私は父なし子2
母早苗のアパートは卓袱台と木箱の上の古びたテレビだけの質素な住まいだった。唯一の彩りは小花模様のクリーム色のカーテンだけ。慎ましすぎる暮らしぶりだったが父悟朗が夢見た家庭の温かさが此処にはあった。
「お待ちどうさま お惣菜と私が作った味噌汁と漬物これで全部よ ご飯は沢山あるから遠慮しないでね さぁ食べましょう」
肉じゃが・さばの竜田揚げ・蓮のきんぴら・豆腐と油揚げの味噌汁。キャベツとキュウリの漬物、湯気のたった温かい食事に悟朗は顔を崩した。
「おいしいなぁこの味噌汁 本当に美味しいよ こんなに美味しい味噌汁は久しぶりだ」
「感激してくれるのは嬉しいけど味噌汁お家で飲まないの」
「外で味噌汁を飲むことはあっても家で飲むことはないな」
「あなたの奥さんあまり料理をしない人なの お金持ちはお付き合いも多くて忙しいって聞くけどあなたの奥さんもそうなの」
「僕は仕事でいつも帰りが遅いんだよ 夕食は大概外で済ましてしまうからね」
「それでも朝食は自宅で食べるんでしょ なのに味噌汁飲まないなんて変ね」
「朝は珈琲だけ 基本僕は朝は食べない主義なんだ」
「貴方の奥さん楽でいいわね うらやましいなぁ 私は未だ独身で朝から晩まで掛け持ちで働いている 神様は平等っていうけど疑ってしまいたくなるわ」
「そんなに働くには何か理由があるんだろうな」
「実家に仕送りしてるんです わたし両親と兄には良くしてもらったから 家庭の事情で兄は大学を中退して働きました 俺は出来が良くない でもお前は俺と違う 努力家で一生懸命だ そういう者が大学に残って学ぶべきなんだって大学だけは何があっても卒業しろと言ってくれました でもその兄は天国に召されてもういません」
「それは気の毒に、妹思いのいい兄さんだったんだね」
楽しい出会いの夕べはあっという間だった。この日を境に母は平穏な日々に終わりを告げた。
道ならぬ恋に落ちたは母早苗と父悟朗は二人だけの秘密の園を手に入れていた。会社と自宅の中間に見つけた密会の場だった。悟朗の妻には仕事に集中するためのマンションを借りたとだけ伝えていた。自分のことで忙しい悟朗の妻は案の定、何の反応も見せなかった。逢う回数が増した二人の仲はいっそう深まっていった。
「スーパーのバイトは辞めた方がいいんじゃないかな」
「そうね、バイトを終えてここに来るのはちょっと大変だからどうしようかと思っていたの」
「今日からこの僕が君の雇い主になろう 銀行が終わってからの時間と休日は僕のために使ってくれないか」
「出来ればそうしたいけど・・いいの本当なら嬉しいわ」
「なら成立だな」
悟朗はバイトに値する額の援助を約束した。妻帯者を愛するが為の世間一般に言う愛人となった母早苗。
この人がいてくれるなら独身で人生を終えてもいい 人に何を言われようと蔑まれようと私は愛を手放したくない この愛を貫き生きてゆきたい
愛されても愛を感じたことなど一度もなかった母早苗にとって命を捧げるほどの父悟朗との愛は至高の愛になっていた。
そんな時ふたりの愛に影をさす一本の電話が入った。郷里の友人からのそれは残酷な悲しい知らせだった。
「早苗ちゃん急いで帰ってきて 聞こえてるよね早苗ちゃん、早く帰ってきて」
「珠実泣いてる?どうしたの何があったの」
「驚かないでね、早苗ちゃんの、おじさんとおばさんが」
「お父さんとお母さんがどうしたの 珠実泣いているのね」
「・・・」
「珠実泣かないで話して、なにがあったの」
「早苗ちゃんのおじさんとおばさんが亡くなった」
「・・・」
「大丈夫早苗ちゃん、聞こえてる」
「うん聞いてる でもどうして、あんなに元気だったのにどうして」
「・・・」
「珠実、お父さんとお母さんはどうして死んだの?事故だったの」
「信じられないでしょうけど・・おじさんがおばさんを道ずれに」
「お父さんが」
「専称寺の勝随和尚が亡くなる前日の夜に早苗ちゃんのお父さんを墓地で見かけたらしいの その時おじさんの様子がおかしかったからそれで翌朝家を訪ねて行って」
「・・・・」
「専称寺におじさんとおばさん安置されてるの 勝随和尚がずっと付き添ってくれているわ 早苗ちゃん早く帰ってきて 駅に着いたら電話して車で迎えに行くから」
体を震わせながら母早苗は父悟朗に電話をかけた。
「朝はやくにごめんなさい いま話せますか大丈夫ですか」
「何かあったんだね」
