第1章:密室の王、目覚める ~2~
──風間空翔、空気日誌 4128日目──
『本日の空気、AM7:23の酸素濃度20.91%、湿度47.6%、温度22.4℃。午前の陽射しは柔らかく、南南西からのわずかな風がフィルターを通して室内を撫でた。感覚的には“浅春の鼓動”。心地よい循環。
13:45、空気清浄機フィルター交換後、0.5秒の気流の滞り。復旧後、アロマを調合──ウッド2:シトラス1。香りは予想より鋭かったが、15分後に空気に馴染み、空間との親和性が増す。
風の音がまるで低音楽器のように響いた瞬間、ふと怜司の笑い声が思い出された。「風、歌ってるな」──そう言った日の空気を、また感じた。
今夜の名は、“静音の共鳴”とする。室内は現在も呼吸している。私も、それに倣って、生きている──』
空翔には、もうひとつの密かな日課があった。それは「空気日誌」の記録である。専用ソフトを使い、その日の空気の流れ、音、匂い、体感温度、気圧のわずかな変化などを五感で感じ取って書き留めていた。これらのデータは彼の“空間制御”に欠かせない財産であり、同時に彼が“外の世界”と繋がる唯一の文学的行為でもあった。
日誌には、こんな言葉が書かれていた。「湿度47%の午後三時、アロマが木の葉を思わせる流れに乗る。静かな風が壁をなでた。今日の空気は、静かに息づいている」。まるで詩人のような描写だが、空翔にとっては真剣な記録だった。
また、空翔には一つの癖があった。眠る前、空気の流れに耳を澄ませて「今日の空気に名前をつける」のだ。ある夜は「朝霧の羽音」。またある夜は「深海のささやき」。
空気の質感を、彼はまるで生き物のように捉えていた。だからこそ、《エアリアル・ドミネーション》は空翔にしか扱えない。
この能力は、単に風を操るものではない。空間に満ちるすべての空気要素──粒子、流速、成分──を認識し、思考によって統御する。特定の分子運動すらも“可視化”し、それを“設計”して再構築する。言い換えれば、彼は空間の呼吸そのものを“再編集”することができるのだ。
能力発動時、彼の脳内には三次元マップが立ち上がる。壁や床、家具の間を空気がどう流れているか、どこに淀みがあり、どの地点が不安定かを瞬時に解析する。その結果をフィードバックし、望ましい空間に調整する。まるで空間そのものが彼の“肉体の延長”であるかのようだった。
過去、ある医療施設が停電によって空調が止まり、重症患者が危機に瀕したとき、空翔はリモートでデータを受け取り、限られた内部空気の流れだけで必要な換気を行い、数十人の命を救ったことがある。
また、ある企業が製造するナノレベルの製品に不良が続いたとき、空翔が指摘したのは「製造室左奥の微弱な対流」だった。人には感じられない空気の揺れが、製品の粒子配列に干渉していたのだ。
彼の能力は戦闘にも医療にも、産業にも応用が利く。だが、そのすべてには「換気された密閉空間」という前提が必要だった。
空翔は知っている。
彼の能力は万能ではない。
けれど、この部屋の中でなら。
彼は、間違いなく、世界最強なのだ。