回想:家族を想う(2)
ピーヒョロロと、懐かしい声に顔を上げる。
冬の間ここを離れていたトビが、もう戻って来たらしい。
少し前まで茜色だった空が、藍色に染まり始めていた。
剣を鞘へ納める。
自主練も飽きたし、疲れた。
森の奥に作られた魔法陣を見やる。
石造りの台座に描かれた魔法陣。
全く反応がないのを確認し、唇を尖らせた。
遅い。
俺がいなくなった事に、まだ気付いてないのか?
草の上へ座り込み、最後のビスケットを噛んだ。
本当は水を飲みたい。お腹も空いたし、喉も渇いた。
でも、誰も探しに来ないうち、自分から帰るなんて嫌だ。
一旦、ペイシュヒの街にでも飛んで水を買おうか。
ポケットに手を入れ、コインを数える。
こうして家出するのも初めてじゃないから、お金の使い方や水の相場くらいなら分かる。
ぐぅとお腹が鳴った。
ついでに、串焼きも買おう。
そうと決まればと立ち上がり、魔力を放ち始めた所で……自分とは別の魔力が灯った。
魔法陣の上、柱状に立ち上がった光が弾け、母さんが現れる。
「ヒューゴ!!あなた、またこんな所に!」
「おぉ、やっと来た!じゃ、俺はもう行くな!」
既に自分を取り巻いていた魔力に命じ、ペイシュヒの街へ飛ぶ。
飛んだら、走って魔法陣から離れた。
転移魔法は目立つし、今この領内で転移魔法を使うのは俺と母さんくらいだ。
じろじろ見られたくないから、人混みに紛れ、水を買いに行く。
振り返っても、母さんが来る気配はない。
母さんの作った魔法陣だから、俺がここへ飛んだのはすぐバレる。
けど、今はまだ森の魔法陣を書き換えてる頃だろう。
母さんは俺を追いながら、俺がもう一度同じ場所へ飛べないよう、魔法陣を書き換える。
屋敷の庭以外、全部の魔法陣を書き換えたら、母さんが俺を捕まえて二人で家に帰る。
俺と母さん、お決まりの追いかけっこだ。
手早く水を買い終えると、遠くで魔法陣が光った。
待った待った、串焼きも買いたい。
慌てて串焼き屋へ寄って、ホタテとイカを注文する。
ペイシュヒは漁業が盛んだから、海鮮が美味い。
ちらちら振り返りながら会計していると、母さんと目が合った。
「見つけたわよ!!」
「おじさんありがと!じゃ!」
パァンッと魔力を弾けさせ、大慌てで飛ぶ。
辺境伯領の東、見晴らしの良い放牧地帯へ着地し、素早く魔法陣から離れて串焼きをかじった。
美味い。お腹が空いてたから、なお美味い。
食べ終える前に魔法陣が光った。
母さんが現れたから、次は領都の外れへ飛ぶ。
ホタテを食べ終え、街道を行く馬車を見送りながら水を飲む。
母さんが現れ、また次の場所へ飛んだ。
大聖堂の前でイカを食べ終え、また飛ぶ。
領境の川で汚れた手を洗い、音楽の都で道端の演奏を聴き、山村でまばらに灯る光を眺めた。
そうして飛び続け、だんだんと逃げ道が無くなって来た。
次で最後だなと思いながら、最北の魔法陣へ飛ぶ。
無重力感の中、試しにバク転をしてみた。
転んだ。おまけに頭がグラグラする。
もう二度としない。
こんなモタモタしてたら、すぐ母さんに捕まってしまう。
頭を押さえ、周りを確認もせず魔法陣から出て行く。
ヒュゥと、冷たい風と僅かな雪が頬を撫でた。
ここは、ヴェデモナ山に最も近い、討伐へ行くのにも使う魔法陣だ。まだ雪も溶けていない。
けれど春を感じる、ベタついてギシギシ鳴る雪を踏んで歩いた。
平衡感覚が正常になってきた所で、顔を上げる。
「……?」
すっかり陽も沈んだ夜の暗闇の中、何か……大きな石みたいな物が見えた。
ここら辺はひらけていて、何も無いはずなのに。
誰がこんな所に石なんか……。
石に向かって歩いて行くと、その隣から鳥が姿を現した。
真っ白い小鳥が二羽。
近づいた俺を見ても、逃げやしない。
「なんだ、腹でも減ってるのか?」
もうビスケットは無いと分かっていたが、何かあげられる物が無いかとポケットを探る。
それを見た鳥が、羽を逆立て、クチバシを開いた。
青い光が放たれる。
同時に、あたり一帯の冷気が増した。
「!?」
はずみで閉じた目を開ければ、そこには、氷の壁が出来上がっていた。
「え?……あ、魔獣!?」
初めて魔獣を見た。
そして、初めて魔獣の放った魔法を見た。
背筋がゾクリと冷える。
「な、なんでこんな所に!!」
一歩後ずさった。
かけ出して逃げようと思ったのに、足が震えて、それ以上動かない。
ここは……魔獣が現れるような場所じゃない。
ヴェデモナ山に最も近いといっても、それは魔法陣が設置してある中での話だ。
魔法陣は、基本的に安全な場所に設置される。
奥歯を噛んだ。
今は、なんでとか、どうしてとか言ってる場合じゃない。
震えを止めないと。足を、動かさないと。
必死に足を動かそうとしていると、氷の壁の向こう側で……石が揺らいだ。
違う、石じゃなかった。
「……アイス、グリズリー……」
