闇を見つめて 2
ビョンデットが私の成長を急いだせいで、私の体は自分でも追いつけない程に変化していた。前よりも格段に筋肉質になった。腕力も瞬発力も上がり、直観もさらに鋭くなって、しかも悪魔に対する知識量も自然と増えた。さらに二年前、私が殆ど運だけで勝利した悪魔はアグネータという女性を象った淫魔だったのだが、悪魔祓いならぬ悪魔退治をすると、倒した悪魔の特性を受け継ぐことが起こるらしい。
淫魔の特性は異性を魅了する能力を筆頭にあれこれと厄介で、標的となった者が淫魔に肉体を支配されたら大変な人生を歩むことになってしまう。
その淫魔の力が自分の中で眠っていることに気付いていたせいで、爆弾を抱えているような気分になってしまっていた私は、どうしても陵平を受け入れる気にはなれなかった。
まだ十五歳だったせいもある。
今は十七歳になるから、少しは気持ちに余裕が出来たとは思うけど……。
性欲が強そうな陵平と一度そんなことをしたら、どうなる?
光の戦士にとって恋愛経験は大事だとビョンデットは言ったけど、私は心が追い付かないうちに体の関係になることに納得いかない。それは今も変わらない。こういうことは慎重であるべきだと私は思ったんだ。だから時間が欲しいと真剣に頼んだのに、アイツは拗ねたように背を向けやがった。
露骨にがっかりして、私に何も期待しなくなった。それがはっきりとした手応えでわかってしまうぐらい、アイツはなんて極端なんだろう。
―――男ってそんなにスケベなことが重要なの?
そしてまさか、 学校まで辞めていたなんて。
―――どうして、あの時言ってくれなかったんだろう?
本屋帰りの駅前の道でばったり再会した時、髪の毛を金髪に染めて耳のピアスの数も増えていた。それに、同じような香水臭い連中とだらしなく笑って、道行く女性を物色するような目をして立っていた。
一目見た瞬間、はっきり言って幻滅した。
私の視線に気付いた瞬間のアイツの顔は、目だけで驚いていた。でもすぐに、その感情を隠して冷たい仮面を被ったなと思ったら、ポケットに両手を突っ込んでゆっくりと私に近付いてきた。格好つけやがって、以前のようにしっぽを振る犬とは違う他人行儀な態度だ。
「よぉ」
味気ない挨拶。一線を引いたような、本当に他人のような態度。
「久しぶり~」
低温の声。そこに苛立ちを隠したような細かい震えを感じる語尾の余韻に、私は苛ついた。
「……何してんの?」
つっけんどんな私の問いに、陵平は反抗的な反応をした。
「お前には関係ない」
「関係ないって、本気で言ってんの?」
「……本気だよ?」
―――私たちはもう恋人じゃないの?
そう言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。野次馬共の視線が刺してくる。好奇心旺盛な彼らが考え居ることに嫌悪の寒気がした。
―――こんな程度の悪い連中と一緒に居るなんて、どうしちゃったの?
