夜は始まったばかり
光が消えると、そこはイノートル辺境伯邸の庭園だった。
「念のため書き換えてくれ」
クレマン様に言われ、青い顔をしたままの男性が氷狼から降り、魔法陣へ魔力を注ぐ。
模様がモゾモゾと生き物のように動き、姿形を変え始めた。
放心したまま、それを眺める。
「転移魔法使いを捕らえるには、先にその者の知る魔法陣を全て書き換える、または破壊しておく必要があります」
不思議そうにして見えたのか、クレマン様が説明してくれた。
そうですかと相槌を打とうとして、けれどため息しか出なかった。
「国内の公式な転移魔法陣は、既に書き換えてあります。あとはヒューゴが個人的に作り、使用していた物を…………ルネ嬢?」
クレマン様に顔を覗き込まれ、顔色を確かめるように頬を撫でられる。
「っ、ぁ……」
何かを言おうとして、けれど言葉にならない。
話し方を忘れてしまったかのように。
クレマン様は黙って、私の頭や肩の雪を払ってくれた。
降り続ける雪から庇うようにマントで覆われる。
「…………恐ろしい思いを、させました」
クレマン様の胸に押し当てられた額が、冷たい。
私の体温が、クレマン様のものよりずっと温かいと再認識する。
「申し訳ありません」
謝るクレマン様へ衝動的に抱きついた。
手も頬も、触れる場所、全部が冷たい。痛くすらある。
――生きてる。
生きてまた、ここへ帰って来られた。
呼吸が震え、涙がにじんだ。
「っ……っ……!」
何か伝えたいのに、やっぱり言葉にならない。
想いを預けて、ただただ腕に力を込める。
ふと、軽く添えるだけだったクレマン様の手にも、力が込められた。
私と同じか、それ以上に強く抱かれる。
「ルネ嬢……」
私の首筋へ埋められた額が冷たくて、身をよじる。
「……………………間に合って、良かった」
小さく、切ない、肩ごしのくぐもった声が聞こえた。
「クレマ、ンさま……!」
大粒となった涙がぼろぼろ溢れて、顔についた土と混ざって黒くなり、クレマン様の胸元を汚す。
それでも構っていられず、涙を流し続けた。
「失礼します。そろそろ、よろしいでしょうか」
丁寧で気品あふれる、アダンさんの声が差し挟まれた。
目を向ければ、真顔のアダンさんと、眉をしかめたゼリさんが見える。
「ちょっ!!空気、よめないの!?」
「……そんなことを言ってる場合ではありません」
睨み合う二人に、トマスさんがやれやれと首を振った。クレマン様へ視線を移す。
「これから、どうしましょうか」
「……まず父上へ報告し、それから永久騎士の使用許諾をいただく」
腕の力を緩めたクレマン様が、胸元からハンカチを取り出し、私の目元を拭ってくれる。
その手を取った。
「あ、あの!へ、辺境伯さまは……!!」
馬上で、ヒューゴ様から聞いた話を思い出す。
クレマン様の言う父上とは、ヒューゴ様の言う父さんと同じ人だ。
つまり。
「ヒューゴ様が、仰るには、その……辺境伯さまは……も、もう、亡くなって……」
父親の死をこんな形で伝えて良いのか、この言い方で良いのかと、次第に語尾が小さくなって行く。
言葉を紡げなくなって、俯いた。
「……そうですか」
落ち着いた、低い声。
取り乱すでもなく、覚悟していたかのような声に、涙腺の緩くなった目からまた涙がこぼれた。
再びハンカチで拭われる。
「しかし、であるならばこそ、会いに行かなくてはなりません」
顔を上げ、クレマン様の瞳、神秘的な光に飲み込まれる。
一瞬、理解が遅れた。
…………なぜ会いに行くの?
疑問を口にしようとして、別の音に遮られる。
遠く、暗く湿った空に、乾いた破裂音が響いた。
「っ……!!」
クレマン様やアダンさん達が、一斉に音のした方向へ目を向ける。
どこから音がしたのか分からなかった私も、遅れてそちらを見上げた。
聞こえたのは……おそらく転移魔法の音。礼拝堂のある方角だ。
「あ、あ、あちらに、周知されてる転移魔法陣はありません」
転移魔法使いさんが、どこまで青くなるのかといった顔で報告する。
アダンさんが彼の手を引き、氷狼へ乗せた。
「ヒューゴか」
クレマン様が空を見つめる。
周知されてる魔法陣がない。それなら、音がしたのは誰かが個人的に作った魔法陣だ。
ヒューゴ様が、転移して来た。
そう考えただけで手に力が入り、身がすくんだ。
……あれ?礼拝堂?
礼拝堂って確か……多くの石板が並んでて……?
「もしかして、全員??」
ゼリさんが、転移魔法使いさんと似たような顔で唇を震わせる。
……全員?
全員って?
疑問符を浮かべる頭の片隅で、まさかと考えてる自分がいる。
まさか、でも、そんな。
「先ほど、ヒューゴは祖父……死霊術師を一人連れていた。彼の操れる屍は約3千体。礼拝堂周辺に眠る永久騎士は……約2百だ」
一陣の風が吹いて、横殴りの雪が頬を打った。
クレマン様に抱き込まれ、反射的に閉じた瞼を腕の中でひらく。
私達のまたがる氷狼が飛び跳ねると、同時に、木や建物がメキメキと軋む音が聞こえた。
さっきまで私達のいた場所、その土が大きく盛り上がり、魔法陣のある東屋を傾け破壊していた。
ぼろりと落ちる魔法陣の台座の上に、空から何者かが降りて来る。
彼が大剣を振り下ろすと、台座が真っ二つに割れた。
降りて来た人が剥き出しとなった黒い土へ着地し、一緒に落ちた台座の成れの果てに足をかける。
豪快な動きに似合わず、顔には一切、表情がなかった。
「は!??あ、あれを剣で、斬ったの!!??」
ゼリさんと一緒に、私も口を開けて驚く。
分厚い石造りの台座を……ひと太刀で斬ってしまうなんて。
そもそも、風と共に突然現れた人の姿にも、私の頭が追いついていない。
大剣を背負った彼の上空には、さらに人影が二つあった。いずれも無感情な瞳を向けている。
クレマン様が静かに言い放った。
「永久騎士2百名。全て、蘇らせられたと見て良いだろう」




