昔の恋人は4
結婚式から戻った雅和は後ろめたい気持ちを拭いきれずにいた。何もなかったとはいえ佐知と一夜を共にした事実が重く圧し掛かっていた。雅和はホテルで親父と会っていた佐知に怒りを爆発させた記憶が甦った。抑えられぬ怒りと感情に心痛めた過去を思い出していた。
あんな思いを美香さんにはさせられない・・あの夜の一部始終を包み隠さず話せば大人の美香さんならきっとわかってくれる しかし上手くいっている関係に自ら波紋を投げることだけは避けたい・・・
どのような選択が正しいか否かはさて置き雅和は美香との信頼関係を守りたかった。雅和は美香の心に影を落しかねないあの一夜を封印しようとしていた。帰りを待つ美香の苦しいつわりは治まり少しずつ体調も戻っていた。美香は決心していた。
今夜こそ話そう 子供ができたことを
マンションに向う雅和の足取りは重たかった。秘密を隠しもつ雅和はドアの前で深呼吸を繰り返していた。
「美香さん、ただいま」
「おかえりなさい」
「はいおみやげ 引き出物に入っていたんだ」
「まぁ綺麗なペアグラスね 今夜はこのグラスで乾杯しましょう ねぇ結婚式どうだった」
「懐かしい顔ぶれがそろって最高に盛り上がったよ 酔い潰れて電車に乗り損ねてしまったのは不覚だったけど」
「親友のお祝いだったんだもの仕方ないわ 少しくらい破目を外してもいいんじゃない」
「でも飲んで帰れなくなるなんてはじめてだよ」
「お酒強くないのに無理して飲んだのね」
「そのとおりです 面目ない」
「それで肝心の佐知さんとは会えた」
「あぁ会って話をしてきた 美香さんに背中押してくれたからすべてが分ったよ」
「佐知さんとは兄妹ではなかった 佐知さんはお父さんの子供じゃなかったそうじゃない」
「なんだか美香さんは超能力者みたいだな」
「雅和は嘘がつけない人よ わかるわ 佐知さんと兄妹だったら眉間にしわを寄せて慌てて帰ってきてるでしょう」
「確かに俺は馬鹿がつくほどの正直者だからね 美香さんには何もかもすべて筒抜けか怖いな」
佐知との一夜だけは知られてはいけないと雅和は平常心を保とうと目を閉じ深く息を吐いていた。
「雅和、雅和聞こえてる」
「あっごめん、まだ酔いが残っているのかな」
「そうね、 疲れているのに色々質問してごめんなさいね 話はこのくらいにして食事にしましょうか」
「気を使わせてごめん」
「早くこっちに来て、頂いたペアグラスでさっそくワインを頂きましょう」
「いい匂い、もしかして今夜はすき焼き」
「当ったり~ 今夜は雅和の大好物ばかりよ もう用意してあるのちょっと待ってて」
「あっ俺がやるから美香さんは座ってて」
雅和の手ですき焼きと赤ワインがテーブルに用意された。口に含んだワインが今日はなぜか無味無臭に思えた。雅和は勘のいい美香に気持ちを見透かされそうでハラハラしていた。愛する人に隠し事をするゆえの精神的ダメージに堪えられなくなっていた。
やはり言うべきだ 何も疚しいことがないのだから やはり時機を見て話そう嘘は突き通せない 佐知との一夜を話せば美香さんを傷つけてしまう 隠し通せたとしてもいずれ分かればもっと大きな傷を残すことになるだろう
雅和は今宵美香の柔肌に包まれて佐知との一夜を葬り去りたかった。男と女には決して交わることの出来ない心のヒダがある。そのヒダをどのように折りたたんでゆくかによって関係も変わる。愛し合う男と女の行き先を左右するヒダが雅和の前に立ち塞がっていた。
雅和は美香に佐知との再会の一部始終を話しはじめた。しかし佐知との一夜の件だけは話せなかった。
