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たったひとつの願いは

 礼拝堂へ続く道。

 そこへ出られる扉の前に立つ。


「うぅん……」


 小さく唸り、隣の窓から外の様子を窺った。

 夜闇の中、雪がしんしんと降り続け、道の輪郭をあいまいにしている。

 見える限り、人影はない。


 窓から離れ、ランプで照らしながら真っ暗な廊下を歩く。

 二階へ続く階段に寄って、耳を澄ませた。

 ……何も聞こえない。


 とぼとぼと扉まで引き返す。

 もしかして、今日は行かないのだろうか?



 クレマン様と礼拝堂で会ってから、彼が魔獣討伐へ向かうまで、ここから出て行く後ろ姿を毎晩のように見かけた。

 決まって皆が寝静まった夜、闇へ紛れるように。


 ひとりで出歩くなと言われたから、私は追いかける事もできず、自室にとどまる。

 クレマン様が見えなくなるのを黙って眺め、そして、再び姿を見せるまで窓辺で待ち続けた。


 でも、今日は……そうしたくない。


 追いかけられないなら屋敷を出る前に声をかけようと、ここまで降りて来た。

 来た……けれど、クレマン様が現れない。


 もしかして、私が部屋から下りて来る間にクレマン様が出て行ってしまった?

 そうだったら、どうしよう。


 もし、そのまま……戻らなかったら?


 ずっと持っていた不安。

 討伐から帰ったクレマン様を見て、その不安は現実味を帯びた。


 丘陵の事件から魔獣討伐まで、あまり間が空いていない。

 なのに、こんな短い期間で、命に関わるような傷を二度も負うなんて。

 今までさんざん、討伐における活躍を讃えられてきた人が。


 クレマン様は……自分の身を軽んじている。


 私の婚期が遅れるとか、縁談が無くなるとか、そんな理由で自分の身を手放すと言っていた。

 方法が見つかったら、きっとためらいなく実行される。


 それは、今夜かも知れない。



「ク、クレマン様……」


 声が震えた。

 想像を遥かこえて情けなかった声が、不安を増幅させる。


 どうしよう。今からでも外へ出て追いかける?

 その前に、こんな時間だけれどお部屋を訪ねて、まだいらっしゃるか確認する?

 どうしよう。どうしよう。

 悩んでる間に、全部手遅れになってしまったら?

 どうすればいいの?



 ――コツ。



 その場をうろうろ回り始めた私の耳に、待ち望んでいた音が届く。

 廊下の先から響く、自分以外の靴音。

 それが徐々に近づいて来た。



「……ルネ嬢?」



 灯りも持たずに歩いて来た人の顔が、私の手にしたランプで照らされる。


「クレマン様!」


 思わずかけ寄り、会えた喜びのまま飛びつこうとし……はたと気づく。

 そんな事をする仲でも、状況でもない。


 けれど、気づくのが一秒遅かった。


 倒れ込む身体を抑えられず、クレマン様の胸へ飛び込む。

 植物を連想させる爽やかな香りが鼻をくすぐった。


 体温の大きな差が、腕に、胸に、背中に、クレマン様と触れ合っている事を伝える。


「っ!!ご!!ごごごごめんなさい!!」


 地に着いた足を即座に動かし、距離を取った。


「ああああの、その、あの、えぇっと??」


 わわわわ私は、いま、なな何をしたの??


「ルネ嬢……このような時間に、このような場所で、何を?」

「へ!?あ、ね、眠れなくて、少し歩こうかと……」


 自分の行いを冷静に見つめられないまま、出された問いに用意していた答えを返す。


 ん?

 何を?って、なんで急に抱きついて来たんだってこと?


 あれ?

 もしかして、私、暗闇の中で待ち伏せて、一人で歩いて来た男性の胸に……飛び込んだ、の?


