47の縁を結んだ取次番だけが、自分の縁談を知りませんでした
「リーネ、代わりに行ってきて」
マリアンヌ嬢は鏡台の前で爪を磨きながら、お見合いの扇を放り投げた。
銀糸の刺繍が施された、公爵家の紋入りの扇。今日のお相手はヴァルトシュタイン公爵家の嫡男──王都でも指折りの名門だ。
「本日のお見合いは、カルステン伯爵家の威信に関わるものですが」
「だから面倒なのよ。条件だけ伝えて帰ってきてくれればいいわ」
扇を拾い上げる。金箔の縁が、少しだけ冷たかった。
宮廷縁談取次番として5年。私が整えた縁談は47組。成約率は92%。
だが、その47通の条件書に、私の名前が書かれたことは1度もない。
「取次番は道具よ。道具に縁談は要らないでしょう?」
はい、と答える声は、もうずいぶん前から震えなくなっていた。
*
ヴァルトシュタイン公爵家の応接間は、思っていたよりずっと静かだった。
窓の外で鶯が鳴いている。紅茶の湯気が、午後の光に透けていた。
「お待たせいたしました。本日はマリアンヌ嬢の代理として参りました。カルステン伯爵家付き縁談取次番の、リーネ・アシュフォードと申し──」
「リーネ・アシュフォード殿ですね」
椅子から立ち上がったのは、銀灰の髪をきちんと梳いた青年だった。
名乗り終わる前に、名を呼ばれた。
「……失礼ですが、お間違いでは。本日のお相手はカルステン伯爵家のマリアンヌ嬢でございます」
「間違えていない」
短い。断定。そして──耳たぶだけが、わずかに赤い。
取次番を5年やっていると、嘘と本気の見分けはつく。
この人は本気だ。だが、理由が分からない。
「……あの、大変失礼を承知で伺いますが」
「どうぞ」
「なぜ、取次番の名前をご存知なのですか」
彼は──ヴィクトル・ヴァルトシュタインは、卓上の紙束に手を置いた。
見覚えのある便箋。見覚えのある筆跡。
47通。
私が書いた、47通の条件書だった。
「全部読んだ」
──取次番の職業的な脳が、本人の許可なく作動した。
容姿端麗。声に濁りなし。会話能力──上位。家格──申し分なし。
そして、他人の条件書を47通読む忍耐力。これは統計にない。
無意識に胸元の帳面を開きかけて、慌てて手を引いた。
「あの……なぜ、47通も」
「あなたの条件書には、全て最後に1文がある」
知っている。私の癖だ。取次番の書式にはないのだが、どうしてもやめられなかった。
『このお相手が、幸せでありますように』
「47通、全て同じ1文だ」
ヴィクトルは紙束の角をきちんと揃えた。几帳面な人だ。
「私が探していたのは、家格でも容姿でもなく──47回、他人の幸せを祈れる人だ」
取次番の脳が、今度は完全に暴走した。
「お、お待ちください。その条件ですと、成約率の算出が困難です。『幸せを祈れる人』は定量評価の項目にございません」
「定量評価が必要か」
「47組の実績に基づく統計的判断です」
「では統計的に、あなた自身の縁談成約率は何%だ」
沈黙。
「……0です」
言ってから、自分の声の小ささに驚いた。
「ならば、私が最初の1件目になる」
短い。断定。耳たぶが、さっきより赤い。
*
紅茶のお代わりが来た。ヴィクトルの手が、かすかに震えている。
──取次番の経験値が、勝手に発動する。
「白湯に替えましょうか。お見合いの緊張には白湯が効きます。47組のうち39組で実証済みです」
ヴィクトルが吹き出した。
紅茶のカップを持ったまま、肩を震わせている。
「……すまない。お見合いの相手に白湯を勧める人を初めて見た」
「有効な統計データをお伝えしたまでです」
「それは取次番としての発言か」
「取次番は常に取次番です」
「では取次番に質問がある」
ヴィクトルは笑いを噛み殺しながら、茶器を置いた。
「この見合いの成約見込みは、取次番の見立てで何%だ」
職業的にしか答えられない質問を、あえてぶつけてくる。この人は、論理の穴を突くのが巧い。
「……現時点での情報では算出できません。お相手の条件書を確認する必要があります」
「では見てくれ」
ヴィクトルは立ち上がり、棚から1枚の紙を取り出した。
「これが、私の条件書だ」
受け取った。
読み始めて、3行目で手が止まった。
『第一条件:他者の幸福を自分の仕事にできる人』
『第二条件:事務的な文体の奥に温度がある人』
『第三条件:自分自身の縁談を、1度も考えたことがない人』
「……これは」
「3年前に提出した。あなたの14通目の条件書を読んだ日に」
3年。
この人は3年前から──。
「ですが、この条件書は取次番の手元に届いておりません」
「カルステン伯爵家に届けた。取次番の縁談として処理するよう依頼した」
数秒、意味を理解できなかった。
「……マリアンヌ嬢の手元に?」
「3年前に」
つまり。
マリアンヌ嬢は、3年前から知っていた。公爵家が私を指名していたことを。
そして──握り潰した。
「道具に縁談は要らない」と言いながら。
指先が、膝の上で震えた。
*
侍女のエルザが、菓子の追加を持って入ってきた。にこにこしている。
「リーネ様、こちらもどうぞ。……あら、公爵様の条件書ですか」
紙をちらりと見て、にこりと笑った。
「まあ。全部リーネ様の特徴ですわね。3年前からお台所では有名でしたのよ? 『公爵家のご嫡男が取次番をご指名』って」
「……3年前から、この屋敷の全員が知っていたということですか」
