1 襲撃
夕暮れ近くになって、一行はゆっくりと帰路に就いていた。馬車二台と、それを取り囲むように護衛が数人。影が長くなっている。
「少し遅くなってしまったかしら」
明るい声で少女は馬車から見える空を見てそう呟いた。適度な馬車の速度に、通り抜ける風が心地よい。馬車といっても、屋根は無く、傘のように広げた布を張っているだけである。景色も良く見えるし、風も感じられる。その風を感じていた明は、主人の声に軽く頷いた。
明の主の名は彩月と言う。今年で十五になる、明と同い年のたった一人の主人である。紅色の着物に、華やかな桃の柄の帯を締めている。彩月はこういった如何にも姫らしい格好がよく似合う。
「お嬢様が、あんまり遠くへ行かれるから」
そう答えたのは彩月の乳母だった。馬車にはこの三人しか乗っていない。
今日は彩月の発案で、領地の中の平原へ遊びに来たのだった。
「だってもう少しで、あの動物を捕まえられるところだったのよ。ええっと……何だったかしら」
「鼬です」
明の答えた言葉に、彩月は本当に悔しそうに何度も首を振った。
「本当に惜しかったわ」
「お嬢様」
乳母がさっと眉を寄せた。
「もう子供ではないのですから、いつまでもそのようなことをなさらないで下さいませね」
「あら、子供でなくても殿方はみんな狩りをなさるじゃない。ねえ、明」
「お嬢様は殿方ではありません!――明も、何もかもお嬢様の言うとおりにすればいいというものではないのですよ」
明が返事をしようとするのを遮って、彩月が素早く明の身体に抱きついてきた。ふわりといい香りがする。
「駄目よ、明は私の事が第一なんですもの。ねえ明?」
「――はい、お嬢様が一番です」
彩月がにっこりと笑うのと見ると、つられて明も笑った。
明は彩月の喜ぶことなら何でもしてあげたかった。五つの時に領主、黄家の主である彩月の父に拾われ、ずっと黄家唯一の姫である彩月の側で共に育てられてきたのだ。この明るい主人を、一生守っていこう。明はそう心に決めていた。
その時。急に馬車が加速して走り出した。
彩月の身体が大きく傾き、明は慌てて受け止めた。
「何……?」
彩月が不安そうな声を出し、乳母が少し強張った声を御者に掛けた。
「どうしたのです」
すぐに左右を守る衛兵の緊張した声が返ってきた。
「匈奴の騎馬です。振り切るよう速度を上げております」
匈奴!
その名前に、三人の顔に一斉に恐怖が浮かんだ。匈奴――北方の異民族をそう呼ぶ。
馬にまたがり、草原を掛け、略奪、暴挙の限りを尽くす人面獣心の輩達。その者たちに人の心は分からない。彼らはただ、己が欲望を満たすために凶悪の限りを尽くす。小さいころから、そう教わっていた。
警戒を怠っているわけではなかった。
時は春秋戦国の世。かつて中国全土を支配し栄華を極めた周王朝の権威は損なわれ、異民族の脅威は北方のみならず日に日に拡大している。この大陸北方の領土は現在、『趙』の支配下にある。周王に憚り王を名乗ってはいないが、趙は中華北部を支配する三侯の一。実質、税を納めているのも趙となりつつあった。
趙の領土は常に北方を匈奴の脅威にさらされている。土塁を築き、騎馬が越えられぬよう備えているのが、今の精一杯の対策だ。中でも黄家の領土はその北方に位置していた。
土塁は築いてはいても、せいぜい人間の腰程度の高さ。人を配置していなければ騎馬にとって、決して越えられぬ障害というわけではない。警備の手薄な場所から度々領土を侵略しては、匈奴は略奪を繰り返していた。
騎馬の機動力、戦闘能力、どれも王朝の軍事力を大きく上回っていた。この時代、馬に直接乗るという発想は漢民族には、ない。それは野蛮で著しく民族の誇りを穢すものとされていた。そもそも、匈奴の胡服と違い、趙兵の鎧では武装が邪魔で、とても馬にはまたがれない。故に、土塁を築くのが精一杯ということだ。
