バッドエンドラン
飲みたくも無い酒を飲んでから帰宅、私は風呂の中にいた。
暖かな湯は気を張って酔えなかった私の心を程よくゆるめてくれる。
その温もりのままベッドに入って眠るのがとても好きだった。
そう、好き、だったけれども、もうそれはできない。
私は一つ間違いを犯した。
気を張って酔えなかった酒は湯船のなかで私の全身に回り巡って、眠気を誘う。
自分で認識しているよりも、今日は酔っていたし、疲れていたのだ。
私は日常の幸せな微睡みの中、命を失ってしまった。
夜風を感じるように閉じていた瞼をそっと開く。
遠くに見た夜空は微かに星が震えているのが分かる。
美しい装飾を施されたバルコニーに、音楽と人の楽しそうな会話を背中で聴きながら、私は一人佇んでいた。
私は生まれ変わったね。
全てを悟り、また静かに瞼を閉じた。
ここは未来では無い、中世ヨーロッパの様で違う国。
御伽噺のような世界のある国の令嬢として私は生まれ変わったのだ。
そして、今の人生の私の歩みを改めて振り返る。
愚か、だったわね。
前の人生で当たり前にあった人としての倫理観は無く、沢山の人を踏みにじってきた。
もう、それもお終いにしましょう。
私は罪を重ね過ぎていた。
その正義に満ちた倫理観が前世の自分のものならば、自ら終わらせる度胸とプライドの高さは今の自分のもの。
前世と今世の人格が融合して、私たちは新しい私になったのだ。
それも、もうお別れかも知れないけれど。
ふと視線を感じて隣を向けば、間違えて入ってきた何処かしらの貴族の息子風情と目が合う。
私と同い年くらいのその青年は私と目が合い、しまった、という顔を付きになる。
その顔に私は思わず笑みがこぼれた。
そう、こんな悪党に関わりたくなんか無いものね。
自分の家の権力や財力で派手に着飾っては遊び回り、貴族さえも振り回す、社交界の鼻摘まみ者。
それでも人が寄ってくるのは自分の魅力だと信じて疑わなかった愚か者。
彼にはそれが分かっているらしい。
本当ならば彼を逃してあげたかったのだけれども、今日に限ってそれはできない。
私は彼の方へゆっくりと歩んでいく。
「貴方は確か、騎士団に所属していらっしゃいましたよね。」
「ええ。そうですが…」
私の問いに彼はたじろぎながらも静かに頷き、返事をする。
「明日…明日の夜に馬車を一つお願いできませんか?十数人入る馬車を。どうしても…私が用意する訳にはいかないのです。」
派手に遊びまわる令嬢と方や真面目な道を歩んできた子息、挨拶程度の面識はあるものの、決して交わることのなかった二人。
頭から彼が私の話を信じてくれるとは思わなかった。
「…何故そんなことを?」
彼は眉を顰めて怪訝そうな顔で私の顔を見ていた。
それは彼が正しい感覚の持ち主であるという証拠でもある。
「過ちを正すためです。そして…これが私の家が経営しているアヘン窟の鍵になります。」
沢山の宝石で装飾された鍵は私の手のひらから彼の手のひらに落ちていく。
「アヘン窟は違法では無いが?」
そう、この世界ではアヘン窟は違法では無い。
けれど、私は続けるようにこう言う。
「それで財産を掠め取り、時に、殺人を課しているのならば?」
その言葉に彼は目を見張る。
アヘン狂いの女王、影で言われている私のあだ名だ。
私の周りにいた人間はみんなアヘン中毒によって全てを失っていった。
私は…ただの売り子。
金やアヘン、餌をばら撒いて誘き寄せるための道具。
何かあっても素行の悪い娘の単独犯と切り捨てればいいだけなのだ。
鍵を持たせたのがその証拠である。
全部が私のせい、だと。
身体が蝕まれ初めて初めて気づいたのだ、自分の本当の価値というものを。
けれど、その高いプライドが事実を飲み込む事ができなかった。
「信頼の証としてこれを…」
自分のしていたルビーの首飾りを外し、彼の手のひらの中に入れ込んだ。
見せびらかすように毎回付けていたお気に入りの首飾りだったが、何のためらいもなく彼に渡す。
家の栄華を、私の強欲さと傲慢さを著したような国内最大級のルビーが嵌め込まれた首飾り。
これくらいで罪が償えるとは思っていないが、もうすぐ待ち構えている終焉にその首飾りは必要ない。
ならば、信頼を勝ち取る担保にした方が早いだろう。
「明日の夕刻、南門で待っています。」
私は念を押して光り輝く表舞台へと舞い戻る。
そして、私はいつもの様に下品な笑い声を上げた。
会って間もない人を信じるなんて考えられないことだが、相手だってそう、私を信じてくれるかどうかはわからない。
けれど、万が一に掛けてしまった。
それが愚かしさを重ねただけだったとしても、もう私にはそれしか無い。
無償で助けてくれるような人徳など私には何一つ身につけていないのだから。
有名デザイナーが手掛けたドレスたちは宝石たちがたくさん散りばめられているものの、それ以上にレースやフリルなど高級な絹などが使われており、とても燃えやすそうだった。
床一面に並べたドレスに、更に愛用のマッサージオイルなど燃えやすそうな液体を満遍なく全て浸していく。
さようなら、我が人生。
私の最期がどちらに転ぶのかはわからないが、心の中でプロローグを告げ、ランプをオイルの染み込んだドレスの海へと落とした。
