闇を見つめて 3
忘れないように最後に見た風景を文字に起こす。
うっそうと茂る森の向こう側に見えた、湾の形にそった町明かりを。私が住む街は北海道内でも屈指の都会で、あんな申し訳ない程度の夜景が見える町よりもずっと眩い。
陵平が連れて行ってくれると約束した藻岩山の展望台に昨年一人で行った時、私は地図と実際の地形を眺めて自分の体に立体図を構築させた。私が知る範囲で、あの湾の形や規模は小樽方面のような気がする。
濡れたシャツを脱いで、シャワーに向かった。
長く伸びた髪を洗い、不快な汗を一気に洗い落としていく。
この二年間で私自身も随分と変わったと思う。
並ぶとお母さんよりも背は高く、手足も彼女より長い。
「誰に似たのかしら」ととぼけならがも、彼女の中で終わった過去の男に似ている誰かを想像する。いつも答えのない問いばかりが私の中にどんどん増えてきた。
陵平が何を考えているのかも、ずっと棚上げ状態で、ずっとずっと心残りだった。
充電した携帯端末を見ても、メールも着信履歴もない。
相変わらずお母さんは出掛けていて、私は大抵一軒家に一人で留守番ばかり。
しびれを切らしてお母さんにコールした。
何秒待っても電話に出る気配がないため、諦めて切る。冷蔵庫から出したばかりの冷水を飲み干し、キャミソールと下着だけの恰好で階段を上り自分の部屋に帰ろうとした。
「まどか」
誰かに呼ばれて、私は振り返る。
残響の中に感じる声を思い出すと、今しがた電話をしたお母さんである可能性が高い。
「おかあさん?」
返事はない。空耳かもしれない。
きょろきょろと周囲を見渡したけれど、お母さんの姿は見えない。
手に持っていた携帯端末を見たら、画面に亀裂が走っていた。
「え?!!」
かなり不吉な予感がした。
「ビョンデット?? 答えて!! 聞こえてるんでしょ?!」
誰もいない空間に向かって、私は何度も彼の名を呼んだ。彼もまた、あれからほんの時々しか私に声をかけて来ない。今の私じゃ話にならないとでも言いたげに、相手をしてくれなくなっていたから。
「助けて……」
情けない程小さな声しか出ない。押し寄せてくる様々な不安が私の心を一気に冷やしていく。
皆がみんな、悪い方へと流されていくようで、無性に何かに頼りたくなった。ほんの僅かでも私の不安を引き受けて欲しいと願っている。
「やだ、やだよ! 陵平、お母さん、ビョンデット。誰でも良い、返事してよ……」
込み上げる涙に溺れるように、私は珍しく深みに引き摺り込まれていった。
仕舞いには誰でも良いから傍に居てくれと、らしくないことばかり考えて自分じゃなくなっていくような奇妙な感覚に囚われた。
強い人気取りでいることに、そろそろ嫌気が差して来ている。私は強くなどない。かなり弱虫で、嘘つきで、頼りない。
諦めたくなんかないのに、自分から何もできないのはなぜ?
どうして?
なにが悪かったの?
どこで間違ったの?
陵平がダークサイドの間際で私を待ってたのに、その手を掴まえてやれなかった。
闇に飲まれる前に、こっちに引っ張ってやることが出来たかもしれないのに。
自分よりも陵平を優先すれば良かったの?
陵平が死体遺棄になど関わっている―――。
―――ただの夢じゃないことを確かめなくちゃいけない。
落ち込んでる場合じゃない。
―――死体なら、見つけてあげなくちゃ。
気怠い体を引きずるように、服を着て出掛ける準備を進めた。
ガレージに停めている愛車、HONDAクロスカブ110のグリーンはお母さんからの贈り物だ。カバーを外しメットを被ってメインスタンドを解除。手押しで側道まで押してから愛車に腰を降ろした。小学生のころ、このバイクを初めて見た時からいつか欲しいと思っていた。元気がなくてもこれに触れるだけで、少しは気分が上がる気がする。
これのおかげで私の行動半径はかなり広がった。
ガソリンは満タン。エンジンをかけ、二~三度空ぶかししてギアを入れ、早朝三時過ぎの住宅地の道をできるだけ静かに滑り出した。小樽方面に向かう国道に向かうと、数台の送迎中タクシーとすれ違う。
大通りに出てみても交通量は殆どない。初夏とはいえこの時間帯は空気はかなりひんやりと冷たかった。雨が上がったばかりの道を北上していくと、間もなく海が見えてくる。
朝里川温泉がある山の界隈が臭い気がしていた。ループ状の国道が急斜面の山を登っていく風景が私は気に入っている。バイクでいろんなところに足を運び、土地勘もついてきた。季節や時間帯に気を付けないと野生動物に出くわす危険もあるため、一人でダムに行ってはいけないとお母さんから厳しく注意を受けている。
天狗山スキー場の前を通過すると海が近くなった。もうすぐ左折だ。
空腹を感じて適当なコンビニに立ち寄り、買ったおにぎりふたつを温めて腹ごしらえをする。午前四時になるとトラックの交通量が増えてきた気がする。
お手洗いを済ませてバイクに戻ると、窓ガラス全面黒いフィルムを張った白いTOYOTAアルファードが隣のスペースに駐車した。メットを被った私は性別不明の恰好をしているため、降りてきたジャージ姿で茶髪の数名をグラス越しに眺めた。
陵平が乗った車に似ていたが、違うようだ。
助手席のドアがあくと、車内は信じられないような装飾だった。やけに毛足の長い白い絨毯や、白い革張りのシートカバー、それに青い光が点滅している。男ばかりかと思ったけど二人女の子が乗っているようで、濃厚なコロンの香りがした。
彼女たちは寝ぼけているのかだらしない姿勢でシートにもたれかかったまま、まったく動かない。ドアが開いて閉まるまでの十数秒間で、一度も瞬きをしなかった。
―――こいつらは何だ?
