回想:涙と初恋の記憶(1)
風がそよそよと吹く森の中。
春のあたたかな木漏れ日の下、フィルが静かに横たわっていた。
「フィル!こんな所にいたのね!」
名前を呼んでかけ寄ったけれど、フィルはピクリとも動かない。
いつもならピンッと耳を立て、しっぽを振って喜んでくれる。けれど、今はぐっすり眠ってるのか、起きる気配はなかった。
「もう帰らなきゃ。アンナはどこ?」
フィルと飼い主のメイド、アンナが、野イチゴ摘みに森へ入ったきり屋敷へ戻らなかった。
午後は偉い人が来て森を使うから、昼前には帰ると言っていたのに。
フィルを見つけたのは良いけれど、アンナはどこへ行ったのだろう。
「ねぇ、起きて〜」
フィルの身体をゆさゆさと揺らす。
歳をとって近ごろパサパサになってきた毛並みが、いやに気になった。
揺らしても揺らしても、ちっとも起きてくれない。
「フィル〜?」
顔をのぞき込んで、やっと、フィルが目を開けたままでいると気づいた。瞬きさえしていない。
「…………フィル?」
急に肩へ力が入る。胸がざわざわと騒がしくなった。
身体を揺らしていた手を、お腹へずらす。
いつもなら、フィルが呼吸をするたびに膨らんだり引っ込んだりするお腹。
トクトクと鳴る音を指で感じられるから、そこを撫でるのが大好きだった。
今は、少しも動かない。
「っ……っ………!」
反射的に立ち上がった。
上手く息を吸えなくて、喉が変な音を出す。
「だ、だれか」
キョロキョロと辺りを見渡して、けれど誰も見当たらない。
見慣れた森にいるはずが、今は心細くて仕方なかった。
「ロジェ……!ロジェ!」
道を引き返して、一緒に森へ入った庭師を呼ぶ。
アンナの旦那さん、フィルの、もう一人の飼い主。
走って、走って、思ったより離れてしまっていたと気づいた。
不安が膨らんで大きくなる。
流れて行く木々の間にやっと人影を見つけて、勝手に涙がにじんだ。
「ロジェ!!」
走ってた勢いのまま抱きつく。
ぎゅうと抱きしめる手が、固い拳になって震えた。
「お嬢様?どうしました」
「フィ、フィルが!フィ、フィル……!うっ」
言葉が出てこなくて、余計にあせってしまう。
ロジェが背中をさすって落ち着かせてくれる。
「フィルを見つけたのですか?」
コクコクと頷いた。
「案内は……」
「で、でで、できるっ!」
できると言いながら、ロジェに抱きついたまま離れられない。
抱っこしてもらって、道を指さす。
風が吹いて、葉っぱがサワサワと揺れた。
合わせて地面に落ちる光も揺れる。
とても綺麗なのに、今は頭をグルグルとかき回されるようだ。
フィルのいた場所へ近づくほど、しがみ付く手に力が入った。
「あ……あそ、こ…………?」
首をこてりと傾げた。
さっきと同じ場所へ戻ってきた。
戻ってきたのに、そこにあった景色は、さっきと別ものだった。
上等そうな服を着た、白に近い金の髪をした子が立っている。
木もれ日をキラキラと反射させながら振りむき、見たことも無い、深い紫色の瞳を見せた。
「だ、だれ……」
「フィル!心配したぞ!」
ロジェが私を下ろして手を広げる。
よく見れば、その知らない子の側でフィルがお利口さんにお座りしていた。
「え?」
目を大きく開いて、あちこち見回す。
いくら見ても、いるのは落ち着いて座ってるフィルで、横になって動かなかったフィルは、どこにもいない。
え?あれ??
み、見間違い……じゃなかったし、え、なんで?何が起きてるの??
