計り知れない心
雅和が東京に帰ると佐知の戸惑う感情と熱い体は元に戻っていた。あれから柳木沢は病院には顔を見せなくなっていた。聞くところによれば仕事と身の回りの身辺整理とかで多忙なのだという。
「あれから体は大丈夫なのかしら」
なぜだか好かない柳木沢のことが気になっていた。
「今日は土曜日だわ、午後の予定もないし会いに行ってみようかな」
佐知の好物のシフォンケーキを今日は柳木沢のために買った。少し高台に建つレンガ造りのホテルに柳木沢は宿泊していた。ホテルの装飾はレトロな懐かしさを醸していた。受付に立つ人は手一杯でロビーで待つことにした。
肩越しに人の気配を感じ振り返ると白髪交じりの男性が笑顔を見せ頭を下げた。
「いつもは私の後姿ばかりでわからないでしょうね」
わずかな記憶の中に帽子を被った姿が現れた。
「あ、柳木沢さんの運転手さんですね」
運転手の畏まった顔が少し緩んだ。
「柳木沢様は今日は御戻りになりませんよ」
柳木沢さんは何処に・・その言葉を吐き出せず飲み込んでいた。
「あのぉ 宜しかったらこれをどうぞ」
土産のケーキを差し出していた。
「受け取れません 柳木沢様へのお品なのでしょう」
「いいんです 受け取ってください 車に乗せていただいたお礼です ですから遠慮なさらず受け取って下さい」
「ではお言葉に甘え頂戴いたします」
その場を離れた運転手だったがどうしたことか神妙な顔で戻ってきた。
「あのお聞きしたいことがあるのですがいま宜しいでしょうか」
緊張のせいか手にしたケーキの箱が揺れていた。
「大変失礼かと思いますが最近柳木沢様との間に何かあったのでしたらお聞かせいただけませんか」
佐知は質問の真意がわからず言葉に詰まった。
「柳木沢さんになにか・・」
運転手は柳木沢の近況を語りはじめた。
「柳木沢様はお変わりになりました。人一倍気むずかしく気性の激しいお方ですが私に声を荒げることもなくなりました。それどころか申し訳ないなんて頭を下げられるのです。長年仕えていますが初めてのことで驚きました。どうかなさいましたかとお尋ねしたのですが返事はありませんでした。あれからあなたのお話ばかりをされましてね。いえたいそうな話じゃありませんから心配なさらないでください」
「いつ柳木沢さんは戻りますか」
「すみません」
口止めされているのか運転手は足早に来た道を戻っていった。
余程の事があったとしても人はそう簡単には変われないはず。柳木沢ほどの男ならば直のこと。その柳木沢が変わったと云うのなら何かあったに違いなかった。
会いたい気持ちはなお一層つのり佐知は仕事が終わるとホテルに日参するようになっていた。
あれから一週間 今日も柳木沢さんは帰ってこないのかな・・
ホテルロビーにあるソファーは佐知の疲れた体を癒してくれた。心地よい睡魔が襲いうとうとまどろんでいた。どのくらいこうしていたのだろう。首筋に硬い感触がして誰かの腕枕があった。見上げると待ち人、柳木沢の姿がそこにあった。
「やっと目が覚めたか どうしたんだこんなところでお休みとは」
「柳木沢さんどこに、今までどこに行っていたのですか」
柳木沢は佐知の腕を掴みソファーから立ち上がった。
「思うように行かない、それが世の常だ こんなところじゃ話も出来ない さあ部屋にいこう」
「いいえ今日は帰ります お顔を見て安心しましたから」
「外はもう暗い、車を用意させるから乗って帰りなさい 運転手の坂口がまだ近くいるはずだから」
「ありがとうございます 柳木沢さん土曜日また伺ってもいいですか」
「嗚呼スケジュールに書き留めておくよ、忘れぬ様しっかりと」
ホテルをでると運転手の姿が見えた。助手席のドアを開いて待っていた。運転手はシートベルトを締めながらおもむろに後部座席に顔を向けてきた。
「いつやらはケーキを有難うございました。妻と美味しく頂きました」
「お礼を言わなくていけないのは私の方です いつもお仕事を増やしてしまってごめんなさい、今日もすみません」
「とんでもない、私はうれしいですよ あなたはどことなく柳木沢様が大切にお持ちになっている写真の方に似ていらっしゃる そういえば奥さまにも貴女は似ておりますね、柳木沢様が貴女にご執心なさるのも分からないでも・・あっ失礼しました ある時、大層お飲みになっていた柳木沢様が運転中の私に写真を差し出されましてね 『僕にとって生涯忘れられない人だ お前にだけ見せてやる』と。だいぶ酔っていらしたから柳木沢様は覚えていないでしょうけれど、貴女に似て清楚な美しい女性でした」
「わたしに・・似ている」
シートに微かな匂いが残っていた。それはあの苦手な柳木沢の香りだった。
これは柳木沢さんの香水、柳木沢さんの大人の匂い
嫌いな匂いのはずなのに今夜は何故かその匂いにずっと包まれていたいと佐知は思った。
その後も佐知と柳木沢の交流は続いていた。柳木沢はスケジュールをやり繰りして会ってくれた。しかし佐知には未だ柳木沢という男の本質が見えてこなかった。ただあの日以来、佐知に女を求めることはなくなっていた。柳木沢は遣る瀬無い心情をしばし口にしたがいつも佐知に一蹴されていた。柳木沢にはそれも癒しで活力の源になっていた。
「君とここで会うのは今日が最後だ 僕はこのホテルを出る」
「住まいを見つけたのですか」
「いいや戻ろうかと」
「戻るって御家族のもとに」
「ああそうだ」
「本当ですか 良かったですね よかったじゃないですか~」
「こんなに喜んでもらえるとは 君のこんなハシャギようは初めてだな」
言い終えて柳木沢は背を向けた。
「これから柳木沢さんは一人じゃないんですよね 家族と一緒ならいつも溢している柳木沢さんの辛さも軽くなると思うと嬉しいです」
振り向きざま柳木沢が苦言した。
「人は誰かといれば寂しくはないだろう しかし誰かといても一人なら・・寂しいのならば・・意味がない」
雅和と出会った夏の日が甦った。大人数の中あの時佐知は一人ぼっちだった。
「君は家族といて楽しいか」
「楽しいとか特別考えたことありません だって家族と一緒にいるのは当たり前だし、わたし父と母がいる家が大好きなんです」
「君はそれだけでもう十分幸せものだ そんな家庭が・・家族がいる君がうらやましい限りだ 僕も子供にそんな風に言われてみたいが・・一生ないだろうな」
「柳木沢さん大丈夫ですか 家族との生活が始まるというのにちっとも嬉しそうじゃない・・」
「やはり君にもそう見えるか 心は正直だから誤魔化せんな」
「・・・・」
人の心を計り知るのは難しく哲学のようだった。
好かない男・柳木沢の事が気になって仕方ないのはなぜ
どこか寂しげな中年男・柳木沢を放って置けないのはなぜ
心ざわめく感情に佐知は柳木沢との出会いが想像を超える巨大な力に導かれいるような気がしてならなかった。