 やっと、自分の行動の意味する所に気がついた。


「ち!!ちちち!!違うんです!!わ、私!そそういうつもりじゃなくて!!!!」


 わっと顔が熱くなる。

 急に上げた大声に、クレマン様が目を丸くした。


「ク、クレマン様を襲うつもりなんて!!こ、こ、これっぽっちも!!」

「……私を襲う?」


 役立たずの口を押さえる。

 まともな言い訳が出てこず、喋るほどに、クレマン様を襲おうとしていた痴女のように聞こえてしまう。


 熱い頭を悩ませ小さく唸っていると、クレマン様が首を傾げた。


「事情は分かりませんが……襲うよりも、襲われる心配をしてください」


 すっと手が伸ばされる。


 抱きついて乱れた髪を、耳へかけてくれた。

 指は触れなかったものの首筋がくすぐったくなり、肩が揺れる。


「お一人で出歩かないよう、お願いします」


 私を見下ろすクレマン様の瞳に、心配の色が宿る。


「え?あ……」


 以前、安全のため、一人で出歩かないようにと言われた。


「お、お屋敷の中も、ダメですか?」

「……申し訳ありません」


 一人で出歩くなとは、一人で外へ出るなという意味だと思っていた。

 外部の人間が入れない屋敷内は、安全だと。


「部屋までお送りします。暗いので、足下にはお気をつけください」


 クレマン様が扉を通り過ぎ、私の部屋へ向かって歩き始める。


 数歩進んで、すぐ振り向いた。

 私が、その場を動かなかったから。


「ルネ嬢?」

「あ、あの……少し、お話できませんか?」


 部屋には戻りたくない。

 いま戻ったら、これまでと同じ。


「話であれば、よければ明日改めて」

「い、今が、今が良いです!」


 自覚がある。我がままを……言っている。

 けれど、雪の中へ消えるクレマン様を黙って見送るなんて、できない。


「……分かりました。ではこちらへ」


 クレマン様は気を悪くした様子もなく、踵を返し、彼が来た方の廊下へ進む。

 私も頷いて後ろをついて行った。


 二人分の足音。

 それ以外、何も聞こえない廊下を進む。

 階段を登り、案内されたのはクレマン様の執務室だ。


「どうぞ」


 所々違う色の板が当てられ、似合わないノブを取り付けられた扉。突貫で直された事がありありと分かるそれを開けてくれる。

 昼間の出来事に思いを馳せながら入室した。

 勧められるまま、ソファへ腰かける。


 クレマン様は羽織っていたコートをポールへ掛け、その隣の暖炉に火を入れた。


 彼は寒さなんて感じないはずだから、コートは見た目が変にならないよう着てたのだろう。暖炉は、私の為だけに点けられた。

 その証拠に、クレマン様が少し前まで居たはずのこの部屋は、廊下と同じかそれ以上に寒い。


「あの……すみません。こんな時間に押しかける形になってしまって……」


 今更かも知れないけれど、申し訳なくなって謝罪する。


 クレマン様が外へ出て何をしているのか、実際のところは分からない。

 前会った時のように氷結魔道具を操作してるのかも知れないし、全然違うこと……例えば襲撃事件の調査をしてるのかも知れない。

 いずれにせよ、私が邪魔をしている。


「構いません。眠れぬ原因を作ってしまったのは、こちらです」


 マッチを片付け、クレマン様も椅子へ腰掛ける。


「話とは、婚約解消の件でしょうか」

「……え?」

「貴女の滞在が長引いてしまっています」


 クレマン様の言葉に、ぽかんと口を開けてしまう。

 はっとし、慌てて否定をする。


「ち、ちち違います!私の事は、むしろ気にしないで欲しくて!!」


 早く帰りたい、私がしたいのはそういう話だと思われている。


 私を帰すために自分を傷つけないで欲しい、そう思って今、引き止めているのに。

 全く逆に取られている!


「……これ以上貴女を留めるのは得策ではないと、承知しております」


 ま、待って!話の流れがおかしい!


「なので私は」


 先に続くだろう言葉を止めたくて、抑えられない気持ちのまま立ち上がった。


「そんな事!!しないでください!!」

「父の説得を続けてい……」

「…………へ?」


 立ち上がって見下ろす形になった、クレマン様のお顔を見つめる。


 え、あ……辺境伯様の、説得?

 そういえば、そんな手段もあった、ような。

 すっかり忘れていた。


「……申し訳ありません」

「あ!いいえ!あの、説得!すごく良いと思います!」


 すとんと座り直し、頬に手を当てる。

 説得。そうだ、そっちに注力して貰えば、お身体を燃やすだの何だのはしなくて良くなる。


「わ、私も一緒にお願いするのはどうでしょうか。辺境伯様はオーディナ家に気を使っているのかも……」


 言いながら、辺境伯様が気を使うにしても、変な気の使い方だなと思う。

 けれど、婚約解消に反対する他の理由も思い浮かばない。


 クレマン様は考え込むように視線を落とした。


「……父の意思を変えるのは、不可能かも知れません」


 視線の先に辺境伯様を思い浮かべているのか、一点を見つめたまま続ける。


「一年ほど前から、時折こういった事があります。以前の父では考えられない決定を下し、頑なに覆しません」

「……一年ほど前から?」

「はい。父が病に伏し、それが劇的に回復してからです」


 辺境伯様が、病気に?