「フィル?どうした」
大混乱する私の横で、ロジェが少しだけ声を低くした。
フィルはお座りしたまま、ただロジェを見つめている。
いつもならブンブンしっぽを振って飛びつくのに。
「もしや、この犬の飼い主の方でしょうか」
びくりと身体が跳ねた。
人形のような顔をした子が、これまた作り物みたいに透き通った声で話したから。
「はい、私の犬です。何か、粗相があったでしょうか……」
ロジェはその子の存在をいま意識したのか、慌てて帽子を脱いだ。
ハッとして私も帽子を取ろうとし、被ってくるのを忘れたと気づく。
帽子が無いならどうするのがマナーだっただろう。
目の前の男の子は、私のなんか比じゃないくらい立派な服を着ていて、立ち姿も品がある。
たぶん、とっても身分が高い人だ。
「いえ、申し訳ありません。主人のいない犬かと思い違いいたしました。……私はクレマンと申します。イノートル辺境伯家の者です」
男の子の言葉に、目をパチクリさせた。
見た目は私と二つか三つくらいしか変わらないようなのに、大人みたいな話し方をする。
もしかして、もっとずっとお兄さん?
それとも、お育ちが違うって、こういう事?
「イ、イノートル……辺境伯、様の……!」
ロジェが顔を青くして頭を下げた。
イノートル……へんきょうはく……へんきょうはく……どんな位だったけ?
まぁ伯と付くのだから、うちより偉いことは確かだ。
「どうか顔を上げてください。貴方の許可もなく、この者に術をかけてしまったこと、お詫びいたします」
「じゅつ?」
つい横から挟んでしまった口を手でふさぐ。
こういう事をするとお父様に叱られる。
あれ、そういえば、名乗られたのに名乗っていない。
これもお父様に叱られる事だ。
「あの……えっと、私はルネです。ルネ・オーディナといいます。こっちはロジェ、うちの庭師です」
「ルネ嬢、ロジェ殿、お目にかかれて光栄です」
男の子がうやうやしく礼をした。
お目にかかれて光栄なのは、おそらくこちらの方だ。
身分が高いとふんぞり返って偉そうにする人も多いけれど、この子はやたら丁寧に接してくれる。
それなのに、ロジェは縮こまったまま。
「術とは……死霊術のことです。私の家では、魔術の早期熟達のため、日々欠かさず訓練を行います。本日はオーディナ領の通行と共に、こちらの森の使用許可をいただいておりました」
「しりょう、じゅつ……」
って、何だろう。
「こ、殺したのですか」
ロジェが思わずといったように呟き、その口を引き結んでさらに頭を下げた。わずかに震えている。
こっころ?え、なんて。
「いえ……倒れて息絶えていました。外傷は無いので、おそらく病死です」
男の子が淡々と答えてくれる。
ロジェは頭を下げたまま目も合わせない。
息、たえていた?病死?
やっぱり、フィルは亡くなって……?
でも、今はこうしてお座りしてて……あれ??
また混乱してしまう。
グルグル考えていると、ため息が聞こえた。
「では、術を解きます」
男の子がフィルに手をかざす。
フィルもその手をじっと見つめたかと思うと、避けるように立ち上がった。
その場を離れて脇の小道へ入る。すぐにふり向いて、ひと吠え。
道の先と、私たちとを交互に見やる。
「……?」
不審そうに、そして不安そうにロジェが男の子を見上げた。
「僅かですが、自我が残っています。あまり細かく行動を制限していなかったので……」
フィルがまた一つ吠えた。
「いま止めさせます」
「え、ま、待って!……ください」
男の子を止めて、もう一度フィルに目を向ける。
相変わらず、こちらと道の先とを交互に見ていた。
「来てって、言ってるみたい」
フィルが遊んで欲しい時、おやつが欲しい時、いつもああやって私やアンナを呼んでいた。
「行こう」
ロジェの袖を引っ張る。
でも、困ったような顔で私とフィルを見るだけで、足を動かしてくれない。
ぐいぐい引っ張って、それでもダメだった。
ひとりで今のフィルについて行く勇気は無い。
どうしようかと意味もなく瞳や首を動かし、はたと、男の子と目が合った。
「あの、一緒に、来てくれませんか?」
「……私ですか?」
人形のように変わらなかった表情に、少しだけ驚きが映り込む。
しまった。偉い人に頼むことじゃなかったかも知れない。
迷って、でも断られたら断られたで良いからと、俯き気味になりながらも頷く。
男の子はあごに手を当て、考えるような様子を見せた。
「……分かりました。万が一の時は、私がお守りいたします」
受けてもらえた!
嬉しくてパッと顔を上げる。勢いで手も取った。
「ありがとうございます!」
つないだ手は、思っていたよりもずっと温かかった。