後に趙君を名乗った武霊王が胡服騎射を命じ、趙の兵にも匈奴のような格好をさせて騎馬兵としたのは、現趙候の次の代。もう少し後の話である。
騎馬をする供をつけていない一行が匈奴に遭遇すれば格好の餌食になる。この行楽には彩月らを乗せた馬車の他には徒歩の歩兵が数人と、もう一つ荷物を載せた馬車があるだけだった。
匈奴の狙いは、いつも略奪だ。領土を侵略するわけではないので、勝利も敗北もない。その高い機動力に物を言わせ、奪えるだけ奪い取ると、どこへともなく去っていく。
のちの世には「秋高馬肥」という言葉が伝わっている。「天高く馬肥ゆる秋」とも言われる。秋になれば夏草をしっかりと食べ、成長した馬を引き連れて北方の民族が略奪にやってくる、という教誡である。
季節はまさにその秋だった。しかし、趙でも北の方に位置するとはいえ、ある程度国境からは離れたこの平原にまで奴らが来ることはあまりなかった。護衛はいるとはいっても、ただの黄家の私兵。あくまでその辺の無頼者を寄せ付けないため程度にしか連れてきてはいない。匈奴の民には王直属の軍でさえ一筋縄ではいかないものを、数人の護衛兵ごときで防げるわけがない。
馬車はどんどん速度を上げていった。
彩月は恐怖のあまりに震える身体で必死に明にしがみついていた。何か喋ろうものなら、たちまち舌を噛んでしまうだろう。激しい揺れに揺れる彩月の身体をしっかり抱きしめながら、明は遠くの音に耳をすませた。
馬車を引く馬は二頭、乗っている人数は四人。敵は騎馬、しかも北方の駿馬に、歩くと同時に騎馬を覚えた者が乗っていると聞く。追いつかれるのは時間の問題だろう。そうして、一体どんな目に遭うのだろう。捕まった民は北国で奴隷として働かされると聞いた。彩月にそんな目に遭わせるわけにはいかない。この絹のような白く美しい手を、仕事で荒れた自分の手のようにする訳には。
「お嬢様」
ぐい、と肩を離して、明は自分の上衣を脱いだ。
「上着をお脱ぎ下さい。私と交換いたしましょう」
「上着を?」
「はい。敵は高価な着物につられるはず。敵が私に気を取られている隙に、どうかお逃げ下さい」
「何を言うの」
彩月は青い顔をさらに青くした。
「逃げるのはおまえと一緒よ。明、一人でなんて行かせないわ」
「お嬢様」
蹄の音が遠くに聞こえる。見れば土煙りも上がっているようだった。敵はもう、すぐそこまで来ているのだ。
明は焦る気持ちを顔に出さないよう気を付けながら、無理に笑った。
「お嬢様、覚えておられますか。お嬢様との遊びで、明は騎馬を覚えました。単騎でしたら、奴らを捲くこともできます。ご心配なさらないで下さい」
「お嬢様、さあ。明の言うとおりに」
乳母が半ば無理矢理に彩月の着物を脱がせ、明の物と交換した。明は急いでそれを着ると、馬車の扉を開けて辺りを見渡した。
「明!」
彩月は乳母に抱き留められ、明には近づけない。明はそれに笑顔を向け、馬車の囲いを乗り越え、前に移った。
御者の横に立ったが、砂塵が舞い、視界が悪くなっている。それでもこの赤い着物は目立つだろう。
「馬をください!」
明の格好とその言葉に察したのか、私兵の隊長は片手で部下に合図した。兵士の一人が馬車を牽く替え馬として用意していた馬の手綱を持って寄せて来る。
「少し速度を落として下さい。私が乗ったら、一気に行って」
「分かった!」
隊長が周囲の兵士に大声で指示を出す。
「それぞれ、馬車を先行させ足止めにかかる!四人残り、後は迎え撃て」
御者が馬車を遅らせる。明は馬の背に飛び乗ると、急いで手綱を握った。騎馬を覚えたと言ったが、実は数度背に乗ったことがある程度だ。そもそも、この馬が騎乗されることに慣れてはいない。まずは落ちないことに必死である。
何とか馬上での均衡を保つと、明は少しずつ馬の速度を落とした。と同時に、馬車は全速力で走り出す。私兵達も明を囲むようにして刀を抜いた。
