命いのち
雅和と出会った夏祭りがまた巡ってきた。父の話題は祭り一色になり佐知の茶の間への足は次第に遠のいていた。
父子の柳木沢と雅和、二人の男の間で自分の存在が炙り出された事など佐知は知らなかった。
就職の内定をもらった雅和は父柳木沢がもともと持っていた静岡の土地に建てた住まいも兼ねた事務所に母と出向いた。確執がある柳木沢と雅和だが傍目には仲のよい父と子に見えた。その日は朝からやけに蒸せかえる異常な暑さだった。雅和は事務所二階のソファーにもたれ渇たるそうにしていた。ドスンと下から鈍い音が聞こえた。階下に降りた雅和は倒れている父を見つけ声を上げた。
「親父どうしたんだ 俺の声が聞こえるか おやじ返事してくれよ 誰か、誰か来てくれ 母さん、母さん早く救急車呼んでくれ」
口から血を流した柳木沢は蝋人形のように横たわっていた。反応しない蒼白な父の傍らで手を握り救急車を待った。雅和は病院の長椅子に座り緊急手術になった父を待ち続けていた。看護婦に促され手術室の前の椅子に移動するとまもなくして手術室のランプが消えた。出てきた柳木沢の体には幾重に管が繋がれて予断ならぬ病状を察することが出来た。執刀医が厳しい顔で言った。
「後ほど私の処に来てください」
母子は前を見据えどんな結果も受け入れようとしていた。うす鼠色に変色したシューズを履いた貫禄ある看護婦がやってきた。
「ご主人にはまだお会い出来ませんがこのまま待ちますか」
「はい、そうさせてください」
「戻られても会話は出来ませんよ」
「それでも一目顔をみて帰りたいので」
「わかりました ではここでお待ちになって下さい」
時計の長針が2度回転しても柳木沢は戻らなかった。雅和は医師との会話を思い出していた。
「出血は止めましたのでご安心ください。ただ肝臓に見つかった腫瘍は施しようが ご主人はどこか病院に通われていたのではないですか」
「確か安定剤はもらって飲んでいると聞いていましたが肝臓の事はなにも」
「通院しておられた病院で告知され分かっておられたのかもしれませんね」
「父は知っていた?」
「と思います ご主人は手術前に覚悟は出来ているから万が一命が危うくなっても延命は望まないとおっしゃいましたから」
「親父はすでに命の宣告をされ覚悟していた・・」
親父は余命を告げられていた だから親父は母との復縁を懇願し頭を下げたに違いない
こんなに大きな荷を背負い誰にも言えず苦しんでいたのか
家庭に戻り人が変わったように毎日穏やかな笑顔で過ごしていた親父はひとり恐怖に耐えていたのかも知れない
病室ベッド横の丸椅子に座り父、柳木沢を待つ雅和の心は此処にあらずだった。手を合わせ天を仰ぎ見る母、美沙子の頬に涙の糸がくっきり浮かんでいた。側に歩み寄った雅和は母のその手を包むように強く握り締めた。
夕刻、柳木沢と対面した雅和と母は安堵し病院を後にした。事務所に戻った母は血で染まった床を拭いていた。小刻みに揺れている後ろ姿から涙している様子が伝わってきた。雅和は母の腕を掴み抱きかかえた。
「母さん、もうきれいになってるよ」
「まー君、お母さんここにあった血をふき取ったらあの人・・お父様の生きていた証、命までも消してしまったような気がして・・命に限りがあるなんて嘘よね 何かの間違いよね家族を残しまた何処かへ行ってしまうなんて絶えられないわ あの人が居なくなったら私はどうしたらいいの」
「心配しなくていいよ母さん 親父は生きる、生き続けるよ、ずっとこれからも だから大丈夫だ」
「ううぅぅっ」
堪えていた涙は泉のように溢れだし父の名を呼び母は泣き続けた。母さんは一途に親父だけを愛してきたのだと雅和もまた流れ落ちる涙を止められなかった。
父が入院してから雅和は階下の事務所に毎日顔を出していた。古くからのスタッフに気遣いを見せ労っていた。母に看護の疲れが見て取れると雅和は自分から付き添いを申し出た。
「母さん、行ってくるね」
「まー君、お父様をお願いね」
病室の父は顔を歪めつらそうにしていた。
「親父、体つらいのか」
「大丈夫だ」
