あの日の約束をもう一度
涼くん、涼くん、ねぇ、戻ってきて。
なんでこんなことになったの?
私、わたしは、ただ、
「亜芽、俺はもう亜芽の傍にはいられない」
目の前が真っ暗になった気がした。足に力が入らない、頭がふわふわして、私は今立っているのか座っているのかもわからない。手が震えて、どんどん冷たくなっていく。
涼くんがいない世界で、私は生きていける?
「……て、返して」
「亜芽?」
「やだ、やだよ、なんで?
返してよ、涼くんを返して」
「返してなんて! 涼くんは物じゃないのよ!?」
「貴女には傍にいてくれる人がいっぱいるじゃない!
私にはいないの! 涼くんだけなの! 返して、涼くんを返してよぉ……!
やだ、だって、傍にいてくれるって言った、泣かせないって言った、ひとりにしないって言った、言った、のに、うそつき……!」
ぼろっと涙が一粒、目の縁を乗り越えた。そしたら次から次へと続くように涙が零れ落ちて、今までなら涼くんが居たのに、涼くんが隣で泣かないでって、大丈夫だよって拭ってくれたのに、涼くん、涼くん、ひとりにしないで。
「亜芽、」
涼くんの声だけが耳に届いて、でもその声は私の知ってる声と違って、怖くて、もうなにも聞きたくなくて、なにも見たくなくて、逃げるようにその場を走り去った。
涼くんは初めて会ったときから私の特別な人だった。
私の両親は、義務のために夫婦となった人たちだった。お互いのため、親の言う通りに結婚して、子供を作った。でも私は2人にとっていらないモノだった。2人にいるのは男の子で、私はいらなかった、必要なかった。どんなに点数のいいテストも、1番になった駆けっこも、2人にはどうでもいいもので、私は2人にとっていないも同然のモノだった。
そんな中で、私は涼くんに出会った。誰も私を見てくれない、必要としてくれない中で、初めて私を見て、初めて私の名前を呼んで、初めて私に向かって笑ってくれた。私の頭を撫でて、私の手を引いてくれた。
いい子だって、かわいいって、亜芽がいてくれてよかったって、ありがとうって、全部涼くんが初めて言ってくれた。
2人の視界に入れない私の傍にいるって、ひとりにしないって、だから寂しくないよって、泣かせたりしないって、そう、言ってくれたのに。
涼くんが救い上げてくれたのに、涼くんがいないと私はひとりぼっちで、誰からも必要とされない、いらないモノに逆戻りだ。
「涼くんのうそつき……」
ぺたりとしゃがみ込めば、短い草がちくちくと足に当たる。何処だろう、ここ。周りを見ずに走って来ちゃったから、帰り方もわからない。でも、それでいいのかもしれない。
私を探してくれる人なんていないし、どうせひとりになったんだから、誰も知らないこの場所で泣いてしまえばいいのかもしれない
。泣いて、泣いて、泣いて、そうして私はどうしよう。いつだって手を引いてくれた人がいなくなったから、私はどう歩いていいかわからない。迷子になった気分だ。
あぁ、でも、そっか、
「私がこんなだから、涼くんも嫌になっちゃったんだ」
いつだって頼りっきりで、1人で何にも出来なくて、何の役にも立てない人間なんて、涼くんだっていらなくなるよね。
こうなったのも当然なんだ、だって私はいらない子だから、役立たずだから。
返して、なんて、元から涼くんは私のものじゃなかったのにね。
馬鹿みたいだなぁ、私。もう、諦めよう。全部ぜんぶ、諦めてしまえばきっと傷つくこともないし、悲しくなることもない。それでいいんだ、そうしたらきっと私は、
「亜芽!!!」
「りょう、くん……?」
なんで、ここがわかったの、なんでここにいるの、なんで、
私は立ち上がって逃げ出そうとする。でもそんなこと出来なくて、立ち上がったところを手を掴まれて捕まってしまう。
「離して、離してよ、もういいから、ごめんなさい、私、もう大丈夫だから、ぜんぶ諦めるから、だから、涼くん、もういいよ、私の傍にいてくれなくていいよ、私のこと追いかけなくていいよ、ごめんね、いっぱいごめん、私はもう大丈夫だから、涼くんがいなくても、もう、」
「ごめん、亜芽、ごめんね、ごめん、ごめんね」
ぐちゃぐちゃの頭の中から必死に言葉を拾い上げて、うまく伝えられないもどかしさを感じながら、大丈夫だと言う。大丈夫、私は大丈夫だって。でも涼くんは謝りながらぎゅうっと私を抱きしめる。涼くんの体は少し震えていて、涼くんの頭が乗った肩のシャツがじんわりと濡れていくのがわかる。なんで涼くんは泣いてるの?