「概ね」
ヴィクトルは視線を逸らした。首筋まで赤い。
エルザは爆弾を置いて、にこにこと退室した。
──ここで、私は気づいた。
代理出席だ。条件を伝えて帰るのが職務だ。
「本日はお時間をいただきありがとうございました」と言って立ち去れば、取次番の立場は守れる。
でも。
この席を立ったら、2度とこの人の前に座ることはない。
47組の縁を結んだ。47回、「このお相手が、幸せでありますように」と書いた。
1度も──自分のために書いたことがない。
「……ヴィクトル様」
声が震えた。取次番の声ではなかった。
「代理出席の件ですが──もう少しだけ、延長してもよろしいでしょうか」
ヴィクトルの目が、一瞬だけ見開かれた。
それから──ゆっくりと、椅子を引いた。私のために。
「何杯でも、お代わりを用意する」
「白湯で結構です」
「……どんな場面でも白湯を勧めるのだな」
笑いながら呼び鈴を鳴らす横顔が、午後の光に透けていた。
*
白湯を待つ間に、ヴィクトルが47通の条件書を1通ずつ開き始めた。
「14通目。これが最初に目に留まった」
「どの縁談ですか」
「フェルゼン子爵家のご息女と、ハイデン男爵家のご子息」
覚えている。子爵家のご息女は極度の人見知りで、条件書に『初対面では目を合わせられません』と正直に書いた。普通なら不利になる1文だ。
「あなたの条件書には、こう書いてあった」
ヴィクトルが読み上げる。
「『初対面で目を合わせられないのは、相手を大切に思う気持ちの裏返しです。この方は、誰よりも丁寧に人と向き合おうとする方です』」
覚えている。あの1文を書くのに、30分かかった。
「──子爵家のご息女は、今も幸せにしているか」
「はい。昨年、お子が生まれました」
ヴィクトルは条件書を閉じた。
「47通の条件書を読んで、1つだけ分かったことがある。あなたは人の欠点を長所に書き換える人だ。──私はその人に会いたかった」
胸の奥が、きゅ、と鳴った。
条件書を持つ手が震えているのが、自分でも分かった。
「ただ」
ヴィクトルの声が、少しだけ低くなった。
「1つだけ分からないことがある」
紅茶の湯気が、2人の間で揺れた。
「あなたは今、取次番として私を評価しているのか。それとも──あなた自身として、ここに座っているのか」
指先が止まった。
取次番としてなら、答えられる。容姿端麗、会話能力上位、家格申し分なし、成約率は極めて高いと判断します──と。
でも、それは「私」の言葉ではない。
「……分かりません」
正直に言った。
「5年間、取次番でした。人を見るとき、最初に条件が浮かびます。家格が浮かびます。成約率が浮かびます。──私自身の気持ちが、どこにあるのか、分からないんです」
情けない声だった。47組の縁を結んだ人間が、自分の気持ちの在処すら分からない。
ヴィクトルは黙っていた。
それから、1枚の紙を差し出した。
白紙だった。
「条件書の書式を外してくれ。取次番の筆を、1度だけ置いてくれ」
白紙が、妙に眩しかった。
「何も書かなくていい。あなたがここに座っていること自体が──私には十分だ」
──この人は、条件書を書かせない。
私が「取次番」を脱いで、「リーネ」として座ることを、待っている。
帳面を閉じた。
条件書を持たない手が、こんなに軽いとは知らなかった。
「……白湯、もう1杯いただけますか」
取次番の助言ではなかった。ただ、もう少しここにいたかった。
ヴィクトルが呼び鈴を2回鳴らした。1回は白湯。もう1回は──。
「エルザ。カルステン伯爵家に書簡を」
侍女が戻ってきた。にこにこしている。
「どのようなご用件で」
「取次番リーネ・アシュフォードの縁談を、本日付で正式に申し入れる。代理出席ではなく、本人との成約として」
エルザがこちらを見た。にこにこしたまま、一言。
「リーネ様、成約のご承認をお願いいたします」
「こ、この成約手続きには上長の承認が──」
「私が上長だ」
ヴィクトルの声は、どこまでも短くて、断定で。
そして──耳たぶだけが、まだ赤かった。
*
3日後。
カルステン伯爵家に、ヴァルトシュタイン公爵家からの正式な縁談申入書が届いた。
マリアンヌ嬢はそれを見て、顔から血の気が引いた。
「な……なぜ取次番に? 私が代わりに行かせたのに」
「はい。マリアンヌ嬢が代わりに行かせたから、公爵家は取次番と直接お会いになれました」
エルザが、にこにこと答えた。
「3年前に握り潰された条件書の件も、公爵家はご存知です」
マリアンヌ嬢の唇が、わなわなと震えた。
宮廷の取次番名簿から、リーネ・アシュフォードの名前が消えた日、カルステン伯爵家では32件の縁談が宙に浮いた。
後任は見つからなかった。成約率92%の取次番は、5年かけても1人しか育たない。
マリアンヌ嬢の縁談は、取次番不在のまま凍結された。
道具がなくなって初めて、道具の重さを知った。
*
婚約の祝いの席で、ヴィクトルが1枚の紙を差し出した。
48通目の条件書だった。
筆跡は、ヴィクトルのもの。
最後の1文だけ、読めた。
『このお相手が、幸せでありますように』
リーネの左手が、紙の上で止まった。
ヴィクトルは何も言わなかった。
ただ、その手の上に──自分の手を、重ねた。
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