魂の絆 2
村は六つの区画で成り立っている。我が家は村はずれの北部に位置しているが、マルコム先生の学校兼住居は南部にあった。というわけで普段の倍歩いているとうことになる。ブーツも埃っぽく汚れていた。一時間も磨いたのに台無しだとため息を吐くと、その様子に気付いたマルコム先生は、察し良く頷いた。
都まで行けば石畳みの街道によって、泥水にぬかるんだ轍なんかを跨いで歩かずとも良いことを俺は知っている。夜な夜な迎えに来る馬車に乗れば、勝手に連れて行ってくれるんだから楽なもんだ。
だが間もなく十九歳になる俺の需要はもはや風前の灯火ではある。身体はしっかりとした骨格に成長し、女装すればバレない美貌という看板も限界は来ていた。何より、髭が生えてくるのだから厄介なことこの上ない。
「長靴は洗えば大丈夫ですよ」
「これはただの長靴じゃない。結構いい代物なんだ。これだけは手放したくはないんだが、そろそろキツクなってきた。履き納めだと思って今日は磨いてきたんだが、場違いだったようだ」
「……じゃあ、手放すんですか?」
「できるだけ最後に……」と言い返して、俺は腹の底からため息を漏らした。
道の 脇を歩きながら、ぬかるんだ後のデコボコした土を踏んで、馬が置いて行ったものをできるだけ回避する。最近は肥料にもならないのか、放置されっぱなしで少々臭いも気になってしまう。不衛生な村だ。かつて領主であった父上が見たらさぞ嘆かわしく文句垂れるに違いない。
「ひどいな……」
「人手がいないんですよ。年を越すために今から都に出稼ぎに出てる者が多いんです」
それは確かに納得の背景だなと思う。この道に転がった馬の糞といい、馭者といい、人より馬の数が多い現状からこの村もあと数年後には廃村になっても不思議じゃない気がした。特に産業もなく観光資源にも乏しい村で、人を呼ぶ要素が圧倒的に欠けている。
だけど俺にとったら生まれ育った素朴な田園風景が何よりの安らぎで、妾の子というわりに兄姉には大分可愛がって貰った身の上としては、愛着が勝っていた。
もしも、いつか兄姉が訪れた時に。俺が幽霊屋敷同然とはいえ管理していれば少しは恩を返せるかもしれないだろう?
憧れの兄姉とまた会いたい。そんな夢を捨てられずにいるおかげで俺は荒んだ毎日を生き抜くことが出来るているのだろう。この恋慕のような感情は理屈ではどうにも収まらないのだった。
「次の角を曲がったらもうすぐです」
マルコム先生は俺の足取りに気遣いながら道案内をしている。先生という肩書を持つ者の中には割りとふんぞり返るいばりんぼうが多いものだが、彼は違うタイプだ。遠い昔、わずかな期間だけこのマルコム先生の学舎に足を運び、文字の読み書きを教わった記憶は微かだが残っている。あの頃は口ひげなんてなくて、もっと細くて色白で、物腰柔らかくて面倒見の良い好青年だった。それは今も変わっていないのだろう。
白髪交じりの髪を整髪油で押さえつけた先生の髪は襟足のあたりでわずかに縮れていた。くせ毛は昔のままだ。懐かしい気持ちになる。
白い塔のある教会が表れて、その奥に長く続く二階建ての建物がマルコム先生の学校兼教会なのだろう。うろ覚えの通りの建物を見て、間違いなく彼だとわかると俺もやっと安心できるというものだ。
それにしてもなぜ先生は、俺が裏稼業をしていることを見破ったのだろうか。
「着きました。彼女はおそらく聖堂にいるかもしれない」
「聖堂に?」
不思議だった。
荒んだ世界に零れ落ちた俺達風情は神の信仰心を真っ先に捨てるものだ。今更神に祈りを捧げるなんて考えられない。
「鍵を取ってきます。正面入り口で待っていてください」
「はいよ」
俺は石段を上がりブーツの泥を隠し持っていた布切れで払い落とした。ブーツが汚れているというだけで全身がどろだらけのようにしか感じられない。どんなに金が無くても、俺は清潔好きだ。そんなわけで普段は掃除ばかりしている。
掃除が行き届いた教会の入り口周りを見て、人の手入れの素晴らしさを感じてすがすがしい気持ちになった。
ガチャガチャと内側から鍵が開けられ、俺は両開きのドアから中に招き入れられた。
聖堂の入り口に入ってすぐ左脇に小さな小屋がある。これがいわゆる懺悔の部屋だ。俺は一度も入ったことがない。神に詫びるような真似は一度もしていないからだ。
静寂の中に微かな呼吸音がしていた。耳で拾う音というよりは、目に見える人の気配を俺は感じ取る。植物の蔦を思わせる不思議な模様が広がって、その人を形作る何かを俺は視ることができた。色や形は様々あって、ひとりずつパターンがあるらしいそれらの名も知らないが、目を閉じると一層はっきりと視えるわけで、そのことは誰にも明かしたことはない。
なのに背後に立つ先生が「やっぱり、すぐに見つけましたね」と意味深なことを言った。
「彼女の名はロビン。現王によって潰されたゴールド家の五女です」
