伝言
待てども連絡が無かった美香の父をお世話している須藤と名乗る男性から雅和のもとに電話が入った。
退院したので会えると聞きつけた雅和と佐知は美香の父が入居している東京のケアマンションを訪れていた。住所を手がかりに辿り着いた場所には老人施設とは思えないホテルのような建造物が建っていた。空間の間を取りもつアプローチは緑に彩られ丹念に手をかけた花々が咲き誇っていた。玄関に入ると制服姿の男女が深く頭を下げて出迎えてくれた。豪華ホテルに酷似した内装のマンションを前に二人して目を丸くしていた。受付横の扉が開いてスーツ姿の男性が近づいてきた。
「わたくしは須藤と申します 井川様でいらっしゃいますか」
「初めまして井川です この度はご尽力いただき有難うございました」
「早速ですがお部屋に案内いたします さぁどうぞ」
案内されたドアには青銅に彫られた佐々木悟朗の表札があった。
「佐々木様、須藤です お客様をお連れ致しました」
インタホーン越しに声が聞こえた。
「鍵は開けてあるからお通しして下さい」
開け放たれたリビングにリクライニングソファに座るバーバリーチェックのガウンを着た男性が見えた。その人こそ美香が夢にまで見た父親だった。
「佐々木様、私はこれで。何か御用がありましたらお呼びください」
「須藤君ひとつ頼まれてくれないか 客人にコーヒーを差し上げて欲しいのだが」
「承知いたしました。係りのものに急いで届けさせましょう では私はこれで」
「あっ申し訳ない、二人とも遠慮しないでこちらにお掛けなさい」
佐知の目に映る美香の父の痩せ細った体は痛々しかった。
「初めてお会いする人にこんな姿で申し訳ない 病み上がりなもので勘弁してもらいたい」
「こちらこそ無理なお願いを受けていただき恐縮しています」
「話は須藤君から聞いている 君は娘と懇意にしているそうだね」
「結婚の約束をしています」
「結婚、そうか美香はもうそんな年になったのか」
「お父さんを必死で探しました 彼女の願いを叶えるためにはお父さんのお力が必要なんです」
「私が美香と別れたのは彼女が2歳の誕生日を迎える前だった それきり消息がつかめず会えなくなったそんな私に今更何ができるのかね」
「実は彼女はいま妊娠しています」
「それはめでたい話だ あの幼なかった娘が母親になるとは感慨深いな」
「子供が生まれたら是非ともお父さんにも抱いてほしいのです 美香さんはそれを切に願っています」
「美香がそんなことを言ってくれているのか、とても嬉しいよ だが美香の母の許しがなければ・・なんとも返事のしようがない」
「美香さんの母親はもう亡くなっています 美香さんの拠り所は俺と隣に座っている彼女だけなんです」
昔愛した女性美香の母(早苗)との密愛が脳裏をよぎり佐々木は目を閉じまま宙を仰いだ
「大丈夫ですか」
「あっ申し訳ないつい昔を・・・もう遠い昔のことだが愛した女性に愛想をつかされたあげく娘と引き離された私は抜け殻同然だった 生きることに意味をみいだせずこの長い年月を無意味にやり過ごしてしまったようだ 愛のない結婚に終止符も打てず愛する女性と交わした約束も果たせず、妻さえ幸せにしてやれなかった愚かな男それが私なのです」
部屋に女性の声が流れ聞こえた。
「佐々木様、珈琲をお持ちしました」
リビングの何処から声が聞こえるのかわからず佐知は辺りを見渡していた。
「いま鍵を開けましたから中へどうぞ」
佐々木は手に持った器械を操作して会話をしていた。女性が珈琲を置き会釈して帰ろうとしたときだった。
「まゆみ君、悪いが私のベッドルームの写真をここに」
「はい、今お持ちいたします」
置かれた写真立ては稀少価値のアンティークでイギリス製のものだった。大事そうにそれを手にした佐々木は目を細めた。
「この写真たては早苗に、早苗というのは美香の母親です 彼女に買って渡せなかった土産なんです 彼女は両親に先立たれ大層ショックを受けていました そんな彼女のために指輪と一緒に買い求めたのですが・・皮肉なもので渡そうとしたその日私は彼女に別れを告げられました 私はこの写真たてに命よりも大切にしてきた写真を飾っているのです」