燃え広がるのを見ることなく、振り返ると簡素な寝間着のまま部屋を飛び出す。
私の部屋は3階、火を消すには時間がかかるだろう。
私は急いで敷地の南に位置する別宅へと足を運ぶ。
別宅の前には二人の見張りが侵入者、もしくは脱走者を阻む様に佇んでいた。
「お退きなさい!」
見張りの男たちに向け、私はいつもの様にヒステリックな声を上げた。
「お嬢様…何故ここに?」
戸惑う男に私は続けて令嬢を演じる。
「本宅が火事なの!手が空いているのならお行きなさい!このクズ!私は南棟で火が消えるのを待つからさっさと行け!」
「しかし、南棟には子どもたちが…」
孤児院から拾ってきた子どもたちはこの屋敷に招待され、贅沢な一日を過ごした後、然るべきところへ向かわせる手筈になっていた。
見目の良い者はアヘン窟へと送られ貴族の愛人候補となり、他の者はアヘン畑の作業員として奴隷の様に働かせられる。
言葉にすればその悲惨さは隠せるが、実態は正に反吐がでる様な劣悪さだった。
それでも前の私が平気だったのは、親の教育と周りの環境の賜物だろう。
貴族以外は人じゃないという論調があるように、私は人を人として見ていなかったし、親がぶら下げるご褒美しか興味が無かったのだ。
同じ魂を持ちながらこうも違う人格になり得るのかと、自分自身に驚き、そして失望した。
「あんなの追い出せばいいわ。それよりも早くしなさいよ!役立たずの馬鹿者!」
私は怒鳴りながら南棟の玄関の扉を開けた。
背後で男たちが去っていくのを感じながら中へと進んで行くと、メイドたちも同じように南棟から追い出して火事で大騒ぎの本宅へと向かわせる。
最後に子どもたちの眠る部屋を訪れた。
「起きろ!さっさと屋敷から出て行け!」
大声で叫ぶと少しずつ子どもたちが眠い目をこすりながらゆったりと起きていく。
それを近くにいる子どもの腕で掴んで急かした。
「早く起きないと殺すわよ!」
怒鳴り声に怯えて子ども達は固まってしまったが、私がテーブルを蹴り倒すと慌ててベッドから降りてくる。
子どもたちが全員居るのを確認して、背中を翻す。
「死にたくなかったらついてらっしゃい!」
子どもたちがついてこれる様に走らずに、しかし足早に歩みを進める。
逃げていないか何度も振り返るが、案外子どもたちは素直に自分の背後を追ってきていた。
自分の持ち得ないその素直さにやはり自分のした事は間違っていないのだと確信し、胸が熱くなった。
南門まであと少し。
あとは助けを頼んだあの青年を信じるしかない。
残された時間でできる最大限のこと、最期のこと、自分にできることはほんの少ししか無かった。
最期が近づくにつれて自分の想いに飲み込まれそうになる。
一歩ずつ重くなる足取りを引きずる様に前へと進む。
これが成功しなければ過去と今が融合した意味もない。
私は…きっとこの為に来世を思い出した。
南門に待ち構える馬車を見つけると、私は途端に力が抜けて膝から崩れ落ちた。
「馬車に乗るのよ!早くおし!」
地面手を付き、力を振り絞って罵倒する。
自分よりも前を歩き、馬車に向かう子どもたちを見て、私は力無く地面に頬を擦り付けた。
願わくばもう二度と子どもたちが不幸な目に合わないように…あの人が罪を暴いてくれたなら…
最後にそう思いながら、私は意識を失った。
あの夜のこと、彼は私に与えられた神の救いの手だった。
自分を蔑む潔癖な目が私の潰れそうな心を律してくれる。
私もあの人のように清らかでいられたのなら…清らかに生まれ変わることができていたならば…
穏やかに目覚めたのは綺麗なベッドに横たわっていたからだと、直ぐに気がつく。
「子どもたちは?私たちの罪は?」
「子どもは保護した。君たちの罪は近いうちに暴かれる予定だ。」
思った疑問をそのまま口に出すと穏やかな男性の声が平然と答えてくれた。
その声の主は以前会った時のような戸惑いや疑いの眼差しは無く、私を受け入れてくれるようで、この足早に過ぎ去った拙い行いも無駄では無かったのだとそう思わせてくれる。
最期に脳裏に焼き付けておきたかったのに、涙で彼の穏やかな表情が滲んでいく。
背筋が鳥肌が立つように騒めき出し、私は手の先から虫たちが這い上がってくるような不快感に襲われた。
もうすぐ彼を彼だと認識も出来なくなって、自分が見送ってきた者たちと同じく気の狂った野獣のように暴れるのだろう。
内部から虫たちに嬲られる感覚に、低い唸り声が上がる。
私は最期に何故か彼と穏やかに微笑み合う妄想を頭の片隅に思い浮んだ。
それはこれから地獄の業火で焼かれる私の叶うことの無い願い。
遠くで聞こえる彼の言葉は認識することはできずに、私は地獄へと向かう。
発作が落ち着き、夢うつつの中で最早誰かも忘れた彼が私に語りかける。
「生きて償うんだ」
と。
彼の言葉は残酷だ。
生きて幾度もの地獄を味わい、死してまた魂が消え失せるまで焼かれろ、とそう言っているのだ。
安易な死は私には許されない、と。
それでも彼の言葉はどこか優しく、愛おしく私の胸の中で響く。
それもまた遠くなり、やがて地獄がやって来るのだ。
殺してくれと声が枯れるまで叫び、今日も私は生きている。