「その名で紹介するの、やめて」
先生が言い終わらないうちに少女は飛び出して制止した。
「もう、あの家と私は無関係なんだから」
ツンとしたすまし顔の少女は想像を超える可憐さがあったが、痩せ過ぎな印象だ。金色の髪、細い顎、大きな瞳は青いガラス玉のように輝いていて、鼻と口は小ぶり。どう見てもまだ幼い少女だ。とても十四歳には見えない。彼女から立ち上る模様があまりにも大きく広がるから、俺は目を見開いて驚いた顔をしていたのだろう。
「どうかして?」と、少女らしからぬ強気な反応が返ってきた。
とはいえすぐに彼女は黙っている俺をチラリと一瞥し、先生に視点を戻す。気のせいかもしれないが耳が赤く染まっていた。俺を見て緊張しているのが手に取るように伝わってくる。
「おやおや、似た者同士。早速波長が合ったようですね。ロビンが人に話しかけるのはここでは初めての事です」
マルコム先生は笑いながら言った。
「 ロビン。この人が今朝話したビョンデット・アズナブールです。やはり思った通り、彼と君はお似合いの二人だ」
「どうしてそう思うんだ?」と、俺は食いついた。
「神様がそう言うんですよ」
俺はロビンを観察した。細すぎる首に薄いショールを蒔きつけ、肌の露出を極度に隠した神経質な服装をしている。この年頃の娘とは思えない老女のような印象を与えている。
「……神はいない」
「神様なんていないわ」
俺たちはほぼ同時に反論した。自然と目と目が合うと、ロビンは唇を噛んですぐに顔を反らした。わざとらしいほどに切れの良い動きに見惚れてしまう。
「ほら、言うこと成すこと同じ反応をする」と、先生は可笑しそうに声を上げて笑った。
先生の笑い声を、耳まで赤くしながらロビンは俯いてやり過ごそうとした。俺は、もっと彼女について知りたくなってくる。
「どうです? ビョンデット。彼女と食事でも」
「食事だなんて、そんな大そうなものは無理だ」
「もちろん、こちらで用意させてもらいますよ」
先生はそう言いながら、教会の裏口の方へと歩いて行ってしまった。二人にきりになると、ロビンは上目遣いで俺を見上げ、腹の底から声を絞り出した。
「あなたは、なぜノコノコこんなところにやって来たの?」
何を言っているのか、わからない。俺は茫然として、首を傾げていた。
「あの方が何を吹聴したのか存じ上げませんが、私はもう誰の相手もしたくありません。もしも、私に期待しているのなら今すぐ諦めてお帰り下さい」
急にすまし顔をして、顎をつんと上げてそう言い放った。いかにも高飛車な仕草だ。
「そんなにプライドが大事かよ?」
無意識に、そんなことを返していた。特に深い意味なんてない。
「なんですって? プライドが大事かなんて、よくもそんな当たり前なことを質問されるのね? あなたにはないのですか? プライドが」
プライドなんて、とっくにどこかで無くしちまった。そんなものにしがみついていたら、俺は何度も死ななくちゃいけなくなる。生きるために惨めで無様なことも受け入れた。死ぬ度胸がないんだから、しょうがない。
「ねぇよ。俺には、邪魔でしかなかったからな。誰に後ろ指刺されても、俺は命根性は捨てられない。プライドのために死んだ奴をうんざりするほど見て来たが、命より大事なものなんてないだろ?」
ロビンは吊り上がった目を更に吊り上げて、きつく俺を睨んだ。なかなか色っぽい目つきだ。これは虐め甲斐がありそうだ、と悦ぶ男が多くいるに違いない。
「あの男が何をどう考えて俺達を引き合わせたがったのか、俺は知らない。だがな、俺ははっきり言って、お前みたいなプライドの高い女は嫌いだ。こっちから願い下げだね」
俺は昔から、女が苦手だ。こういう女の態度がいちいち鼻につく。共通の話題で安らぎを得られるとも考えにくい。俺が口を開けば、大抵の女は汚いものを見るような目を向けて、さっさと距離を置いたものだ。
かと言って、男共が普段からそうしているように、女を見栄えの優れている家財道具や快楽の道具としか見ない連中とも気は合った試しはない。皆、いい加減に気付けば良いのだ。男が抱く女の幻想と、女が抱く男の幻想は永遠にかみ合わないのだと。
「そう。それなら話は早いわ。もう行って頂戴。私の前に二度と現れないで」
気持ちいい程に、彼女は言い切った。迷いも未練もない。
俺は母親譲りの女のような容姿端麗のおかげで、男からも女からも引く手あまただ。だが、そうした美貌にさえロビンは興味を示さない。彼女の記憶に残ることもないだろう。清々する。
「ふん。では、マルコム先生によろしく伝えておけ。俺はもう、帰る」
そう言い残して、俺は教会の大きな扉を開けた。すると、いつの間にか真っ黒い雲に覆われた空が引き裂かれんばかりの稲妻と、それを追いかけるように大気を震わせる轟が聞こえてきて、しとどに雨が降り出した。