回想:涙と初恋の記憶(2)
パキッと、枝の折れる音がした。
足下でしたと思ったら、今度は右斜め前、つないでる手の先から聞こえてきた。
男の子の肩に小枝が引っかかっている。
フィルのしっぽを追って進めば進むほど、どんどん道幅が狭くなっていった。
もはや獣道と言って良い。
「あ……」
男の子が不自然なほど右に寄って歩いている。
たぶん、普通に二人並んで歩けば左側の枝が私に当たるからだ。
「あ、あの、ごめんなさい。気を使わせてしまって」
二人とも枝にぶつからないよう、手を引いて男の子の腕へ寄りそう。
「…………」
まん丸の、宝石みたいな瞳を向けられた。
え?な、何かやってしまった?
無闇にキレイな瞳のせいで胸がドクドクと鳴る。
「……私が、怖くないのですか?」
「へ?」
こ、こわい?
なんで?
彼に、怒られてる訳でも、虐められてる訳でもない。
むしろ親切にされている。温かい手は安心感さえあった。
あ、身分が高いから?
それだけで怖がる人もいるかも知れない。
左右にぶんぶんと首を振る。
「全然、怖くなんかないで……」
「お嬢様」
言葉を被せるように後ろから声をかけられる。
放っておけないからか、結局ついて来たロジェだ。
「もう引き返しましょう」
「え?引き返す?どうして?」
「道がどんどん悪くなっています。いったい、どこへ連れて行かれるのか……」
言いながら、フィルと男の子とをちらりと見やる。
その目に、違和感を覚えた。
ロジェがいつもフィルへ向けていたものと、全く違う。
得体の知れない、魔物を見るような目。
「……ロジェ?」
ロジェとフィルは家族だ。
アンナも合わせて、二人と一匹。彼らの間には確かな絆と信頼があった。
なのに、今のロジェの瞳から滲みでるのは、不信感と恐怖心ばかり。
「きっと領主様も心配しています。帰りましょう」
いつになく乱暴に私の手を取り、くるりと回って来た道へ引き返す。
え、こんな所で帰るなんて、いや。
引かれるまま二歩、三歩と下がってしまった足を突っぱり、何とか踏んばる。
男の子とつないでる方の手を強く握った。
両腕を伸ばして止まった私を見て、ロジェがどう思ったのか……悲しそうに、苦しそうに眉を寄せた。
男の子に向かって頭を下げる。
「どうか、どうかお願いします。我々をこのまま帰してください」
子供の私達より下げられた頭を、男の子が見下ろす。それから、私へと目を向けた。
どうしたいかと尋ねるような瞳に、帰りたくないと首を振る。
「……良ければ、お二人が帰られた後も、私が彼を追って行き先を確認しましょう」
「え?でも」
フィルを見やる。
ごちゃごちゃ話してる間に距離が開いてしまった。
少し離れた所でお座りしている。
あの子は、私とロジェを見てこの道を示した。
フィルが来て欲しいと呼んでるのは、私達だ。
それなのに、会ったばかりの男の子に全部任せて、屋敷へ帰るなんて。
「やっぱり、ダメです。私が……私とロジェが行かないと」
フィルが吠える。
急かすためかと思ったけれど、すぐに違うと分かった。
「フィル?戻って来たの?」
フィルのさらに先、茂みの奥から、女の人の柔らかい声が聞こえた。
とても聞き覚えのある、毎朝私を起こしてくれる声。
「アンナ!?」
「その声は……お嬢様ですか?」
頭を上げたロジェと顔を見合わせる。
ロジェは私の手を離し、茂みの奥へかけて出た。
「アンナ!」
「ロジェ!あなたもいたのね」
私も急いで進もうとし、ドレスを茂みに引っかけてしまった。
男の子が下げていた短剣を抜いて丁寧に枝を切り落としてくれる。そのまま次々と枝を落とし、道を作ってくれた。
茂みを抜ければ、青空が見えた。
森の中にぽっかりとあいた空間。
空の下にポツポツと見える、赤い野イチゴの粒。
赤が散らばる真ん中で、アンナが座り込んでいた。
ロジェが叱るような大声を出す。
「こんな場所で、こんな時間まで、何をしていたんだ!」
「何って、見ての通りよ」
アンナが上げた腕には、野イチゴをいっぱいに詰め込んだ籠があった。
立てたひざの先には、大きく盛り上がった木の根が見える。
「ちょっと失敗して……足をくじいちゃった」
ペロッと舌を出して肩をすくめる。
年下の私から見ても、やたら可愛らしい。
「ちょっとの失敗?誰も来なかったらどうするつもりだったんだ!一人で、森の奥まで入るなんて……」
「あら、一人じゃないわ。フィルも一緒だったでしょう?人を呼んで来てもらったの」
歩み寄る私と目があって、アンナはバツが悪そうに笑った。
