第二節 簒奪の連鎖――曹丕の制度設計が招いた滅亡 後編
曹丕(文帝)の治世は僅か七年という短命に終わり、黄初七年(二二六年)に長男の曹叡(明帝)が帝位を継承する。蜀漢の丞相たる諸葛亮による度重なる北伐、そして呉の孫権による国境地帯への執拗な侵攻という未曾有の軍事的危機に直面した魏帝国において、国家の存亡を懸けた防衛戦の指揮は、もはや温室に隔離された宗室の諸侯王たちには到底不可能であった。建国の功臣たる宗室の将軍たち、すなわち曹仁や夏侯惇らが老齢や病によって次々と世を去る中、前線の軍事指揮権と中央の行政実権は、必然的に陳群や司馬懿をはじめとする非曹氏の士大夫層へと全面的に委ねられていく。とりわけ司馬懿は、対蜀防衛の最高司令官として関中および隴西の広大な軍事権を掌握し、事実上の独立した軍事基盤を合法的に構築し始めた。曹丕が宗室を政治と軍事の舞台から徹底的に排除したことによって生じた巨大な権力の空白地帯に、外様の士大夫たちが雪崩れ込むように進出していったのである。
さらに、曹丕が帝位就任と引き換えに士大夫層への政治的妥協として制定した「九品官人法」は、この権力移行を制度的に不可逆なものとする決定的な要因となった。本来は戦乱で離散した人材を郷品の評定によって迅速に中央へ登用するための便法であったこの人事制度は、結果として地方の有力な豪族や名門の士大夫が中央の高位高官を世襲的に独占する道を開いたのである。「上品に寒門なく、下品に勢族なし」と称される特権的な門閥貴族階級の形成は、かつて曹操が掲げた「唯才是挙(実力主義)」という革新的な統治理念の完全なる死物化を意味した。軍事権のみならず、官僚機構の人事権までもが特定の一族(士大夫層)の手に握られたことで、魏の皇室は実質的に彼らの強大な既得権益の神輿として担がれるだけの、極めて脆弱な存在へと変質していったのである。
景初三年(二三九年)、明帝曹叡が三十四歳の若さで崩御し、僅か八歳の曹芳(斉王)が即位すると、この構造的な危機はいよいよ取り返しのつかない末期症状を呈することとなる。明帝の遺詔により、宗室の代表として曹爽が、外様の代表として司馬懿が共同で録尚書事(朝政の最高責任者)に任命された。曹爽は、司馬氏をはじめとする士大夫層の権力肥大化に深刻な危機感を抱き、何晏や丁謐ら自らの側近を登用して権力の引き剥がしを図った。しかし、曹爽自身が長きにわたる宗室無力化の温室で育った権威の亡者に過ぎず、百戦錬磨の司馬懿に対抗し得る軍事的実績も、国家を束ねる政治的経綸も持ち合わせてはいなかった。曹爽による拙劣な専権は、単なる身内びいきの政治腐敗と映り、かえって天下の士大夫層の激しい反発と司馬氏への大義名分の付与を招く結果となったのである。
そして正始十年(二四九年)、ついに魏帝国の息の根を止める決定的な武力政変が勃発する。曹芳と曹爽が一族を挙げて高平陵(明帝の陵墓)へ参詣に赴いた隙を突き、病を装って隠棲していた司馬懿が洛陽において挙兵したのである。いわゆる「高平陵の変」である。皇太后の令を盾に洛陽の武庫を占拠し、武力によって朝廷を制圧した司馬懿に対し、本来であれば、地方に封じられた曹氏の諸侯王たちが一斉に蜂起し、逆賊討伐の兵を洛陽へ向けるべき絶好の機であった。前漢の呉楚七国の乱の歴史に見られるように、親族の有する軍事力は中央の政変に対する最大の抑止力であり、簒奪者に対する反撃の要となるはずである。
しかし、魏の国土は不気味なほどの静寂に包まれたまま、いかなる反乱の狼煙も上がることはなかった。彼らが立ち上がらなかったのではない。誰一人として「立ち上がるための手足」を持っていなかったのである。曹丕以来の徹底した宗室抑圧政策により、諸侯王たちには一兵の私兵も与えられず、武器の所持も、隣国の王と密使を交わして連絡網を構築することすら国法によって厳禁されていた。彼らは監視官の厳しい眼光の下に置かれ、中央の政変の情報すら正確に把握できぬまま、ただ自己の宮殿で処分の決定に怯えることしか許されていなかったのである。国家の有事において皇室を死守すべき「藩屏」は、自らの手によってとうの昔に粉々に解体されていた。結果として曹爽は一切の軍事的抵抗を諦めて降伏し、彼の一族郎党は悉く三族皆殺しの刑に処された。これにより、魏の軍事と政治の全権は完全に司馬氏の手中に帰したのである。
曹操は漢の朝廷から自らの一族の命を守るため、既存の体制を外部から包摂する「覇府」という精緻にして巨大な実権の器を創り上げた。しかし、その跡を継いだ曹丕は、兄弟からの権力闘争という内なる恐怖に囚われるあまり、一族の軍事的・政治的防衛力そのものを自らの手で解体し、国家の実権を外部の士大夫層へ明け渡すという致命的な制度的欠陥を生み出した。そして、司馬懿をはじめとする士大夫たちは、かつて曹操と曹丕が漢王朝に対して行った「権威の空洞化」と「禅譲という名の簒奪」という全く同じ政治的作法(手順)を、今度は曹氏の皇室に対して極めて冷酷に適用したのである。
統治構造の歴史的転換を目指した曹操の壮大なる覇業は、自らが打破しようとした易姓革命の強烈な思想的引力と、息子の代における猜疑心に満ちた制度設計の過誤によって、中国史上最も短命にして実質的な権力基盤を持たない脆弱な王朝を生み出す結果に終わった。簒奪の作法は連鎖し、覇者の構築した器は内部から容易く乗っ取られた。歴史の冷酷なる理法は、力によって旧体制を破壊し新たな権威を創出する者の前に、全く同じ手法による破滅という皮肉な結末を用意していたのである。これこそが、漢を滅ぼす気はなかった曹操の未完の幕府構想が辿った、必然にして悲劇的な帰結であった。
【引用文献・史料】
・陳寿『三国志』魏書 第二 文帝紀
・陳寿『三国志』魏書 第九 曹爽伝
・陳寿『三国志』魏書 第二十二 桓二陳徐衛伝(陳群伝・九品官人法に関する参照)
・房玄齢等『晋書』巻一 宣帝紀(司馬懿の動向に関する参照)
・司馬光『資治通鑑』巻七十四、巻七十五 魏紀




