表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
曹操は簒奪者ではない――一族生存を懸けた「覇府」創設と、三国志最大の誤算  作者: えいの
終章 総括

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/15

終章 総括 後編

 一代の英傑たる曹操の死後、彼が己の寿命と引き換えに苦心惨憺して築き上げた「権威(漢の朝廷)と実権(魏の覇府)」という精緻なる二重統治機構は、なぜ恒久的な国家の基本構造として定着し得なかったのか。その根本的な崩壊の要因は、彼がどれほど卓越した政治的理性を持ち合わせていようとも、中華の大地を支配する巨大な思想的磁場、すなわち「天命思想」および「易姓革命」の絶対的な理法から逃れることができなかった点に尽きる。

 東方の島国に見られるごとき、君主の血脈そのものが神聖不可侵の価値を持ち、実権を喪失した状態であっても権威として永続し得る「万世一系」の思想的土壌とは異なり、中国における帝位とは天の意志(天命)の代行機関に過ぎない。強大な武力を以て天下を鎮撫し、万民の生活を成り立たせる巨大な行政能力(実権)を持たない者が、いつまでも天子という至高の権威の座に留まり続けることは、儒教的な「名実の一致」を重んじる士大夫層にとって、天の意志に反する極めて不自然かつ忌むべき異常事態と見なされた。曹操の存命中は、彼個人の強烈な属人的威信によってこの易姓革命への圧力をかろうじて抑え込んでいたが、彼の死という特異点の消滅により、名実の不一致を解消せんとする歴史の奔流はもはや誰にも止めることができなくなったのである。

 後を継いだ曹丕には、父が構築したこの複雑な二重体制を維持し続けるだけの個人的威信も、百戦錬磨の将軍たちを無言のうちに服従させる圧倒的な武功も欠けていた。自らの足元を固め、魏国の官僚機構に対する求心力を確立するためには、彼はどうしても「漢の臣下」という矛盾に満ちた立場を捨て、自らが天命を受けた正規の君主として君臨する必要があった。建安二十五年(二二〇年)、曹丕はついに天下の耳目を集める壮大な儀礼を通じて、献帝から帝位を譲り受ける「禅譲」を断行した。ここに漢王朝は完全に滅亡し、権威と権力は再び単一の玉座へと統合され、曹操が模索した覇権並立体制はその歴史的役割を終えたのである。

 しかし、武力による簒奪という野蛮な汚名を避け、あくまで合法的な政権交代を演出したはずのこの禅譲劇は、魏帝国という新たな国家の礎に、取り返しのつかない致命的な亀裂を刻み込む結果となった。前漢の高祖以来、四百年にわたって天下の秩序を維持してきた「劉氏にあらずんば王たらず」という絶対不可侵の権威の壁が、圧倒的な軍事力と形式的な手続きの積み重ねによって、いとも容易く破壊し得ることを天下に証明してしまったからである。「いかに長き伝統を誇る主君であっても、実務の全権を掌握し、正しい作法さえ踏襲すれば、臣下がその座を奪い取ることは合法であり、天命に適うことである」。曹丕の禅譲は、この恐るべき下克上の論理を、他ならぬ魏の朝廷を構成する士大夫層の脳裏に深く、そして鮮烈に焼き付けたのであった。

 自らの手で権威を簒奪し、正統性の神話を破壊した曹丕は、帝位に就いたその瞬間から、今度は自らが誰かに簒奪されるかもしれないという底知れぬ恐怖に苛まれることとなる。彼が最も恐れたのは、外敵たる孫権や劉備ではなく、かつて激しい後継者争いを繰り広げ、強大な軍事力と才能を有していた自らの血族、すなわち曹氏の兄弟たちであった。この拭い難い猜疑心と人間不信が、魏帝国の命脈を絶つ最悪の制度設計を生み出すこととなる。曹丕は、宗室(親族)が政治や軍事に関与することを国法によって一切禁じ、彼らから私兵を奪い、領地を頻繁に移し替え、中央からの厳しい監視網の下に幽閉するという、極限までの無力化政策を断行したのである。