「なんで涼くんが謝るの? ぜんぶ私が悪いんだよ、私がいなかったらよかったんだよ、だから、いなくなるから、大丈夫だよ、涼くんもう戻っていいよ、涼くんがいたいのはここじゃないでしょう?」
「ここだよ。俺がいたいのはここだよ、亜芽の隣だよ。なんで忘れてたんだろう、俺の1番大切は亜芽なのに。亜芽の隣が俺の居場所なのに」
「涼くん、それは違うよ。
涼くんの居場所はここじゃないよ、忘れてたんじゃなくて、気づいたんだよ。涼くんの居場所がここじゃないって、涼くんがいたい場所はこんなところなんかじゃないって」
フルフルと肩に乗った頭が振られて、涼くんのサラサラとした髪が首にあたってくすぐったい。
「涼くん、もうやめよう?
私は大丈夫だから、だからもう我慢しなくていいよ。ごめんね、ずっと私が縛り付けてたんだね、私が涼くんの幸せを取り上げてたんだね、私、自分のことしか考えてなかったね」
「我慢なんてしてない。俺は俺の意思で亜芽の隣にいたんだから。
亜芽に必要とされるのが嬉しくて、亜芽の特別でいられるのが嬉しかった。
だから俺は亜芽を泣かせるまで気づかなかったんだ。ずっと当たり前にこれからも亜芽がいるって、亜芽の特別は俺だって。
なんでこんなに大切な人を、自分から手放そうとしたんだろう」
またぎゅうっと私を締め付ける腕の力が強くなって、胸が痛くなる。
なんでこんなこと言うの、諦めようとしたのに、大丈夫になるって決めたのに、なんで。
「やめて、涼くんやめて。大丈夫だから、私は大丈夫だから、大丈夫なままでいさせて。諦めるから、期待させないで」
「やだ。俺が大丈夫じゃない。俺は亜芽に諦められたくない。傍にいさせて。信じられないなら信じさせるから、俺をもう一度、亜芽の特別にして」
涼くんの頭が肩から離れて、代わりに体に回っていた手が肩に乗せられた。まっすぐ真剣な目でそう訴えてくる涼くんから、目が離せない。
「私の特別は、ずっと涼くんだもん。ずっと、ずっと、涼くんだけだもん。
でも、涼くんは違うんでしょ? 私、特別じゃないんでしょ?」
「違わない。俺の特別もずっと亜芽だよ」
「嘘! だって、あの人、」
「優華は、天草は、今思えばただ珍しかっただけだった。珍しくて、興味が湧いたのを特別だって思い込んだんだ。
俺の特別はもう何年もずっと特別だったから、それが当たり前だったから、勘違いしたんだ。あの気持ちが恋なんだって、特別な気持ちなんだって。でも全然違った。
亜芽が泣いて、うそつきって言われて、心臓が痛かった。天草なんてどうでもよくなった、亜芽のことしか考えられなくなった。亜芽に嫌われるくらいなら、消えてしまいたいって思った。
亜芽、亜芽、泣かせてごめん、傷つけてごめん、傍にいられないって言ったのは俺だけど、やっぱり傍にいさせて。亜芽の隣にいさせて」
込み上げてくる涙が邪魔で、声が出ない。
口を開いても震えるばかりで、全然言葉が出てきてくれない。
言いたいことがあるのに、覚えてる? って聞きたいのに。約束、忘れなくてもいいのって、諦めなくていいのって。
「亜芽、俺は亜芽が好きです。俺が亜芽を守るから、ずっと俺の隣にいてください。そうしていつか、俺のお嫁さんになってください」
ーー「亜芽ちゃん、僕は亜芽ちゃんが好きです。僕が亜芽ちゃんを守るから、ずっと僕の隣にいてください。そうしていつか、僕のお嫁さんになってください」ーー
「お、ぼえて……」
「うん。俺の大切な記憶だから。亜芽、返事は?」
「……わ、私も涼くんが好きです。だから絶対、絶対だよ? 絶対涼くんのお嫁さんにして、くださ、い」
ーー「わたしも涼くんが好きです。だから絶対、絶対だよ? 絶対涼くんのお嫁さんにしてください」ーー
そうして私たちはあの日と同じように抱きしめ合った。離れないように、隙間なんてなくなるようにぎゅうっと。
それから顔を上げて、結婚式の花嫁さんたちみたいに誓いを込めてキスをした。