ここに在る人
寝転がったままカーテンの隙間から空を見上げる。
夕方から出てきた厚い雲が、今なお空を覆っていた。
ひらり、白いものが風に揺れる。
すぐ見失って、見間違いかなと思う頃にまた一つ、また一つと落ちて来た。
「……雪?」
枕から頭を上げ、そのまま身体を起こした。
ふかふかの絨毯を踏みながら窓辺へ寄って手をつく。
白いものが再び風に揺れ、ピタリと窓に貼り付いた。
六角形の結晶がよく見える。
「雪だ」
寒い寒いとは思っていたけれど、まさか雪が降るほどとは。
オーディナ領じゃまだ楓の葉も落ち切っていないのに。
窓に額をつけ、ぼんやり雪を眺めた。
たまに風が吹き付け、ガラスをカタカタと揺らす。
それ以外に音は無い。きっと誰も彼も寝てしまったから。
もう、夜とも朝ともつかないような時間だ。
――眠れない。
憎いほど瞼がパッチリ開いている。
無理やり閉じて寝転んでも、なんだか枕が合わないような気がして寝返りを打ち、寝返りを打ち、寝返りを打ち。
右向き、左向き、仰向け、うつ伏せ、あらゆる寝方を試した後、結局はまた瞼を開けてしまう。
『私の心臓は、すでに止まっています』
今日……もう昨日?言われた言葉が、頭の中で勝手に再生される。これで何度目か、もはや数えられない。
『それにも関わらず、私がこうして話し歩ける仕組みは未だ不明です。しかし、命を落とす前に放った魔力により、死霊術を掛けられた状態になったと、そう推測できます』
私が馬車で見た一部始終。
それらは全て、幻なんかじゃなかった。
『イノートル辺境伯家の者が死してなお歩き回ってるなど、決して公には出来ません。これを知っているのは私とアダン、そして父だけです』
クレマン様が私と会わなかったのは、きっと一番、身体に触れる可能性があったからだ。
婚約者にはエスコートだ何だと触れなければならない場面が多過ぎる。
触れたら当然、彼の不可思議さに気付く。
実際、それで私に打ち明けざるを得なくなってしまったのだから。
『このような事情のため、貴女との結婚は……』
ここで話が途切れた。
顔色の悪い私を見たクレマン様が、急いで侍女さん達を呼んだから。
本当は部屋に人を入れたくなかっただろうに、申し訳ない事をした。
「…………」
額をグリグリと窓に擦り付ける。
詰めていた息を意識して吐き出した。
白く曇った窓へ、意味もなく指を滑らせる。
冷えたガラスはクレマン様の体温を思い起こさせた。
――クレマン様が、亡くなった。
今は、すとんと納得できる。
襲われた時の状況を考えれば、生きていたとする方が無理がある。
でも、現実味は無い。本人が目の前で平然と話をしていたから。
だというのに、胸は苦しくなるし、頭も痛くなる。
時折、涙も出た。
もしかすると明日はもう……クレマン様が動かなくなってるかも知れない。
彼が立って歩いて話せる原理を、誰も分かってないのだから。
瞳がジワジワと濡れてきた。
目を瞑って乱暴に頭を振る。
あぁ!やめ!やめやめ!
変なこと考えてないで、さっさと寝よう!
ペチペチと頬を叩いた。
まだ起きてもないことで泣くなんて、そんなの……。
違う。クレマン様が亡くなってるのは、いま起きてる事だ。
一度引っ込めた涙が簡単に戻ってくる。
頬を抓って左右に引っ張った。
こんな堂々巡りを何時間も続けている。
痛くなった頬を離した頃、窓の向こうで雪以外のものが揺れた。
「ん?」
ヒラヒラ揺れる、黒いもの。
夜闇の中でも、雪とのコントラストでよく見えた。
黒いマントを羽織った人間だ。
雪の中を歩き、屋敷から離れて行く。その先には丘しか見えない。
こんな時間に、誰?