 劇的に回復というのだから、相当悪かったのだろう。

 重い病気を患い、回復後に人が変わってしまうという話は、聞いたことがある。


「元より使用人と親しむ性格ではありませんでしたが、顕著に人を避け始めた事も気になります。最悪の場合、父は……」


 流暢に喋っていたクレマン様が言葉を切る。


「……辺境伯様は?」


 視線が私へ戻される。

 クレマン様の瞳は、どこか心許ない。親を見失った子供のように見えた。

 その表情を消すように、奥歯を噛み、首を横に振る。


「いえ、とにかく説得は難しい状況です」


 いつもと同じ、落ち着いた様子のクレマン様に戻った。

 何かあったのかと聞きたいけれど、聞くことも出来ない。


「ご迷惑をおかけする形になりますが、今しばらく……少なくとも2週間ほどは、この状態を続けさせていただきたい」


 ……ん?


 それってつまり、辺境伯様の説得はできないけれど、今すぐクレマン様自身をどうこうする気も無いってこと?


 そう、なのか。なんだ。

 ほっと胸を撫で下ろし、かけて、止まる。


「……あの、えっと、じゃあ……2週間後、は?」

「貴女が速やかに家へ帰れるよう、手配いたします」


 私が、帰れるように?

 辺境伯様を説得、できないのに?


「それって、あの、クレマン様を……も、も燃やして、解術する……とかいう、あの?」

「その手段を取る可能性もあります。燃やすとは限りませんが」


 平然と言われ、クレマン様に触れた時よりずっと胸が冷えた。



「い、嫌です!!」



 顔を上げ、組んでいる両手を力いっぱい握りしめる。


「す、速やかになんて!解術なんて!必要ありません!」

「……しかし」

「わ、私は!結婚できなくたって構いません!何なら、ずっとここで客人として居座っても良いです!」


 言いながら、居座る側のセリフじゃないなと思う。

 けれど、厚顔無恥と言われたって、そんなのどうでも良い。


 いま目の前で話しているクレマン様。

 その存在が、私のためという理由で無くなるなんて、耐えられない。


「……ルネ嬢。情けで、ご自身の幸せを逃す必要はありません」


 クレマン様の手が、爪の食い込んだ私の手を開かせる。


「心を痛めないでください。私は、土へ還るべき存在です」


 私の指が冷えないよう、すぐに離れていく手。

 それをつなぎ止めた。


「わ、私……こんなこと言うの、おかしいって分かってます」


 亡くなってる人のために自分の結婚を諦めるなんて、言葉だけ聞くと、とても変だ。


「クレマン様の決められた事へ、口出しする権利もありません」


 死者は、本能的に死を求めていると聞いた。

 クレマン様もそうかも知れない。

 私はクレマン様を見送って、きちんと弔う方が正しいのかも知れない。


「でも、それでも……」


 ここずっと考えていた。

 悩んで悩んで、何度も考え直して。

 けれど、行き着く答えはいつも同じ。


 つないだ手を、強く握る。



「私のためと言うなら、どうか、その身を手放さないで欲しい。このまま…………生きていて欲しい」



 変な、言い回しになっている。

 そう自覚しても、他の言葉は出てこなかった。


 フィルの姿が思い浮かぶ。

 土へ還ったフィル。

 彼は死霊術で蘇っただけで、亡くなっている。そう理解して、納得もできた。


 でも、クレマン様相手ではできない。


 彼は何も変わらないから。

 生前と変わらない声、立ち姿、表情。

 ううん、それより何より変わらないものがある。


 瞳だ。

 クレマン様の瞳には、今もしっかりと意志が宿っている。

 熱を持ったり、不安定に揺れたり、生者と変わらない感情が、そこにある。


 この人が亡くなっていると、誰が信じられるの?




 沈黙が落ちる。

 暖炉の火のパチパチと燃える音だけが響いた。


 氷のような皮膚に触れ続け、冷たくなった指が震える。

 クレマン様が気づいて、私の手を離した。


「……お気持ちは、承りました」


 返って来た言葉は、ただそれだけだった。




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