「佐知と会って俺たちは他人だとわかったんだ そして和由という子供の存在を知った 親父の子供は確かに存在していたけどもうこの世にいないんだ その子供は生まれてすぐに亡くなっていた」
「その子供は佐知さんとは父親違いの兄で雅和にとっても母親違いの兄。どちらにも和由という兄がいたというわけね それでそのとき佐知さんはどんな様子だった」
「佐知は実母の手紙で子供の存在を知ったらしい でもその子供の父親が誰かまでは知らなかったようだ でもあいつ笑顔で言ったんだ 実母が愛した人が俺の親父で良かったって」
「そう、よかったって言ったのね佐知さん」
「佐知は親父のことが大好きだったんだな よほど気が合ったんだろう俺が嫉妬するほど二人は仲が良かったからね」
「雅和のお父さんは佐知さんがかつて愛した由里子さんの子供とも知らず会っていた 恋人の面影を残す佐知さんに懐かしい感情が呼び起こされたとしたらお父さんには佐知さんが由里子さんの生まれ変わりに思えたのかもしれないわね」
「佐知と出会ってから不思議なことがいっぱい起きた・・これも美香さんが言うなにかの縁なのかもしれないね」
「大事なのはその縁をこれからどうするかなのよ」
「佐知とはまた会おうって約束してきたよ」
「喜んでたでしょ佐知さん」
「あぁ昔には戻れないけどありがとうって言ってくれた」
「丸く納まってよかったわね」
笑顔をつくる美香の心に雨雲が立ち込めていた。
雅和と佐知さん二人は血の繋がりのない赤の他人だった 愛の復活再縁の可能性がゼロではなくなった今二人の接近は危険だわ・・・
一抹の不安が美香に襲いかかってきた再会を頑強に薦めた張本人の美香がこの場に及んでうろたえていた。縁を切らないでと言った美香の心は揺らぎ始め雅和の口から佐知の名前が出るたび耳を塞いでしまいたい衝動に駆られていた 佐知の話になると過敏なまでに美香の神経が研ぎ澄まされていった 美香は二人が過ごした郷里を訪ねてみたくなった。
「私ね来月出張で愛知県に行く事になったの 雅和が昔住んでいたところって愛知のどこ」
「名古屋からならすぐだけど」
「佐知さんの勤務する病院も名古屋近辺なの いまも仕事してるのかしら」
「まだ受付の仕事をしてるはずだけど」
「病院の名前まだ覚えてる」
「そんなこと聞いてどうするつもり」
「わたし東京出張のとき入院したでしょう あの時は本当に心細くて泣きたくなったわ またあんなことがあったらって不安になったの だから雅和の知人がいる病院を聞いておけば安心だなって」
「そうか、確か西條クリニックだったと思うけど」
「久々の出張だから万全を期して行きたいの 良かったこれで安心して行けるわ 東京で入院したとき主治医に同じ症状がまた起きたならその時は地元の大学病院でしっかり検査を受けるようにって言われたのそのことを思い出したから余計不安になったのね」
「そんな大事なことなぜ今まで言わなかったんだ 美香さん今どこもなんともないのか」
「今は全然平気なの、だから大丈夫」
「くれぐれも無理はしないでくださいよ 体は一つしかないんだからね 大切な美香さんのスペアなんてないんだからさ」
最近のすぐれない体調を思い返していた。妊娠が判明してからつわりを始めとした体の異変に気づいていた。立ちくらみ、頭痛、吐き気頻繁に起きるめまいのすべては妊娠に伴う症状だろうと気に留めることもなかった。しかし長引く体調の異変に美香は不安を募らせていた。順風だった雅和と美香の人生がここに来て大きく揺さぶられようとしていた。
妊娠という喜ばしい神からの恵みに水さす得体のしれない怪物が振り降り落ちて美香に襲いかかろうとしていた。