 この苛烈な宗室排除政策は、曹丕個人の帝位を身内から守るという短期的な目的においては完全に機能した。才能ある兄弟たちは軍事力を行使する機会を永遠に奪われ、監視の重圧の中で次々と憂悶のうちに世を去っていった。しかし、国家の長期的かつ構造的な安全保障という観点から見れば、これはまさに自死に等しい愚行であった。いざという時に皇室を守護すべき軍事的な防波堤(藩屏)を、建国者自らが粉々に破壊してしまったのである。

 曹丕の死後、蜀漢や呉との果てしない国境紛争が続く非常時において、温室に隔離され牙を抜かれた宗室の王たちには、もはや国家の軍を統率する能力など残されてはいなかった。必然的に、巨大な軍事指揮権と中央の行政実権は、陳群や司馬懿をはじめとする非曹氏の士大夫層へと全面的に委譲されていく。曹操がかつて「一族を死の連鎖から守るため」に創り上げた魏国という名の巨大な権力の器は、宗室が自ら武器を置いたことによって深刻な軍権の空洞化を引き起こし、外部の官僚たちによって極めて合法的に、そして静かに占拠されていったのである。

 正始十年(二四九年)、ついにその時が訪れる。司馬懿が高平陵の変を起こし、洛陽の武庫を占拠して武力による政変を断行した際、地方に封じられていた曹氏の諸侯王たちは、ただの一兵も動かすことができなかった。国法によって武器の所持も私兵の使役も、さらには他国の王と連絡を取り合うことすら禁じられていた彼らは、監視官の眼に怯え、自らの一族が根絶やしにされていく中央の惨劇をただ座して待つことしか許されなかったのである。曹氏の覇権は、自らが築き上げた防衛制度の欠陥によって、いかなる軍事的抵抗も示すことができぬまま、呆気なく終焉を迎えた。

 さらに言及すべきは、司馬氏が魏王朝から実権を奪い取り、最終的に帝位を簒奪するに至ったその過程である。司馬懿とその子息たちは、皇帝を傀儡として擁立しながら自らは相国・晋公として絶大な権力を握り、九錫を受け、最終的に禅譲を行わせるという道筋を歩んだ。これは、かつて曹操と曹丕が漢王朝に対して行った「実権の分離」と「権威の簒奪」の手法を、細部に至るまで完璧に模倣したものであった。曹操が編み出した「覇府」という極めて高度な権力の簒奪装置は、皮肉にも彼の子孫を破滅させるための最も有効な凶器として、そのまま司馬氏の手に引き継がれたのである。自らが創り出した簒奪の作法が、そっくりそのまま一族の滅亡として跳ね返ってくるという結末は、歴史の冷酷なる理法がもたらした最大の悲劇と言わざるを得ない。

 曹操孟徳という男は、旧秩序を破壊し尽くして天下を己の欲望のままに簒奪しようとした奸雄では決してなかった。彼は四百年の伝統を持つ漢の権威を重んじ、その大義名分の下で天下を平定し、同時に自らの一族と麾下を粛清の恐怖から守り抜くための、完璧な統治機構を設計しようと苦闘した稀代の構築者であった。だが、彼が歴史の現実に抗って創り上げようとした未完の覇府構想は、天命思想という強固な壁に阻まれて定着せず、次代の猜疑心によって防衛機能(藩屏)を失い、ついには自戒の機能を持たぬ怪物と化して建国者の血脈を喰い尽くしたのである。ここに、大義と防衛に生涯を懸けた一人の英傑の敗北と、三国時代という権力構造の変革期における最も壮大な歴史的悲劇が完結する。


【引用文献・史料】

・陳寿『三国志』魏書 第一 武帝紀

・陳寿『三国志』魏書 第二 文帝紀

・陳寿『三国志』魏書 第四 三少帝紀(斉王芳紀)

・陳寿『三国志』魏書 第十九 任城陳蕭王伝

・房玄齢等『晋書』巻一 宣帝紀

・司馬光『資治通鑑』巻六十九、巻七十四、巻七十五 魏紀

・孟軻『孟子』万章上(天命と王権の移行に関する思想的背景の参照)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