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第3話 復讐の狼煙は上がった

♪アダージョ(10時間前)♪


 手入れされたすずらんの花が咲き乱れる公園の東屋。僕と少年がふたりベンチに座っていた。


 少年の顔に見覚えがあった。うさぎの耳をした目元が涼しいポエットくんがそのまま成長したかのような。


「ねえ。お姉ちゃん。キスしたい」


「ダメだよ。僕、おじさんだし。それに、仮に女だとしてもおばさんだよ?」


 自分の声に驚く。透き通ったガラスのような声。


 だが、アダージョはアレグロとともに歳を重ねた。刑務所に入って年月が過ぎ、35歳になっていた。どう見ても若い子をたぶらかしていい身分ではない。


「ううん。君はお姉ちゃん。僕が長年片思いを募らせた」


 そう言って、彼は手を握り手元に手繰り寄せる。恋人繋ぎしている白くて綺麗な指。これが、本当に僕の体だというのか。


 眼中に入る木の蔦が絡め取られる自分自身のメタファーのように見えた。


「ダメだよ。僕は君に愛される資格なんか」


「誰を愛するかは僕が決める」


 凛々しい顔が近付いてくる。綺麗な唇が僕のすぐそばに。


「そんなのだめええええええっ! 僕なんかが幸せになんてなっちゃダメなんだから」


 がばっと目が覚めると殺風景な壁。いつもの男子刑務所だ。


 股間を見やると無精。うううう。恥ずかしい夢を見るから。


 こんな夢にときめいてしまうなんて、僕は男として恥ずかしい人間かもしれない。


『おはよう』


『あ、おはよう』


 主人格アレグロが話しかけてくる。


『変な夢見たよな』


『う、うん。うさぎの』


『うさぎ? 変だな。俺は』


 アレグロは言葉を止める。同じ夢を見たのじゃないのか? 少しばかりの違和感を覚える。


『それより、今日は仮出所だな』


『うん。長かったね』


 アレグロは刑務所に入っても真面目さは損なわなかった。模範囚として振る舞うため、人格の主導権は僕になかなか手渡さなかった。それだけ、出所への渇望が相当なものだったのだろう。


 この権利を手に入れるためにアレグロは、無実の罪に対する心にもない反省の弁を繰り返した。その屈辱は心中察してあまりある。


 臥薪嘗胆というリベンジを誓うための執念を綴った故事成句。その元になった異世界中国の春秋時代を舞台とした小説を愛読していた。その内心の闇深い部分はもう一人の人格である僕ですら知る由もない。


 午前はストレッチをしてゆっくりと過ごし。お昼ご飯を食べてから、身の回りを整理し、灰色の建物から出ると、ひとまわり年上の温厚そうな男が待ち構えていた。


「僕、観察保護官のブオーン。仮出所中の生活は僕と一緒にしてもらうことになるからよろしくね。まあ、評判聞いた限り、悪いことしたかもしれないけど、君なら更生できるよ」


 優しさに満ちた言葉。だが、その言葉がアレグロをどれだけ深く傷つけるものなのかは僕はよく知っている。なにせ、彼は無実なのだから。


 時に、残酷な言葉は時に善意の人間の口から飛び出る。


「ありがとうございます。真人間になれるよう頑張ります」


 それは、アレグロの本心ではない。拳と声が同時に震えることでそのことが痛いほど伝わってきた。


 自然豊かだが人通りのない道。長々と生える雑草。地元住民も刑務所の周りを散歩コースにはしたがらないのだろう。遠目に住宅街は見えるものの人がこの道を行き来することはない。


 角を曲がって、刑務官たちの姿がフェードアウトする。すると、アレグロは左右に人がいないことを確認する。


『何をしようとしているの!?」


『俺は、人生を取り戻すんだ!』


 魔法を唱えると虚空から、トランペットを取り出す。吹こうとしているのは、おそらく目の前の人間の意識を失わせる魔法。


 僕は意識の主導権を奪おうと足掻く。


『させねえよ。俺の人生は俺のものだ。貴様のものじゃない』


 ベートーベンの運命を吹くと、目の前の男の膝が崩れ落ちる。


「き、君、せっかく、娑婆に出れたというのに、再び、信用を失うことになるぞ」


 ブオーンはその場にうつ伏せになり意識を失う。


 僕は、心の中で全力で抵抗する。


『な、何をするんだっ!』


『復讐してやるのさ。世間様にも、そして、俺に濡れ衣を着せたやつらにも。そのためには、俺は手段を選ばない』


『君は、無実だったはずだ! こんなことしたら正真正銘の罪人になる!』


『社会的にはとっくに罪人だろうが。一度、傷ついた名誉。これ以上、傷ついても変わらんさ』


 そして、軽やかに曲を続ける。


『この曲は死のプレリュード。これを聞いたものは昏睡状態に陥り、睡眠薬を飲んだような状態になる。そして、じわじわと苦しみ、1か月後には死に至る』


『殺人罪だっ! やめろ! これ以上、罪を重ねるなっ!』


『黙れ! いい子ぶって理解者のような顔をしやがって! 貴様のような善人ぶったやつがいちばん癪に障るんだ』


 僕には、彼の心の中で叫ぶことしかできなかった。人形のように手足を動かすことを封じられ、ただ、見ていることしかできなかった。

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