明は次第に遠くなっていく馬車の後ろをみてから、自分の後ろを振り返った。砂塵の中から、匈奴の格好をした男達が数人現れる。獣の皮を身にまとい、髪も結わない異民族の格好。
幸い、そう数は多くなかった。これならきっと、うまくいけば私兵の足止めで馬車は逃げられる。自分はせめて、何人かを引きつけて割かなくては。
馬の速度をさらに落とした。これが、騎馬民族の顔――どの者も、肌の色は濃くはっきりとした顔立ち。そこまではっきり見えてから、その者たちと目があう。軍団の長らしき男が合図したのをきっかけに、その者たちが自分に向かってくる。
明は急いで馬の腹を蹴り舌鼓して馬を追い立て、速度を速めた。
だが、北方の足の強い馬より早く走れるはずはない。振り落とされないように馬の首にしがみつきながら必死で走ったが、やがて敵は間近に迫ってくる。蹄の音が後方に聞こえた。前方に、馬車の姿はもうない。少し安堵の息をついて再び後方を振り返ろうとした時だった。
びゅっ、と空を割く音が聞こえた。矢が数本射られたのだ。それほど敵は間近に迫っていた。あっと思う間もなく、明の肩に衝撃が走った。同時に馬も足下を狂わせて転倒した。全速力で走っていたところを転倒し、明は遠くにとばされた。地面に思いっきり身体をぶつけ、あまりの痛さに起きあがることもできなかった。声も出ず、息もできない。落馬したことはあるが、こんな速度でとばされたのは初めて。あまりの衝撃に息が出来ず、すぐに意識が朦朧とし始めた。肩が鋭く熱い。全身が悲鳴を上げているのが分かる。
視界の中に足の太い馬の蹄が、自分の周囲をぐるぐると回るのを見た。その馬に乗った男が自分を見下ろし片手をあげて合図をした――。
激しい耳鳴りとともに、そこで明の意識は途切れた。
明が五つの時、彼女は黄家の領地に捨てられていた。食べる物もなく、世話をしてくれる人もなく、やがて路傍で息絶える、そんな運命なのだと幼心でどこか悟っていた。そんな人間を今までも多く見てきたからだ。大きな木にもたれかかり、ぼうっと空を見上げた。
その時、偶然通りかかった彩月とその父親に見つけられ、やせ細った所を食事と衣服を与えられたのだ。
彩月は自分と同じ年頃の明を見て、父にこの子をくれとせがんだ。父はかわいい娘の頼みとあり、下女にするということで引き取ることにした。
それは、この世の不幸を何も知らない幸せで豊かな彩月が、まるで犬や猫を拾うような感覚だった。たとえそうでも、明にとっては紛れもない救いの手だったのだ。
明は幼くともしっかりと自覚した。何があっても、この自分と同じ年の、そして自分とは似ても似つかない美しい少女を守らなくてはいけないと。
明は彩月と共に多くの年月を過ごした。彩月が明を非常に気に入ってくれていることも分かったし、彩月も、明が自分に絶対の忠誠を誓ってくれていることに喜びを感じていた。
共に成長し、二人は常に一緒だった。
ある日、明は彩月の父に呼び出され、こう言われたのだった。
「いいか、明。お前を拾い、今日まで育てた恩を感じるのならば、たとえその命に換えても、彩月を守るのだぞ」
それは中央へ赴任することになった領主が娘を心配した故の言葉だったが、明はその言葉をしっかりと受け止めた。
「もとより、お嬢様のためならばこの命、少しも惜しくはありません」
まっすぐに、少しの躊躇いもなく言えた。そう、その言葉に嘘はなかったのだ。
古代は資料が少ないですね。
その分いろいろ想像できて楽しいともいえるでしょうか。
―――――――――――――――
どうか、この下の
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎をちょん、としていただきましたら
大変励みになります。
よろしくお願いします。