闇を見つめて 1
大勢の人々が行き交う朝の通勤通学の時間帯に私はいた。
その光景はまるで川の流れのようである。殆ど無意識なのだろうが、人はなぜか誰かが既に歩いた足跡をなぞりながら歩いていく。車の轍のように、その線の上を辿る彼らは電車と同じだなと思う。目的地まで見えない力が彼らの手を引いて連れて行くのだ。
そんなお馴染みすぎる風景をぼーっと眺めていると、不自然な角度から声がした。
「おはよう」
不意に道端を横切る猫が、私に向かって挨拶をした瞬間だった。
猫が喋るだなんて普通の人は知らない。でも、私にははっきりと聞こえる。
猫も犬も気持ちを乗せて声を発する時は、意思が言葉として耳に届くのだ。彼らは人の傍で暮らしている子ほど、言葉を使い分けも巧になる。
「おはよう」と、唇だけを動かしてアイスグレーの毛皮を纏った”彼女”に挨拶を返すと、しっぽの先をくゆらせながら優雅に立ち去って行った。たまに会う美人な猫だ。
私が動物の言葉がわかるようになったのは今から二年半ほど前。
中三の夏休みに入る直前の出来事だ。
私には数年前から個人的なコーチが付いている。
彼の名前はビョンデット。青い目、白い肌、金髪の長い髪を束ね、女のように整った顔をして日本人の私の名前を滑舌に苦労することもなく平然と呼び捨て、何も知らない私にあらゆることを教えてくれるゴースト。彼に貰った不思議な実を食べて、私は完全なるゴーストウィスパーになった。
人間は霊的な存在であり、眠っている力はまだまだ多くあるという。私はその潜在能力を覚醒させて今この瞬間も確実に進化している。
何事も真面目にやり過ぎるのはよろしくない。息が詰まって脳に記憶されるどこか、機能停止させるだけだ。指導教官を名乗る連中は融通はおろか、ちょっとしたジョークも通用しないから、私は時々逃げ出すしかなくなるわけだけど、高校生になってから小さな事件はいくつか解決し経験値は積んできている。修行僧みたいにストイックというわけではなくても、私なりに前進してはいたんだ。
彼にしてみたら、私は優秀だけれど優等生ではない。その自覚はあるが、改めようとは思わない。人生はしょせん、自分で決断することでしか切り開けないものだと思う。やらされて覚えることなどに価値はない。学生ならば皆が勤勉で脇目も振らずに猛勉強するものじゃないのと同じで、要はメリハリの問題なのだろう。遊ぶことも必要だ。遊び心のない世界なんて息が詰まってしょうがない。
それが、私。暁 和は物事に本腰を入れるような熱血漢とは程遠いところにいる。
ビョンデットは最近諦めているのか、私が集中してない時はすぐにどこかに消えてしまう。やる気のない教え子に構っていられないのだろう。
ぼんやりと眺めているだけでも、通行人たちから立ち上るいろんなものが風景に溶けながら私を追い越していく。やる気や希望に満ちた心で戦場に向かう人なんて、百分の一にも満たない。満たされない人々の波を見送りながら、どうしようもない気持ちを抱えて青空を見上げてみた。昨夜の雨のせいで磨きがかかった大気の色はどこまでも澄んだブルー。まるでビョンデットの瞳の色のようだ、と思う。
腕時計を見ると、約束の時間を五分オーバーしていた。
相変わらず朝が弱いヤツだ。
先月、ばったり再会した男を待ちながら。
あの時感じた違和感について思いを巡らせていく。
原西 陵平は私が通う高校の定時制クラスにいる。
同じ高校二年生で、私の彼氏だ。
だけど一年ほどまったく連絡がつかなくなっていて、まるで私を避けているように顔を見せることもなくなってしまった。嫌われることでもしたのだろうか?
心当たりなら、数えきれないほどある。
恋人同士になったとはいえ、陵平は私に一度しかキスしなかった。受験勉強のために私はヤツと距離を置いた。トモダチのままでいたいと思えなくなって、トモダチ以上の関係に進むことを決意したまでは良かったが、進学の件で大きな格差が生じてしまったのだ。
陵平は勉強が嫌いらしい。対する私は勉強に対して自分でも不思議なほど命懸けだ。進路が明らかになった時から、すれ違いが始まった気がする。そうと思いながらも、どうすればいいのか私にはわからなかった。
決定的になったのは、中学卒業式の帰り道に路上でキスをして、そのままの勢いで陵平は私の部屋に押し掛け、私をベッドに押し倒した時。
―――だけど。
私は、そうなることをきっぱりと拒んだのだ。
なし崩しがイヤだと、言ってやった。
そしたら、あいつはショックを受けて沈黙。
それから気まずいったらない。
馬鹿みたいな話だけど、そんな感じでこの一年半は陵平との関係がどんどん迷宮に入り込んで、あいつは家にも来なくなった。
そんなに体で結ばれることが重要だと言うの?
その問いに対する解答は見つからないまま、現在に至る。
定期テストのたびに私が部屋にもあげなかったことをアイツは根に持っているのだろうか。テストと俺とどっちが大事なの?って顔に書いてあるのを嘲笑ったのが、アイツのプライドを傷つけてしまったというのなら、どうしたら許して貰えるだろうか?
