第一章 『人』
S街を襲った連続殺人事件は春過ぎて夏来にけらしとなっても、未だ解決の兆しは見えなかった。
始まりは四月一日のことである。数多の人々が希望に満ちる、あるいは絶望に苛まれる象徴的な日だ。
殺人鬼、いや、その当時はまだ殺人を犯してはいないから単に『人』と呼称すべきだろう。警察は未だその犯人を男か女かさえ特定できていない。とにかく、これから無実の人々を震え上がらせることになるその『人』は深夜のS駅前に初めて姿を現した。
S街は都会ではない。かといって、田舎というわけでもない。中途半端な人口に中途半端な街並み、中途半端な名産品や中途半端な名所。典型的な『住民に愛されない街』として、S街は日々の営みを続けてきた。隣県にある巨大な都市圏のベッドタウンになるにはやはり中途半端な距離があり、S街で育った若者は意気揚々と他県に流れていくばかりだ。
というような、中途半端を体現したS街の深夜。中心部にあるS駅前にはだらしのない格好の若者が屯していた。だらしのない、といっては少々主観的に過ぎるかもしれない。灰色上下のスウェット、藍色のだぼだぼとしたジャージ、暗黒をそのまま衣服にしたような真っ黒なジャケット。だらしのないという形容はこれらの服装を指し示してのものである。
『人』が現れたのは駅前にある小さな広場、その中心に位置するこれまた小さくかつ地味な噴水の前だった。そこに居座るのは五人組の若者グループである。ガニ股で座ったり、地べたに横になったり、我こそが夜の帝王であると主張しているかのような傍若無人な振る舞いをそれぞれとっている。五人が形成する、ぐにゃぐにゃとした楕円の中心に、『人』はいつの間にか立っていた。移動という過程がなく、まさに瞬間移動で現れたかのように感じた、と生き残った若者は警察の前で供述している。
「ん? なんだてめえ」
一早く気づいたのは寝転がっていた少年だった。視界に入った『人』の足元を見、そして慌てて上方に目を遣ったというところだろう。姿勢を整える際にアスファルトに肘を押しつけてしまい、痛みに顔を歪める。
第一発見者の驚きの声に応じ、残りの四人が各々思い思いの反応を示す。『人』の気を引いたのは、その中でも最も情けない悲鳴を上げた少年だった。光源は遠くの街灯のみでほぼ顔は窺えないが、比較して最も小柄で細身の身体であることだけは把握できる。姿勢や雰囲気から、グループの序列は間違いなく一番下であろう少年だった。
『人』は他を無視し、真っ直ぐその少年を見据えた。少年もぼんやりと『人』を見返す。『人』は黒の仮面を装着していた。装飾はない――それどころか目にも鼻にも穴の開いていない、のっぺらぼうの仮面だ。当然少年には『人』の表情などを推し量る術はない。
「おい、てめえ。舐めたことしてっと――」
どこに彼の怒りを爆発させるポイントがあったのかはわからない。先ほどいち早く『人』に声を掛けた少年が、後頭部に向かって拳を振り上げた。
と、次の瞬間。それは消滅していた。代わりに現れたのは滑らかな断面と、ほとばしる鮮血。
「え?」
動きを止め、呆然と拳だった空間を眺める少年。
そして今度は、その首に『なにか』が突き刺さった。
紅の噴水を二箇所に増やし、不可避的に少年は倒れこむ。がたがたと激しく震え、数秒の内に動かなくなった。
男は再び『なにか』を取り出した。街灯の光を一点に集め、きらりと閃く。
「ヤベエよ、こいつ。ふつーに殺りやがった」
「にげっぞ!」
目の前で起こった異常な状況を正しく理解しようとしないまま、少年たちは生きる二人と死んだ一人を残し、脱兎のごとくその場から逃げ去った。
この類の不良どもは尽くこうなのだ。自分たちの想像を絶する現象に出くわすと、正体を知りたいと思う前にまず保身しか考えられない。いとも簡単に降参宣言をしてしまう、弱虫で、思考停止で、群れ思考の極みなのだ。
広場に残った『人』と少年。『人』は『なにか』を自分の胸の前まで持ち上げた。
『なにか』とは、言うまでもなくナイフである。刃渡り十二センチほどのサバイバルナイフで、一切不純物が付着していない刃からは、神経質なほどに手入れされていることを窺わせる。
少年は微動だにしない。ただじっと『人』の暗黒のっぺらぼうを見つめるだけである。心なしか、その瞳は潤んでいるようだった。
そのまま十数秒二人は睨み合った。
やがて、『人』は不可視の口を開いた。束の間訪れた静寂は破られる。
「俺に殺されるか」
その言葉を無意識に待っていたのだろうか。少年は躊躇わなかった。
「お願い、します」
言い終わるか終わらないかの内に『人』の右腕が唸り、ナイフは残像に変貌し、寸分違わず少年の首筋を絶ち斬り、先の少年と同じく鮮血を迸らせながら地面に堕ちた。
S駅前に、長らくなかった静寂が訪れた。
一人になると、『人』は仮面を外した。中から現れたのは中年の男であった。目には哀しみを湛え、顔の至る所を走る皺はそれが癒えることなく長きに渡って続いてきたものであることを示している。
男は瞼を閉じ、暫くの間少年に黙祷を捧げた。誰かがそこを通りかかる危険性など男の脳裏には全くなかったようである。
それを終えると再び仮面をつけ、一人目の被害者の首筋に突き立ったままのナイフを引き抜き懐にしまい、悠々とその場をあとにした。
これがS街に起こった連続殺人最初の事件の一部始終である。
その後『人』もとい殺人鬼はS街内の様々な地点に出没し、慈悲なき殺戮を繰り返した。
それらが同一犯であると断定されたのは、一連の事件にいくつかの共通点があったためである。
まずいつも深夜の時間帯に事件が起こるということ。次に被害者は毎回若者数人のグループで固まっていたということ。凶器は見つからないものの、被害者の傷はいつも同じ種類のナイフによって作られたものであること。
そして極めつけに、殺害現場に出くわした少年たちの『顔を真っ黒の仮面で覆っていた』という証言である。
ここまで材料が揃えば、警察が同一犯と断定するのもやむなしである。
しかし冒頭に述べたように、S街連続殺人事件は未だに解決の目を見ていない。今までに殺害された被害者の数は十名に及び、事件数としては七を数える。
警察は目撃者の証言からおおよその身長、体型を割り出し指名手配としたものの、顔が分からねば効果は激減するのが事実であった。プロファイルしたデータから判断すると、犯人は男である可能性が高い。しかしあくまでも可能性の話であり、実は大柄な女性であるのかもしれない。その程度までしか捜査が進んでいないのが現状なのである。当然ナイフの購入者も洗ったが有力な情報は出てこなかった。
警察としては夜間の警備を強化することで、被害者の増加を防ぐとともに犯人の現行犯逮捕を目指すぐらいであった。
そんな警察を『人』はあざ笑っているのだろうか。事件発生からおおよそ四か月後、世間が夏休みに突入し、何となく軽やかな空気になっていたある日の夜、殺人鬼は再び闇を跳梁する……。




