第1章:密室の王、目覚める ~10~
そして、幼いころ──まだ災厄も能力もなかった時代。
夏の昼下がり、窓辺で寝そべりながら、母と一緒に「風の音を聞く」遊びをした。
「いまの風、なんの音に聞こえる?」
「えっとね、ほら、お母さん、なんか……笛みたい」
そんな無邪気なやりとりを、彼は今でも鮮明に覚えている。
母の手のひらは、いつも温かく、やさしく空気を撫でていた。
空翔の空気への愛情は、たぶん、その頃に芽生えていたのだ。
それゆえに、彼は空間を守る。
戦闘の余韻が部屋の隅に残るなか、一人の兵士──あの若い男が、よろけながらも手を挙げた。
「……俺、あなたに救われた家の子なんです」
空翔はその声に目を細めた。
「七年前、横浜の病院。災厄が迫っていて……でも、空気が動いた。誰もが“神風だ”って言ってた。でも、俺は違うと思った。空を、誰かが……あなたが、動かしていたんだって」
その言葉に、空翔は何も返さなかった。ただ、室内に漂う微細な埃を吸い込むように、ゆっくりと息を吐いた。
敵として来た人間が、自分の“守った空気”に今もすがっている。
──突入前、彼らは何度も作戦会議を重ねていた。
「対象は戦闘拒否の意思を示しているが、能力は致命的だ。極力、物理的制圧を避け、交渉に重点を置け」
「目を合わせるな。視線誘導と空気の変化で、意識を操作される可能性がある」
「部屋の圧力を維持しろ。奴は換気環境そのものを武器にしてくる」
彼らは、空翔の“呼吸”すら解析され尽くしたかのような情報に怯えていた。
最年少の突入員である三条和馬は、その資料を読むたびに、胸の奥に微かな違和感を抱いていた。
(こんな人が、本当に脅威なのか? 俺たち、英雄を倒しに行くのか?)
そして今、彼の目の前には、誰よりも静かで、誰よりも強い男が立っていた。
空間の中でただ呼吸し、流れる空気と共に生きている、その姿。
和馬は、拳銃のグリップを握ったまま、引き金に指をかけることができなかった。
それは、少しだけ嬉しくもあった。
兵士たちは次第に撤退を始めた。命令により制圧は中止されたのだ。
誰もが空翔を直視できなかった。だが、部屋の外へ出る間際、若い兵士だけが深く頭を下げた。
その頭を見下ろしながら、空翔は思った。
(俺を必要とする世界は、きっとまた俺を傷つけにくる。でも、それでも──)
彼は右手をそっと上げ、換気扇の風量を静かに戻した。部屋の空気は、再び平穏を取り戻し、まるで何事もなかったかのように静かに循環を始めた。
(俺は、この空間を守る。それが、俺の生きる意味だ)
母の最後の息が残るこの空間を──誰にも侵させない。




