第二節 荀彧との決別の真実――統治機構の変革をめぐる致命的摩擦 前編
建安十七年(二一二年)、曹操が「魏公」の位に就き、天子のみに許される九錫の特権を受けようとする政治的策動が表面化した。これは単なる個人の栄誉や権威の要求ではない。後漢帝国という巨大な枠組みの中に、「魏」という独立した領土と権力を有する全く別の国家を創設し、天子の任命に依存しない独自の百官(行政機構)を合法的に設置する、という国家の根本的な構造変革の宣言であった。前節で詳述した邺に置かれた覇府を、単なる軍事拠点から、法的に承認された「第二の国家」へと昇華させる決定的な飛躍である。しかし、曹操が自らの属人的権力の限界を克服し、一族の世襲を確固たるものとするために不可避であったこの強引な体制移行は、彼の覇業を二十年にわたり内政と兵站の両面から支え続けた最大の功臣、尚書令の荀彧からの強烈な反対に逢着することとなる。
旧来の歴史観、とりわけ後世の儒教的道徳観に強く影響を受けた『三国志演義』や野史においては、荀彧が曹操の魏公就任に猛反対した理由を、「純粋なる漢室への忠義」や「簒奪への道義的憤り」に帰着させることが通例であった。漢の禄を食み、漢の臣下として生きた荀彧が、主君である曹操の簒奪の野心に気付き、自らの命を懸けてこれを諫止した悲劇の忠臣である、という構図である。だが、冷徹に史書の記録と当時の政治的力学を紐解けば、この感傷的かつ道徳的な解釈には看過し難い論理的矛盾が生じる。
もし荀彧が、純然たる漢室の擁護者であり、漢王朝の旧来の権威を至上とする保守的な忠臣であったならば、建安五年の「衣帯詔の変(董承らによる曹操暗殺未遂)」や、後の「伏皇后の変」において、親漢室派の官僚や皇族が次々と容赦なく粛清されていく過程を傍観、あるいは事後処理として黙認するはずがない。彼は尚書令(皇帝の秘書官長であり、実質的な行政の最高責任者)という絶大な権限を行使し、曹操の権力基盤を脅かす旧弊な勢力を朝廷の内部から徹底的に排除し、実質的な曹氏の覇権確立に多大な貢献を果たしてきた冷徹な実務家である。彼が長年にわたり曹操の簒奪的行為(丞相への就任や政敵の抹殺)を容認、ないし推進してきたにもかかわらず、建安十七年の魏公就任にのみ猛烈に反対した真の理由は、道義や忠誠心ではなく、国家の「統治機構の設計」に関する致命的な見解の相違に求めねばならない。
荀彧が理想とし、実際に構築しつつあった国家統治の形態は、殷の伊尹や前漢の霍光を歴史的規範とする「強力な輔政者」による体制であった。霍光は前漢の昭帝・宣帝の時代に大司馬大将軍として全権を掌握し、皇帝の廃立すら断行するほどの絶大な権力を振るいながらも、あくまで「漢の臣下」としての枠組み(法理)を逸脱することはなかった。荀彧の眼には、既存の漢の統治機構、とりわけ自らが首座を占める「尚書台」を中核として天下の行政を統合し、曹操がその内部で実質的な最高権力を握り続けることこそが、最も摩擦が少なく合理的な統治手法であると映っていたのである。漢という四百年続いた巨大な権威(国家基盤)の内部で、曹操という不世出の軍事的才覚と自己の卓越した行政手腕を駆動させ続けること。これこそが、荀彧が十数年の歳月を費やして構築し、最適化してきた国家運営の理想形であった。
これに対し、曹操が強行しようとした魏公への就任と魏公国の建国は、荀彧が心血を注いで維持してきたこの一元的な行政機構を根底から破壊する「二重行政の導入」を意味した。曹操が魏公となれば、漢の朝廷とは全く別に、魏国独自の丞相、太尉、御史大夫といった国家組織が編成されることとなる。実権は必然的に邺の魏国政府へと移行し、許昌の尚書台は儀礼的な機能しか持たない空洞化した機関へと転落する。これは単なる役所の新設や権力の移譲に留まらない。これまで「漢の官僚」という大義名分の下で曹操の覇業に協力してきた広範な士大夫層に対し、「実権のない漢の朝廷に仕え続けるか、それとも漢の法理を捨てて魏国に仕えるか」という過酷な踏み絵を強要することに他ならない。
さらに軍事的・地政学的な観点から見れば、建安十七年という時期は、赤壁の敗戦から僅か数年後であり、南方の孫権や西方の劉備といった強大な敵対勢力が未だ健在にして領土を拡張しつつある最中であった。この緊迫した戦時下において、あえて前漢の劉邦が定めた「白馬の盟(劉氏以外の者を王とせず、公の位も極めて厳格に制限する掟)」という漢の絶対的禁忌を破ることは、天下に「逆賊討伐」の絶好の大義名分を自ら進んで与える行為であった。身内であるはずの士大夫層に深刻な思想的分断を持ち込み、官僚機構の内部抗争を誘発することは、国家の行政統治能力を麻痺させかねない極めて危険な賭けである。
外敵との総力戦を持久的に継続している最中に、軍事物資の調達や内政の安定を根底から揺るがすような無用の政治的摩擦を、指導者自らが引き起こすこと。これは、天下の兵站と人事の最高責任者であった荀彧の合理的思考において、到底容認できるものではなかった。『三国志』魏書荀彧伝に記された、魏公就任に反対する際の彼の諫言、「本より義兵を興したのは朝廷を匡し国を寧んずるためである。忠貞の誠実さを秉ち、退譲の実を守るべきだ。君子は人を愛するに徳を以てす、宜しく此くの如くあるべからず」という言葉は、決して主君に対する道徳的・感情的な説教などではない。
これは、「今この時機に既存の統治機構を解体し、敵に大義名分を与えるような急進的な体制変革(魏国の建国)を強行することは、国家運営のリスク管理としてあまりにも非合理的である。曹氏の権力維持は、漢の丞相という既存の法体系の内部において十分に可能である」という、実務の長としての冷徹なる制止にして、最も痛烈な政策批判であったと解釈すべきである。しかし、自らの寿命という越えられぬ壁を前にして、次代の曹丕や一族を守るための「法的に保証された世襲の器」を至急に必要としていた曹操にとって、この荀彧の合理的な制止は、自らの覇道に対する容認し難い抵抗と映った。次編においては、この統治構造の設計図を巡る決定的な対立がもたらした荀彧の謎に満ちた最期と、それに伴う漢王朝の実質的終焉について論を展開していく。
【引用文献・史料】
・陳寿『三国志』魏書 第一 武帝紀
・陳寿『三国志』魏書 第十 荀彧伝
・范曄『後漢書』巻七十 鄭孔荀伝
・司馬光『資治通鑑』巻六十六 漢紀
・班固『漢書』巻六十八 霍光金日磾伝