「……クレマン様?」
髪型と、背格好が似ている。
それだけ。
後ろ姿だから、特徴的な瞳の色は見えない。そもそも髪色さえ暗過ぎて判別できてない。
それでも、クレマン様な気がした。
人影が遠ざかり、闇に紛れる。
幽霊のようにすっと消えた。
身を乗り出して目を凝らすも、何も見えない。
追いかけなきゃ。
追いかけなきゃ、クレマン様がいなくなってしまう。
そんな妙な焦燥感に突き動かされ、クローゼットへ手をかける。
夜着の上から適当なドレスを引っ被り、白いコートを羽織った。
勢いよく扉を開き、嫌に音を響かせてしまった。
静まり返った廊下をなるべく音を立てず、けれど駆け足で進む。
外へ出て、雪に残った足跡を辿る。
じわっと靴が濡れるのを感じ、ブーツを履いてくるべきだったと少し後悔した。
闇に消えた人影と違い、進めど進めど足跡はしっかり残っている。
歩いた人物が幽霊でも何でもなく、確かに今、ここに存在する人だと実感させてくれた。
そうして辿り着いたのは、丘の真ん中にポツンと立つ、白壁の建物だ。
「ここって、もしかして……礼拝堂?」
私達が、結婚式を挙げるはずだった場所。
イノートル辺境伯家の結婚式は、個人所有の礼拝堂で近親者のみが行う決まりらしい。その代わり披露宴は盛大にする。
話には聞いていたけれど、礼拝堂を見たのは初めてだ。
本当に、何も結婚の準備をしていなかったから。
正面の扉を引く。木の擦れる鈍い音と、蝶番の擦れる高い音とが同時に響いた。
暗闇に慣れた瞳へ、暖色の優しい明かりが映り込む。
灯されたばかりの燭台。傍らで照らされていたのは、思い描いていた通りの人物だった。
「クレマン、さ、ま……」
「…………ルネ嬢?」
顔を上げたクレマン様と、やや距離はあるものの真正面から向き合う。
彼は祈りを捧げるベンチに座らず、まるで司祭様のように講壇へ向かって立っていた。
「えっと……こ、こんばん、は?」
「……こんばんは」
「いえ、あの、おおはよう、ございます?」
「……おはようございます」
目を泳がせ、ボサボサの髪を撫でながら挨拶を交わす。
何をしているのかと聞かれたら、窓から見かけた貴方を追いかけて来たとしか言えない。
こんな時間に、こんな場所へ、こんな格好で。
淑女の取る行動じゃない。
冷えた空気の中、頬だけが熱くなって行く。
「ここまでお一人で?」
「へぇ!?あ……はい、ひとりです」
肩を跳ねさせ、けれど考えていたのと違う問いに、さらりと答えが出て来る。
私と反対で、クレマン様は肩を下げた。ため息をついたのだと分かる。
「今は平時とは言えません。安全のため、なるべく一人で出歩かないでください」
「あ、す……すみません……」
俯いて謝り、僅かに首を傾げた。
先に一人で外出したのは、クレマン様の方だ。
「……私は既に命を落としています。護衛を付ける必要も、危険を恐れる必要もありません」
私の下へ歩み寄りながら、疑問に気づいて答えを返してくれる。
「なっ」
驚きが口を突いた。
何を言っているんだろう、ためらいも無く。
言ってる内容は正しいのかも知れない。
でも、そんな風に自分を蔑ろにしないで欲しい。
コツコツと靴音が響き、目の前で止まった。
背の高いクレマン様とその手にある燭台を見上げる。
紫の瞳に、橙の光が妖しく揺れた。
「屋敷へ戻りましょう」
肩についた雪を払われる。
頷こうとして、けれど下げかけた頭を持ち上げた。
聞きたい事がある。
問い返されたら困ってしまうけれど、それでも聞きたい気持ちが勝った。
「ここで、何をしていたのですか?」