹だからだろう。

 その格好で寝るのか、と思ったが、耐えられないほどの睡魔が襲ってきて、明はそのまま眠ってしまった。


どうか、この下の


⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎をちょん、としていただきましたら


大変励みになります。


よろしくお願いします。

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