俺の倍ほどの大きさがあるそいつを見上げる。
立ち上がったのは、雪の大熊だ。
いや、普通のアイスグリズリーは成人男性の倍を超える大きさと聞く。こいつは仔熊なのかも知れない。
でも、俺を縮み上がらせるには十分だった。
パァンッと渇いた音が響き渡る。
辺りの雪が緑色に照らされた。
振り向き、思った通りの人を見つける。
「か、かあさ……っ!」
衝撃が頭と右肩に落ちた。
氷壁が砕け、飛び散った破片が俺のこめかみを切る。
「ヒューゴ!!」
アイスグリズリーの前脚が、倒された俺の肩を踏みつける。
鋭い目が、かけ寄ってきた母さんを捉えた。
母さんの方へ踏み出し、俺の肩にミシミシと聞きたくない音と激痛を与える。
「っ……!!」
「ヒューゴ!飛びなさい!」
飛びなさいという言葉に、ハッとする。
そうだ。こういう時にこそ、転移魔法を使うんだ。
無事だった左手から魔力を放出する。
勢い余って、やたら大きく魔力が広がってしまった。これじゃ、魔獣ごと転移してしまう。
魔力の円を縮めようとするも、焦って上手くいかない。
白い鳥が、アイスグリズリーより速く母さんの下へ辿り着き、氷を吐き出した。
母さんの腕が凍りつく。
「っ母さん!!」
凍りついた腕に母さんが顔を歪めたのは、一瞬だけ。
固くなった腕を振り下ろし、鳥を叩き落とした。
鳥より動きの鈍いアイスグリズリーの脇を擦り抜け、俺を抱きしめる。
「もう!!しょうのない子!行くわよ!」
氷の片腕と温かい胸、母さんの魔力に包まれ、涙がにじんだ。
「母さん、ご、ごめ……」
新緑色の光に安堵する。
安堵、してしまった。
転移の間際。
母さんの後ろに影が見えた。
アイスグリズリーの、獰猛で大きな手。
それが、氷の輝きを放つ爪と共に振り下ろされた。
光が弾ける。
無重力。その後の落下する感覚。
その中で、母さんの身体が今までになく重く感じた。
どさりと、魔法陣の上に落ちた。
動かない母さんの下から這い出て、周囲を確認する。
屋敷の庭園だ。
「ヒューゴ、遅かった……」
魔法陣の傍らにあるベンチから、兄さんが立ち上がる。
手には俺の上着があった。
いつもの事とはいえ俺の帰りが遅くなったから、心配して出て来たんだろう。
「兄さん!!母さんが!!」
目を見開いて固まっていた兄さんへかけ寄る。
肩に痛みが走り、ずしゃりと転び落ちた。
「っ……ヒューゴ、無理に動くな。ここで待っていろ」
俺に上着をかけ、すぐさま屋敷へ走って行く。
その後ろ姿を見送り、でも居ても立ってもいられなくて、母さんに振り返った。
母さんは……うつ伏せに倒れたまま動かない。
俺が這い出して来た時に乱れた髪が、そのまま俺の軌跡を追って流れている。
「……母さん?」
兄さんの言いつけを破って立ち上がり、頭から血の抜ける感覚に膝をついた。
ずりずりと這いつくばって母さんに近づく。
肩へ触れた。
「母さん、母さん。返事して」
ゆさゆさ揺すってみるも、反応がない。
「母さん、母さん……」
手が震える。
唇も、胸も、何もかも。
「お願いだから……返事、して」
反応のない母さんを揺らし続ける。
「俺、もう飛んで逃げたり、わざと母さんを困らせたりしない。兄さんみたいに何でも真面目にやる。だから……」
母さんの髪が、パサリと一房落ちる。
顔に掛かったそれを誰も払いのけない。
「だから、嫌だよ」
母さんを揺らしていた手を止め、強く握りしめた。
拳に、ぽたりぽたりと滴が落ちる。
「死んじゃ……嫌だ」
つぶやいて、でも、母さんは何も答えない。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
死んじゃ嫌だ。
もし死んだと言うなら……今すぐ、生き返って!!
母さんの髪に、額を埋めて祈る。
止めどなく溢れる涙が、俺の顔も母さんの髪も濡らしていった。
「ヒューゴ!」
父さんの声に顔を上げる。
父さんと兄さん、専属医の先生がかけ寄って来ていた。
先生の顔が歪む。
走っていた三人の足が止まった。
「…………ヒューゴ?」
父さんの問うような声と、寄せられた視線。
その先を見て、自分も息を飲んだ。
握った拳から、見慣れない、藤色の魔力が漏れている。
それが、そろそろと母さんへ流れていた。
これって……もしかして。
おそるおそる拳を開く。
「っ!ダメだ!」
近くにいるはずの兄さんの制止を、遠くで聞く。
開ききった手のひらから、堰を切ったように魔力が溢れ出した。
光が母さんを包み、やがて身体へ吸い込まれて行く。
頑なに閉ざされていた母さんの瞼が、すっと開かれた。
いくら揺すっても動かなかった身体が、むくりと起き上がる。
焦点の合わない瞳で辺りを見回したかと思えば、俺を認めて目を止めた。
「……ヒューゴ」
耳へなじむ柔らかい声に、胸が熱くなる。
母さんはどこか虚な瞳のまま、ゆったりと微笑んだ。