唇を噛みしめたら、血の味がした。
太い杭を打ち込まれるがごとく、鋭い痛みが体を貫く。
「……どうしてこんなことに………」
やっと絞り出した問いを、陵平は聞き逃さなかった。
「お前に俺のことなんか、永遠にわからないさ」
ガツンと硬いものでぶん殴られたようなショックに、眩暈がした。
だけどここで感傷的になって目を反らしてはいけないんだ。そう、自分に言い聞かせてやっとの思いで顔を上げて陵平を見据えた。
「いい加減に、その拗ねた態度を改めろよ! じゃないと、まったく話にもならない!!」
周囲の野次馬共が色めき立つ。好奇の視線を浴びながらも、私は怯まない。諦めない。
「……俺を見捨てたくせに……」
唸り声のような低い声から、絶望と怒りが矢のように飛んできて私を突き刺していく。「見捨てた」なんてつもりは微塵もなかったのに、陵平をそんな風に感じさせた自分を認めなけれないけないんだ。
「話し合おう! こんなのは嫌だ!!」
突っ立っている陵平の体に愚連隊がまとわりつきながら私を蔑視していた。連中は陵平の耳元で卑猥で卑怯な言葉を囁いている。随分と荒廃したものだ、と心底心配になった。
「お前ら……こいつに手を出すな。こいつは俺の女だ」
威嚇するように仲間に警告を発し、奴らはあっさりと引き下がった。陵平の言うことは一応聞くらしい。
「まどか……。金曜の朝、あの場所で待ってて」
うっとうしい前髪の隙間から覗いた目を見つめると、少しだけ冷静になった彼がそこにいるような気がした。また話ができると思うと、それだけで嬉しくなって私はつい感情むき出しの笑顔全開で返事をした。
「待ってる!」
―――お前のこと、待たせたのなら。今度は私が待たなくちゃいけない番なのかもな。
陵平がどんな関係を求めていたのか、私は知りたい。あの時の私はまだ、準備ができていなかった。だけど、陵平のことはどんどん好きになっていたのに。たった一度のすれ違いがこうも大きな軋轢になるなんて、思ってもみなかった。
薄暗い街角で何を期待して突っ立っているのか、陵平は愚連隊の中に戻っていく。広い肩超しの向こう側に広がる夕焼け色の空に、陵平は吸い込まれていくようで。手を伸ばしてすぐに思い直した。
金曜日に二人で話ができるなら。
学校をサボっても良い。
話ができるなら―――。
涙で滲んだ視界の奥が、夕闇の染まっていく中をただ立ち尽くして見ていることしかできなかった。心細くても、追いかけて縋りつきたくても、今はまだ待とう。
そう思って、私はやっと家に帰った。
あの時も追いかけて連れ出せば良かったんだ。私は馬鹿だ。
バカだ……。
枕に顔を押し付けて泣いた。
*
濡れた土を鉄製のスコップで掘る数人の男たちの背中が見えた。滝のように降る雨の下で、深夜の森の中で、三人程が休みなく必死に土を掘る。ザックザックという耳障りな音は絶えることはない。
それからしばらくすると、巨大なビニールに包まれたものを肩に担いだ新たなる男がやってきて、三人がかりで掘った穴の中にそれを横たえた。どう見ても、人間の死体じゃないのか?
夢の中では連中に私の存在は視えない。ビニール袋の中身を確かめようと近付くと、すぐに土を被せ始めたため、身を翻して連中の真上に浮いた。
誰もが無言で作業をしていた。白いビニールの上に黒い土がどんどんかけられて、あっという間に覆い隠してしまう。そのまま真上に飛び上がり周囲三百六十度を見渡したけれど、かなりの山奥らしく目ぼしい印もない。さらに上昇するとやっと遠くに夜景が見えた。
垂直降下すると作業を終えた四人の男たちが現場を引き上げていくところだった。フードを被っていて、顔が見えにくい。これが犯罪の現場だとしたら私は連中の顔を見なければいけない。
ビョンデットなしに幽体離脱して悪魔絡みで起きた事件を察知する私は、時々こうした場面に遭遇する。無意識に信号を出した誰かの意識に入ったということだと、私は考えている。
一人ずつ顔を確認しながら、特徴を覚えた。
一人は額に傷があり、一人は鼻の形が特徴的だ。さらにもう一人は……。
見慣れた男の顔だった。
「……陵平?」
私の声が届くわけもなく、死人のように疲れた顔をした陵平が幽体となっている私を通り抜けて、山を下りて行った。
森のざわめきと雨の音の中、埋められたそれを確かめようとするけれど、どうやっても土とビニールの中に隙間もないため確かめようがない。幽体には限界がある。
周囲の樹の側面に、強い念力で傷をつけた。
根気強く、いくつもの樹の幹に傷をつけて、道しるべを残す。こうしておけば、夢から覚めてもこの場所に舞い戻ることが出来るだろうから。
連中が去った後のガソリン臭がする林道わきまで来ると、私の体力も限界に達した。最後の力を振り絞って車に追いつくように林道を飛び続け、舗装された道路にたどり着いた。標識がある場所まで霞む意識を奮い起こしながら飛び、やがて発見した標識を焼き付けて力尽きた。
目覚めるとまだ深夜だった。
私は雨の中にいたようにびっしょりと濡れていた。