「お嬢様、すみません。ご心配をおかけしました」
「ううん、いいの。足は大丈夫?」
「はい、ロジェに肩を貸してもらえれば歩けるかと」
何かに気付いて、アンナの視線がそれた。
私の隣にいる男の子、その横にピタリとついて来た、フィルだ。
「ふふっ、ありがとう、フィル。おいで」
「っアンナ!」
アンナがフィルに向かって開いた両手を、ロジェが掴み、閉じさせる。
「な、なに?どうしたの?」
険しい顔をしたロジェが、何事かを耳打ちする。
キョトンとしていたアンナの顔色が、少しずつ、少しずつ、ロジェと同じ色……青に染まって行く。
……嫌だ。
そんな目で、フィルを見ないで欲しい。
大好きなアンナに、ロジェに、そんな目で見つめられて……フィルがどんな気持ちになるか。
考えるより先に足が前へ出た。二人に背を向け、視線を遮る。
自然、フィルと向かい合った。
「……フィル?」
悲しんでると思ったフィルは、どこを見るでもなく、何を感じるでもないような瞳で、大人しく座っていた。
「どうしたの?アンナだよ?」
いつものフィルなら、おいでと言われる前にアンナへ飛びついている。
そういえば、ロジェに会った時も飛びついたりしなかった。
「生前の性格や記憶は、ほとんど消失しています」
男の子が無感情な声で教えてくれる。
しょうしつ……って、つまり、消えてる、ってこと?
つぶらな瞳、うねる飴色の毛。
目の前にいるのは間違いなくフィルだ。
なのに、フィルであってフィルでない。
そんな不思議な感覚に包まれる。
「アンナ!」
焦った声に振り返ると、支えられて立ち上がったアンナが、頭を押さえてロジェにもたれかかっていた。
「大丈夫、ちょっと……」
言いながらフィルを見て、眉間にシワを寄せる。
目を逸らした。
「いいえ、ごめんなさい。もう帰りましょう。足も痛いし……」
――フィルを、見ていられないから。
小さく呟かれた言葉を、耳が拾ってしまった。
「お嬢様も帰りましょう」
アンナが、ロジェの肩に回した手と反対の手を差し出す。
腕に野イチゴの籠をかけた普段と変わらないアンナの手に、つい手を重ねそうになる。
いや待ってと止まった。
「フィルはどうするの?」
フィルを見ていられないと言った彼女は、フィルを連れて行くつもりがない。
このまま私達が帰り始めても、さっきから男の子のそばを離れないフィルは、きっと追いかけて来ないだろう。
「よろしければ、貴女が望む場所まで彼をお連れします」
男の子がさらりと申し出る。
「え?良いんですか?」
「はい」
なんて親切な子だろう。
彼は何か用事があってこの森に入ったはずなのに、出会ってからずっと、私の望みに付き合ってくれている。
「ぜひ、お願いし……」
「結構です」
ロジェがピシャリと言い放つ。
冷たく響いた声に自分でも驚いたのか、俯きながら口を押さえた。
「……すみません。我々は、これで失礼します」
「お嬢様、行きますよ」
アンナが私の手を取る。
「待って、ねぇ、フィルは?」
「もう良いんです」
もう良い?
もう良いって、なに?
このまま、何がなんだかよく分からないまま、フィルを置いて帰るの?
そんなの、全然良くない。
アンナの手を振り解いた。
つなぎっぱなしの男の子の手にしがみつく。
「フィルを置いて行きたくない」
「……お嬢様、わがままを言わないでください」
「どうしてもって言うなら、二人は先に帰ってて。私は後から行く」
「そういう訳に行きません。一緒に帰りましょう」
「や、やだ」
「お嬢様一人では屋敷まで戻れないでしょう」
うっ。
確かに、フィルに案内された道はちょっと複雑だった。
一人では屋敷にたどり着けそうもない。
「……来た道には印をつけています。私が責任を持ってルネ嬢を送り届けましょう」
男の子が、これまたさらりと申し出る。
すごい。印なんて、いつの間に付けたのだろう。
全く気がつかなかった。
「そんなのっ……」
「分かりました」
何か言おうとしたアンナの口をロジェが押さえる。
二人は視線でやり取りをした後、私と男の子とを順番に見た。
フィルには目を向けず、逃げるように顔を背ける。
「では、失礼します」
ロジェとアンナが、ひょこひょこと足を引きながら去って行く。
二人の姿が見えなくなると、急にこの場が静かになったような気がした。
風がよそよそと吹いて、野イチゴの葉を揺らす。
男の子が小さく息をついた。
その音につられて見れば、彼も私へ目を向ける。
キレイなお顔と向かい合った。
「これから、如何いたしましょう」




