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47の縁を結んだ取次番だけが、自分の縁談を知りませんでした

作者: 夢見叶
掲載日:2026/03/31

「リーネ、代わりに行ってきて」


 マリアンヌ嬢は鏡台の前で爪を磨きながら、お見合いの扇を放り投げた。

 銀糸の刺繍が施された、公爵家の紋入りの扇。今日のお相手はヴァルトシュタイン公爵家の嫡男──王都でも指折りの名門だ。


「本日のお見合いは、カルステン伯爵家の威信に関わるものですが」

「だから面倒なのよ。条件だけ伝えて帰ってきてくれればいいわ」


 扇を拾い上げる。金箔の縁が、少しだけ冷たかった。

 宮廷縁談取次番として5年。私が整えた縁談は47組。成約率は92%。

 だが、その47通の条件書に、私の名前が書かれたことは1度もない。


「取次番は道具よ。道具に縁談は要らないでしょう?」


 はい、と答える声は、もうずいぶん前から震えなくなっていた。


         *


 ヴァルトシュタイン公爵家の応接間は、思っていたよりずっと静かだった。

 窓の外で鶯が鳴いている。紅茶の湯気が、午後の光に透けていた。


「お待たせいたしました。本日はマリアンヌ嬢の代理として参りました。カルステン伯爵家付き縁談取次番の、リーネ・アシュフォードと申し──」

「リーネ・アシュフォード殿ですね」


 椅子から立ち上がったのは、銀灰の髪をきちんと梳いた青年だった。

 名乗り終わる前に、名を呼ばれた。


「……失礼ですが、お間違いでは。本日のお相手はカルステン伯爵家のマリアンヌ嬢でございます」

「間違えていない」


 短い。断定。そして──耳たぶだけが、わずかに赤い。


 取次番を5年やっていると、嘘と本気の見分けはつく。

 この人は本気だ。だが、理由が分からない。


「……あの、大変失礼を承知で伺いますが」

「どうぞ」

「なぜ、取次番の名前をご存知なのですか」


 彼は──ヴィクトル・ヴァルトシュタインは、卓上の紙束に手を置いた。

 見覚えのある便箋。見覚えのある筆跡。


 47通。


 私が書いた、47通の条件書だった。


「全部読んだ」


 ──取次番の職業的な脳が、本人の許可なく作動した。

 容姿端麗。声に濁りなし。会話能力──上位。家格──申し分なし。

 そして、他人の条件書を47通読む忍耐力。これは統計にない。


 無意識に胸元の帳面を開きかけて、慌てて手を引いた。


「あの……なぜ、47通も」

「あなたの条件書には、全て最後に1文がある」


 知っている。私の癖だ。取次番の書式にはないのだが、どうしてもやめられなかった。


『このお相手が、幸せでありますように』


「47通、全て同じ1文だ」


 ヴィクトルは紙束の角をきちんと揃えた。几帳面な人だ。


「私が探していたのは、家格でも容姿でもなく──47回、他人の幸せを祈れる人だ」


 取次番の脳が、今度は完全に暴走した。


「お、お待ちください。その条件ですと、成約率の算出が困難です。『幸せを祈れる人』は定量評価の項目にございません」

「定量評価が必要か」

「47組の実績に基づく統計的判断です」

「では統計的に、あなた自身の縁談成約率は何%だ」


 沈黙。


「……0です」


 言ってから、自分の声の小ささに驚いた。


「ならば、私が最初の1件目になる」


 短い。断定。耳たぶが、さっきより赤い。


         *


 紅茶のお代わりが来た。ヴィクトルの手が、かすかに震えている。

 ──取次番の経験値が、勝手に発動する。


「白湯に替えましょうか。お見合いの緊張には白湯が効きます。47組のうち39組で実証済みです」


 ヴィクトルが吹き出した。

 紅茶のカップを持ったまま、肩を震わせている。


「……すまない。お見合いの相手に白湯を勧める人を初めて見た」

「有効な統計データをお伝えしたまでです」

「それは取次番としての発言か」

「取次番は常に取次番です」

「では取次番に質問がある」


 ヴィクトルは笑いを噛み殺しながら、茶器を置いた。


「この見合いの成約見込みは、取次番の見立てで何%だ」


 職業的にしか答えられない質問を、あえてぶつけてくる。この人は、論理の穴を突くのが巧い。


「……現時点での情報では算出できません。お相手の条件書を確認する必要があります」

「では見てくれ」


 ヴィクトルは立ち上がり、棚から1枚の紙を取り出した。


「これが、私の条件書だ」


 受け取った。

 読み始めて、3行目で手が止まった。


『第一条件:他者の幸福を自分の仕事にできる人』

『第二条件:事務的な文体の奥に温度がある人』

『第三条件:自分自身の縁談を、1度も考えたことがない人』


「……これは」

「3年前に提出した。あなたの14通目の条件書を読んだ日に」


 3年。

 この人は3年前から──。


「ですが、この条件書は取次番の手元に届いておりません」

「カルステン伯爵家に届けた。取次番の縁談として処理するよう依頼した」


 数秒、意味を理解できなかった。


「……マリアンヌ嬢の手元に?」

「3年前に」


 つまり。

 マリアンヌ嬢は、3年前から知っていた。公爵家が私を指名していたことを。

 そして──握り潰した。


 「道具に縁談は要らない」と言いながら。


 指先が、膝の上で震えた。


         *


 侍女のエルザが、菓子の追加を持って入ってきた。にこにこしている。


「リーネ様、こちらもどうぞ。……あら、公爵様の条件書ですか」


 紙をちらりと見て、にこりと笑った。


「まあ。全部リーネ様の特徴ですわね。3年前からお台所では有名でしたのよ? 『公爵家のご嫡男が取次番をご指名』って」