用心しながらバイクに跨り、エンジンを付けた。店内で買い物を済ませた二人の若い男がまた、後部席のドアを開けて乗り込んでいく。買い物袋には飲み物やパン類が詰め込まれていた。
車は急発進するような荒っぽい運転で走り去って行った。
「……危なっかしい」
つぶやきはバイクのアクセルにかき消され、私は私の行く先へと進んだ。山を上る坂を走るのはあまり向かない排気量だけど、焦らなければ大丈夫。それに、こんな早朝に走っている車はごくわずか。温泉街を抜けるといよいよループ状の高架橋に差し掛かり、登り切った先にはダムがある。
邪魔にならない場所にバイクを止めて白んでいく空の下の小さな町明かりを眺めた。群青色をした日本海は果てしなく広い。小樽と札幌の間にあるぽっかりとした素朴な町を見下ろし、周囲に人や動物の気配がないことを確認してから幽体離脱を試みた。
空高く飛んで見下ろす。
――― 違う。ここじゃない。
夢で見た場所はここではない。そう結論付けて体に戻った。
「ビョン。頼むよ、今こそ手を貸して欲しいのに……」
私以外他に誰もいないのに、同じセリフを何度も繰り返す。
「まずはもっと光を強め、自由自在に操れるようになりなさい」という難しいお題を投げつけてから本当に反応してくれなくなった。
陵平のことで心が乱れ過ぎて、光を強めることが難しくなってきている。朝靄の山を降りて来た道を戻りすがら陵平の自宅へ行ってみることに決め、うろ覚えの町を彷徨った。
見覚えのある交差点を当時の記憶をなぞって曲がると、袋小路になっている古い住宅地に入った。大きな門構えの和風建築の家のすぐ横に、築二十五年という一昔前のアパートがある。二階建てで、各階四部屋ずつあって、陵平の部屋は一階の一番手前の部屋だ。
往来の邪魔にならない場所にバイクを止め、メットをシートに置いて携帯端末をリュックから取り出す。早朝五時半はさすがに非常識な時間帯だ。
一緒に暮らしているはずの爺さんのものだと言っていた車は停まっていなかった。埃っぽくなった傘が二本、窓枠に引っ掛けられているて、ドアの郵便受けの穴には新聞紙や郵便物が無造作に突っ込まれっぱなしだった。
近付いて新聞を見ると、日付けが一週間前のもの。古紙回収用に縛られて積まれた玄関脇の古新聞も色褪せていて、しばらく誰も触ってもいないことがわかる。不在なのだろうか。
ドアにそっと手を乗せてみたけど、中から人の気配を感じることはない。せっかく来たのだから、一応中を覗かせて貰おうと思い、禁断の幽体離脱による偵察を開始した。
掌から押し出すようにして障害物を通過。玄関の靴を見下ろすと、脱ぎ捨てられた大きめのスニーカーと、女物のパンプスが目に飛び込んで来た。
おそるおそる先に進むと、豆電球がついた和室に敷かれた布団に男女が寝ていた。Tシャツにパンツ一枚という薄着をした陵平に身体をくっつけるようにして寝息を立ているのは、まっすぐな黒髪の色白の女。
――― 見てはいけないものを見た。
咄嗟に体に戻って、私は慌てそうになるのを落ち着かせながらバイクに駆け戻った。
バクバクと心臓が破裂しそうなほど脈打っていて、息が苦しい。
まだ、自分が見たものが信じられない。
嘘だ。
こんなの……絶対に―――――
ヘルメットを両手で持ち上げつつもジッと模様を眺めていた。頭の中では陵平がとっくに私のことをもう何とも思っていないのだと、そう思っただけで釘を打ち付けられるような鋭い痛みが走った。
――― 誰なの? どういう関係なの? なんで一緒に寝てんの?