第1章:密室の王、目覚める ~3~
朝は、いつも同じ時刻に始まる。午前六時三十分、スマート換気センサーが外気の質を自動測定し、警報が鳴らなければ室内の照明が徐々に明るくなる。空翔はそれで目を覚ます。
ベッドから起き上がると、まずは換気扇の状態を確認し、続けて壁面に設置された空気成分モニターを見る。酸素濃度、二酸化炭素、PM2.5、VOC(揮発性有機化合物)──これらの数値を無意識に目で追い、許容範囲内であることを確認すると、やっと一日が始まる。
朝食はパックご飯に冷凍味噌汁。加熱はすべて密閉型の電子レンジ。食器は使い捨て。洗い物による湿度変化すら許容できないからだ。
午前中はネットで海外の換気論文を読む。空翔は今も世界中の空調システムに精通しており、定期的に匿名で論文の査読も請け負っている。それが彼の収入源でもあった。論文のテーマは「狭小空間における最適換気制御のための非線形モデル」「陽圧密閉構造における生理反応」など。空翔にしか読めない内容ばかりだ。
昼食はチューブ状の完全栄養食品を吸い、午後は加湿器と空気清浄機のフィルターを交換し、機器に異常がないかをチェックする。風の流れに違和感があれば即座に天井裏に上がって配管を確認し、必要があれば自分で修理する。
そんな生活が、七年続いている。
誰も訪れず、誰も傷つかない。
その孤独が、風間空翔にとっては“静かな誇り”でもあった。
ただひたすら、空気を守る日々だった。
それは、誰にも求められない仕事だった。
誰も彼のことを、毎日思い出したりはしない。
あの災厄が終わってから、人々はすぐに次の話題に移った。
ネットで自分の名前を検索すると、最初の一ページは賞賛と記事が並ぶが、二ページ目には「作られた英雄」「政府のプロパガンダ」などの見出しが出てくる。
風間空翔は世界を救った。
だが、同時に「閉じ込められた存在」にもなった。
ヒーローは、誰かの歓声の中にいるものだ。
だが彼は、誰にも会えない部屋で、空気にだけ抱かれて生きていた。
孤独は、最初は耐えられた。
それが正義だと思えたから。
だが月日が経つにつれ、世界が自分を忘れていく感覚が、胸の奥にじわりと広がっていった。
誰かと話がしたいと思う日もあった。
だが、話す相手がいなかった。
換気の話に付き合ってくれる人間なんて、この世にいないと分かっていた。
それでも、空気は裏切らなかった。
風は彼を拒まなかった。
だから彼は、風と話すようになった。
問いかけ、返ってくる気流に耳を澄ませる。
沈黙のなかに微かな共鳴があるとき、彼は確かに“会話”をしていると思えた。
そして、そういう日こそ、彼は思うのだ。
(この世界に、自分の呼吸が残っている限り、俺はここにいてもいい)