闇を見つめて 7
どろりとした不快な感触に取り込まれながら湿地帯へと落ちていくような、そんな眠りの中で、私はいつもとは明らかに違う風景を見ていた。
丸い月のようでいて黒いそれは時折激しく跳ね、透明のゆりかごの中に閉じ込められたまま細胞分裂をしていく。ひとつがふたつ、ふたつがよっつ、よっつがやっつ、やっつが十六に……。リズムを刻むように増幅してゆく何かが私の視界を覆いつくす。拍動する半透明の小さな心臓に、色のない白血球が流れ込んでは押し出されていく。ゆるゆると骨格らしき線の色が濃くなり、膜はやがてピンク色の肌に変わり、サーモンピンクの小さなオタマジャクシから申し訳ない程度に生えた手足がすくすくと形を変えていく。
命が授かり肉体を創造する過程を夢に見ながら、私は今もどこかで発見を待っている名前も素性も知らない遺体と、その遺棄に関わった陵平の未来に想いを馳せた。言いようのない悲しみが心臓をぎゅっと握りしめてくるようで苦しい。
知らぬふりをして無かったことにはできない。
生まれてくるときは皆がまっさらな心で、それぞれの計画があったはずなのに、奪う者が奪われる者から取り返しのつかない命を毟り取った罪は、果てしなく深い。
だから、知らぬふりなどしてはならない。
私にはできない。
たとえ陵平を警察に突き出すことになっても、彼の犯した罪を証明することになったとしても、それで憎まれることになろうとも決して折れるべきではない。
私にとって陵平はどうでも良い存在ではないからだ。
彼から目を離すべきではなかった。
押しかけて迷惑がられたとしても、そばにいてその手を汚す瞬間に全力で止めるべきだった。家族が不在で人同士の関わり方が希薄な私達は、繋がりを持つことに極度な緊張を感じ、そして大きな期待をしてしまう。……怖かった。
いつか来る別れがただ怖かった。
そんな理由で傍に駆け寄ることを躊躇ったのは、この私。
私は弱さに負けたんだ。
陵平をただ信じれば良かった。
惰性的に体の関係を始めたとしても、最初の出会いから私たちが互いに感じた強い繋がりをもっと信じても良かったんだ。そうしておけば、不良たちと関わって死体遺棄に協力することもなかったかもしれない。
年齢や未熟さを言い訳にする気は、もう起こらない。
もう迷わない。
陵平の手を離さない。私からは決して―――――。
頬に触れてくるごつごつした指が、恐らく私の涙を拭いているのだろう。重い瞼を開けなくても、近付いてくる陵平の顔が視えた。
「なぁ、陵平?」
情けないほどか細い声しか出なかった。手前で止まった彼に自分から手を伸ばす。
「……まどか」
「全部、やり直したい。私とやり直して……」
「どうして、こんな俺を……?」
迷いながら問いかける心を抱きしめるつもりでしがみついた。
「傍にいて欲しいからだよ!ずっと………」
弱弱しく叫んだら、唇を塞がれた。
欲しいものがあるなら、ちゃんと明確な言葉で伝え合わなくちゃいけないんだ。そうじゃないと、またすぐに私達は離れて迷子になる。
見失わないために、手を離さないで―――。傍にいて―――。
「お前のことが、うんざりするぐらい、好きだからだよ……」
疲労する体に慣れない感覚がまたやってくる。心のつながりを確かめ合うように、陵平が私の中に再び入り込んだ。今はただそれが嬉しくて、その瞬間だけを感じながらまどろんでいく。思考は停止してただここにふたつの命が確かに交差した。私の体の一部となった陵平の体を抱きしめる。
二人で溺れるような時を過ごして、いつの間にか本当に眠りに落ちた。ゆっくりと深く深い湖の底に沈んでいくみたいに……。
ポー―――――ン
呼び鈴の音が遠くに聞こえる。
何度目かの音に意識が急速に覚醒し、飛び起きた。
半裸で抱き合いながらソファで眠っていた私達はほぼ同時に起きた。
ポー―――――ン
再びの音。時計は深夜一時を超えたところだ。
服を着てインターフォンを覗くと、カメラの前に人影があった。こんな時間帯に誰かが訪ねてきたことなどないから、私は眠い目を凝らしてその人の顔をよく見ようとモニターに近付いた。
次の瞬間。
すべての電化製品の気配が忽然と消えた。停電だ。
だけど奇妙なことに、インターフォンのモニターは暗視モードで起動したままだ。人影もまたカメラに接近して大きな目がこちらを見ていた。
ゾクゾクゾクゾク………
目というよりも黒い穴だった。
深淵の闇が、なぜか私たちを……いや、違う。こいつは陵平を……探しに来た。
「うぅぅぅ………」
突然、背後で陵平が唸り出した。モニターを消して、陵平の体を捕まえてソファーに押し倒す。頭を抱えて痛みに襲われているのが見てわかるほど、辛そうだ。
私は右手に神経を集中させた。全身の毛穴が流れる波動と呼応するようにざわりと波打つと、右腕を通じて手のひらに熱が集まってくる感触がする。蠕動する力を手の内に溜めるためには少なくとも二十秒はかかる。
一定量の力が溜まった時、指先から蜘蛛の糸状の光が迸り、五本の指の中央にそれらは纏まり急速に編み上がっていく。えんぴつ程のサイズになると、直ぐにそれは鋭さと長さを兼ね備えた剣に変化した。
これが私の武器。
魂の光を物質に限りなく近い質量のものに変える。
皮膚を断つことは出来ないが、人の体内に宿る闇を焼き払うことはできる。
「良い?」
陵平は怯えた目で光の剣を見ていた。目の下の隈が異常に濃くなり、引き攣った顔は何をされるのかもうとっくに理解している。首を小刻みに横に振りながら、腰砕けみたいに後退りした。
「逃げるな。陵平。お前の中の闇を消す」
「来るなぁぁぁぁぁ!!」
四つ足の獣のごとく身を翻した奴は、悲鳴を上げて背を向け駆け出した。狭い室内だから逃げるには不利なのに、まるで猫のように素早い動きで玄関に向かう廊下まで走っていく。それを私は素早く追いかけ背中から剣を突き立てた。
手応えがすごい。ブルブルと震えながら、陵平の中にある闇が一気に浄化する。アイロンをかけた時に発するジュッと沸騰するような、そんな音を感じる。刺されている間、陵平は動きを止めたまま断末魔のような悲鳴を上げた。
誰が好き好んで、愛する男にこんな真似がしたいと思うだろう。
二度と、ごめんだ。
振動が緩くなると、同時に消えていた照明がちかちかと点滅しながら復旧した。光の剣は陵平の体内の隅々まで光で闇を焼き尽くした。手応えが消えた体から剣を引き抜くと同時に、腕の中に武器を収めて陵平の体を抱き上げると、やばい程に大量の汗をかいていて、完全に気を失っていた。
冷たい廊下に彼を横たえ、モニターを確認しに行くと女は消えていた。