私は間違っていないと思うけれど、正しいとも思わない。
陵平の気持ちを満たしてあげる優しさが決定的に足りないのかもしれない。
そんな恋愛相談をすると、ビョンデットからは「あなたは彼を愛して信じてあげていればいい」としか答えてくれない。母親も同じで、相手がどうあれ自分の気持ちを大事しなさいとしか言わない。なんとも親切なお二人さんだ。
時計を何度見ても秒針は刻刻と進み、遅刻ギリギリまで粘ったもののとうとう陵平の馬鹿野郎は現れなかった。この時間、ここに来いと言ったのは、アイツなのに、だ。
―――暗い目をしてた。
それが気になっている。
どうしてこんなことになってしまったのか、わからない。
近付いたと思ったら離れていく。
それが、こんなにも寂しいものかと今猛烈に感じている。
私は待つのを諦めて門に向かって歩いた。
駆け込むように生徒たちが急ぎ足で抜き去る中、名残惜しい気持ちで一歩ずつじらすようにして歩いていると、教師から厳しい声がかかり渋々小走りをして門を抜ける。
玄関の自分の靴ロッカーを開けた途端、事態は一変した。
丸まった紺色のストライプのタオルハンカチが私の上靴に突っ込まれていた。見覚えのあるそれを広げ指先で確かめながら匂いを嗅ぐと、鉄臭い。血だ。
「……朝っぱらから、なんなの? これ」
チャイムが鳴り始め、ハンカチを畳んでポケットに突っ込みながら教室に急ぐ。なんとか間に合った私は、自分の席についてから再びハンカチを机の上に広げた。
―――私があげたハンカチに似てる……。でも、違う。陵平のじゃない。
手をかざすだけで何となくだけど、陵平のものではないという確信を覚えた。
授業が始まり、内容に集中できないまま時間は流れ、いつの間にか一日が終わっていく。満たされない心を抱えたまま私は家路に着こうとした。午後五時半過ぎには、定時制の生徒が登校してくる。授業は六時スタートだ。待てば陵平は現れるかもしれない。
―――なにを言えば?
『私たちはまだ付き合ってるの?』
ずっと、抱えてきた疑問。
『付き合えばすぐに男女の仲になる行為をしなければ、恋人とは言わないの?』
お互いに逃げ続けてはいけないのだ。
自分達の関係をはっきりさせる前に、私も陵平も何を求めているのかを伝え合わなければいけない。トモダチならこんなことをいちいち悩まずに、もっと気楽にいられたかもしれないが、今更もう遅い。
私は陵平の告白を受け入れたんだ。
陵平の家族に起きた出来事を知る覚悟をしたんだ。
それなのに。
肝心な時、すでにアイツの心は離れて行った……。
下校する生徒と、登校してくる制服のない彼らが交差し合う時間帯。
玄関の近くの花壇に腰掛け、読書をしながらアイツを待った。
でも、アイツは来なかった。
いつだったか、陵平の隣にいた男子が友達と喋りながら歩いてくるのに気付いて、思い切って聞いてみることにした。
「あのさ」
そいつは驚いて立ち止まった。私を見て目を丸くする。
「陵平を知らない?」
「……あいつなら、もうやめたよ」
「え??!」
―――ショック。
目の前が一瞬暗くなった、気がした。
「陵平さ、すごくヤバい連中とつるんでる。
急に自暴自棄になったんだ。あんた、アイツの元カノだろ?
何も知らないの?」
―――なにもしらない―――
その言葉が私の心の真ん中を抉った。
直ちに頭を抱えて倒れそうなほど気分が落ちていく。
それから、どうやって家まで帰って来れたのか全く記憶がない。激しく落ち込んだ私は、ため息ばかりついて酸素を吸うのも四苦八苦だった。
ベッドに身を投げ出すと、ここで陵平に押し倒されてキスされた時の生々しい記憶を呼び覚ます。どんどん大きくなる陵平の体は重く、力は強くて、強引なほどわがままなキスをされたのだ。余裕のなさが怖かった。不快だった。嫌悪感を覚えた。
「待って!」
「待てない」
「まだこんなの、早いよ!」
「俺はずっと待ってたんだよ」
首筋に湿った柔らかい感触がして、ゾクゾクした。制服を引きはがすように脱がされ、下着だけになった時は、陵平もシャツを素早く脱ぎ去って、上半身裸になっていた。
「お前が今すぐ欲しい」
素肌が直に触れ合って抱きしめられるのは、あれが最初で最後。
陵平の指が私のブラのホックにかかった途端に、私は体を反転させた勢いで陵平をうつ伏せに組み敷いたのだ。私が本気を出せば男の陵平よりも強いのもあって、アイツの両腕を後ろに縛り上げてやった。動けなくなった陵平は驚きと悲しみの顔をうかべて、明らかに動揺していた。
「……やっぱり、まだ駄目」
それしか言えなかった。
男の体を目の前で見た途端に、私はかなり怖くなった。
陵平は怖くない。
ただ、知らない世界の扉を開けることが、怖かった。
変わっていく自分が怖かったんだ。