「……3年前から、この屋敷の全員が知っていたということですか」

「概ね」


 ヴィクトルは視線を逸らした。首筋まで赤い。

 エルザは爆弾を置いて、にこにこと退室した。


 ──ここで、私は気づいた。


 代理出席だ。条件を伝えて帰るのが職務だ。

 「本日はお時間をいただきありがとうございました」と言って立ち去れば、取次番の立場は守れる。


 でも。

 この席を立ったら、2度とこの人の前に座ることはない。


 47組の縁を結んだ。47回、「このお相手が、幸せでありますように」と書いた。

 1度も──自分のために書いたことがない。


「……ヴィクトル様」


 声が震えた。取次番の声ではなかった。


「代理出席の件ですが──もう少しだけ、延長してもよろしいでしょうか」


 ヴィクトルの目が、一瞬だけ見開かれた。

 それから──ゆっくりと、椅子を引いた。私のために。


「何杯でも、お代わりを用意する」

「白湯で結構です」

「……どんな場面でも白湯を勧めるのだな」


 笑いながら呼び鈴を鳴らす横顔が、午後の光に透けていた。


         *


 白湯を待つ間に、ヴィクトルが47通の条件書を1通ずつ開き始めた。


「14通目。これが最初に目に留まった」

「どの縁談ですか」

「フェルゼン子爵家のご息女と、ハイデン男爵家のご子息」


 覚えている。子爵家のご息女は極度の人見知りで、条件書に『初対面では目を合わせられません』と正直に書いた。普通なら不利になる1文だ。


「あなたの条件書には、こう書いてあった」


 ヴィクトルが読み上げる。


「『初対面で目を合わせられないのは、相手を大切に思う気持ちの裏返しです。この方は、誰よりも丁寧に人と向き合おうとする方です』」


 覚えている。あの1文を書くのに、30分かかった。


「──子爵家のご息女は、今も幸せにしているか」

「はい。昨年、お子が生まれました」


 ヴィクトルは条件書を閉じた。


「47通の条件書を読んで、1つだけ分かったことがある。あなたは人の欠点を長所に書き換える人だ。──私はその人に会いたかった」


 胸の奥が、きゅ、と鳴った。

 条件書を持つ手が震えているのが、自分でも分かった。


「ただ」


 ヴィクトルの声が、少しだけ低くなった。


「1つだけ分からないことがある」


 紅茶の湯気が、2人の間で揺れた。


「あなたは今、取次番として私を評価しているのか。それとも──あなた自身として、ここに座っているのか」


 指先が止まった。


 取次番としてなら、答えられる。容姿端麗、会話能力上位、家格申し分なし、成約率は極めて高いと判断します──と。

 でも、それは「私」の言葉ではない。


「……分かりません」


 正直に言った。


「5年間、取次番でした。人を見るとき、最初に条件が浮かびます。家格が浮かびます。成約率が浮かびます。──私自身の気持ちが、どこにあるのか、分からないんです」


 情けない声だった。47組の縁を結んだ人間が、自分の気持ちの在処すら分からない。


 ヴィクトルは黙っていた。

 それから、1枚の紙を差し出した。


 白紙だった。


「条件書の書式を外してくれ。取次番の筆を、1度だけ置いてくれ」


 白紙が、妙に眩しかった。


「何も書かなくていい。あなたがここに座っていること自体が──私には十分だ」


 ──この人は、条件書を書かせない。

 私が「取次番」を脱いで、「リーネ」として座ることを、待っている。


 帳面を閉じた。

 条件書を持たない手が、こんなに軽いとは知らなかった。


「……白湯、もう1杯いただけますか」


 取次番の助言ではなかった。ただ、もう少しここにいたかった。


 ヴィクトルが呼び鈴を2回鳴らした。1回は白湯。もう1回は──。


「エルザ。カルステン伯爵家に書簡を」


 侍女が戻ってきた。にこにこしている。


「どのようなご用件で」

「取次番リーネ・アシュフォードの縁談を、本日付で正式に申し入れる。代理出席ではなく、本人との成約として」


 エルザがこちらを見た。にこにこしたまま、一言。


「リーネ様、成約のご承認をお願いいたします」


「こ、この成約手続きには上長の承認が──」

「私が上長だ」


 ヴィクトルの声は、どこまでも短くて、断定で。

 そして──耳たぶだけが、まだ赤かった。


         *


 3日後。


 カルステン伯爵家に、ヴァルトシュタイン公爵家からの正式な縁談申入書が届いた。

 マリアンヌ嬢はそれを見て、顔から血の気が引いた。


「な……なぜ取次番に? 私が代わりに行かせたのに」

「はい。マリアンヌ嬢が代わりに行かせたから、公爵家は取次番と直接お会いになれました」


 エルザが、にこにこと答えた。


「3年前に握り潰された条件書の件も、公爵家はご存知です」


 マリアンヌ嬢の唇が、わなわなと震えた。


 宮廷の取次番名簿から、リーネ・アシュフォードの名前が消えた日、カルステン伯爵家では32件の縁談が宙に浮いた。

 後任は見つからなかった。成約率92%の取次番は、5年かけても1人しか育たない。

 マリアンヌ嬢の縁談は、取次番不在のまま凍結された。


 道具がなくなって初めて、道具の重さを知った。


         *


 婚約の祝いの席で、ヴィクトルが1枚の紙を差し出した。


 48通目の条件書だった。

 筆跡は、ヴィクトルのもの。


 最後の1文だけ、読めた。


『このお相手が、幸せでありますように』


 リーネの左手が、紙の上で止まった。

 ヴィクトルは何も言わなかった。

 ただ、その手の上に──自分の手を、重ねた。


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