「両親が亡くなりました 心中でした」
「・・・・」
「今から両親の元に帰ります」
「出来ることがあれば力になるから気持ちをしっかり持って行ってきなさい」
「はい」
「君には僕がいること事を忘れないで」
悲しみ行きの電車に乗る早苗の凍てく心は悟朗の言葉で溶かされていた。天涯孤独になった早苗に残ったものは道ならぬ愛だけだった。
郷里に帰った早苗は勝随和尚と二人で両親を荼毘に付した。印刷会社の廃業以来、早苗の父亨(美香の祖父)と親類縁者との付き合いは途絶えていた。資金繰りの相談で訪ねた先々で受けた親族の仕打ちに亨は怒りを顕にした。
「親類縁者とは今後いっさいの繋がりを絶つ 俺の葬式には誰も呼ぶんじゃないぞ 来ても追い返すんだ」
亨は自未得度先度他という言葉そのままの人だった。銀行の貸し渋りに頭を抱えた親戚が泣きついてくると黙ってお金を差し出しような人だった。そんな亨(早苗の父)に妻(早苗母)は呆れ返っていた。
「あなたは人が良すぎですよ 人のお世話もほどほどにして下さい」
「俺は自分の出来ることを精一杯やっているただそれだけだ それが人のためになっているのなら喜ばしい限りじゃないか」
亨は状況を俊敏に判断し頼まれたことは親身になり成し遂げる頼れる人だった。亨は親族もまた同じように助けてくれると疑わなかった。しかし事が自分の身に降りかかったとき手を差しのべてやった親族らに手の平を返すような門前払いを受けた。
「私達の借金を誰かに助けてもらおうなんて間違ってますよ 二人で頑張って少しずつでも返していきましょうよ」
「この家・・この家だけは何としてでも残したかったな」
「あなたは頑張ってくれたじゃないですか もう家はあきらめましょう」
「借金を生きているうちに完済させるのは到底無理だ 何もかも無くしたあげく早苗に借金が及ぶことを考えると」
「私達の保険があるじゃないですか 早苗受け取りの私達の死亡保険で何とかなりますよ そんなことでめげるような子じゃありませんよあの子は」
「借金の目途はたっても俺達が死んだら一人ぽっちだ。あいつ一人取り残されるんだぞ」
「だからどんなにつらくてもあなたも私も死ねない、生きなければいけないの 早苗が結婚して孫の顔を見るまでは元気でいてあげなければ 天国の誠一(早苗の兄)も守ってくれていますよ 頑張りましょう、あなた」
「誠一か せめて誠一が生きていてくれたらな」
「過ぎたことを言うのは止めて下さい 誠一はもう戻ってこないんですから」
「母親の情は父親より濃いというが・・お前は強いな」
「あの時、私は一生分の涙を流しました 今どんなに誠一を偲んでも涙の一滴も零れてこない 私の涙はあの時に使い果たしてしまったの 腹を痛めた子供を亡くした女の気持ちなどあなたにはわからないわ」
「・・・・」
「いつまでも涙することが誠一の供養になりますか そんな私達の姿を早苗だって喜びはしませんよ いちから出直しましょう」
「この歳でお前と二人再出発か」
「年齢なんて関係ないですよ いくつになっても出発は出来きますよ」
「・・・・」
家業を継ぐと言ってくれた息子の誠一(早苗の兄)を病で亡くし代々続いた印刷会社をつぶし頼みの綱の親族にも背をむけられた亨(早苗の父)が哀れだった。家を手放したころから亨に異変が起きた。浴びる様に酒を呑むようになり仕事も休みがちになっていた。負担は早苗の母の肩に重く圧し掛かった。喧嘩ひとつなかった夫婦間に極寒の嵐が吹き荒れた。
「いい加減、過去に執着するのはやめてください 嫌でも私達はまだまだ生きて行かなければならないんです 借金を返し終えなければ死ねないんです 辛いのはあなただけじゃない私だって同じなんですよ お酒に逃げるのはもう止めてください」
「うるさい、女のお前に俺の気持ちがわかってたまるか 俺の気持ちなんか誰にもわかりゃしない」
母のパートと早苗の仕送りだけでは追いつかない借金生活。返済は滞り催促状が散らばった部屋で亨は酔いつぶれていた。家庭内別居同然の夫婦に会話は無く亨の拠り所はなくなっていった。そんな早苗の父亨が選んだ人生の幕引きが無理心中だった。お金は多い少ないに係わらず人を狂わせ人格さえも変えてしまう恐いものだった。亨、美香の祖父は借金に翻弄され豹変し、自分の妻(美香の祖母)を手にかけ自らの命までも絶った。それはあまりにも悲しい結末だった。