「ならいいけど、何かあったら言ってくれよ」
「なあ雅和、皆井くんの事だが やはり僕は言わずにいられないんだ 彼女との事をもう一度考えてくれないか もう一度でいい彼女に向き合ってやれないだろうか 僕が母さんとうまくいかなかったのは相手に向き合い理解しようとしなかったからだ でも僕と母さんのように君と彼女もやり直せる 必ず愛を取り戻せる筈だ 雅和、君の心に愛の欠片が少しでも残っているなら別れるべきじゃない」
「俺と佐知は別れたんだ もう終わったんだ 親父は人の心配してる時じゃないだろ 早く元気になって母さんを安心させてくれよ」
「あぁそうだな でも僕はいや父さんの命はそう長くない 母さんの事は君がいるから安心だ 頼んだぞ雅和、君が僕の子でよかった 父さんと母さんの子に生まれてきてくれてありかとう雅和」
「何を弱気なこと言ってんだ そんなことじゃ病気に勝てないんだぞ 父さんの代わりなんていないんだ 俺じゃなく親父でなけりゃだめなんだ 母さんの気持ちは親父が一番分かってるだろう」
「嗚呼よく分かっているよ でも病気に勝てなかった 悔しいよ父さんは負けたんだ」
柳木沢は堰を切ったように男泣きしその嗚咽は止まらなかった。雅和は初めて見る父の涙に驚愕し震えた。大粒の涙を拭い雅和は歯噛みをして病室を飛び出していた。
「親子なのに俺は何ひとつ・・ましな言葉のひとつもかけてやれなかった・・」
自分が情けなくて悔しかった。屋上のコンクリート床に座りうな垂れ救いを求めるように佐知の名を叫んでいた。
祭りの賑わいも消え町には静寂が返ってきた。秋分を過ぎると寝苦しさからも開放さ心地よい眠りを体感していた。
職場の仲間に誘われ久しぶりのカラオケで盛り上がっていた。帰宅すると綺麗に畳まれた洗濯物の上に手紙が置いてあった。名前だけ印字された白い封書は誰かの手で自宅のポストに投函されたのだろう。おそるおそるペーパーナイフで封をきった。手紙を開くと柳木沢が差出人であることがすぐにわかった。右上がりの文字、この特徴は間違いなく柳木沢の筆跡だった。
/皆井くんこれが感謝をこめ君に送る僕からの最初で最後の手紙になるだろう。会わずして旅立つ僕を許してほしい。
神の化身のような君が現れて僕は人生を取り戻せた。一度死んで生まれ変わったそんな心境だった。妻との再出発の日々は長く連れ添った夫婦に匹敵するほど、愛に満ち幸せなものだった。君のお陰でもう何も思い残すことなく人生の幕を降ろせそうだ。ただ君と雅和が恋仲だった事、そして別れた事を聞かされた時は驚いた。しかしそれも人生、自分の結末さえ予測出来ないのが人生だ。お互いを必要とするならば又きっと会える僕と妻のように。君には誰よりも幸せになってほしい、いやならなくてはいけないよ。君の人生はまだまだ長く果てしなく続く。だが人生は否応無しに過ぎ去りていくもの。だから自分の人生を大切に愛してあげなさい。これからも苦しみ・悲しみあらゆる困難が天から降り落ちてくるだろう。しかしその後には必ず幸せが降り注ぐ事を忘れないでほしい。僕は天から君を見守り続けるとしよう。君がこの手紙を手にするときすでに僕は天に召されているのだから。僕は人生に負けたんじゃない病に勝てなかったそれだけ。何れにせよ僕の負けだな。皆井くん君にさようならは言わない。此れからも君の幸せを誰より願い見守っているよ 柳木沢/
手紙を顔に押し当て涙を隠し声を押し殺し泣いた。豪快に笑う柳木沢我儘で傲慢なそれでいて脆い柳木沢がもういない。もう一度会いたいと願っていた柳木沢がこの世から姿を消した。
「もう二度と会えない 本当に会えなくなってしまったの・・・」
食い縛っても食い縛っても涙が流れ出た。
「ううぅぅ・・・」
人は命に匹敵する大切な物を失ったとき慈しみの涙が全身から溢れ出る事を知った。柳木沢のそれは祖父母の時と同じだった。たった一通の手紙だけを残し逝った柳木沢。
「見守ってくれるというのならば、生きて生き続けて応援して欲しかった 柳木沢さんのバカァ~」
最後の最後まで好かない男のまま柳木沢はこの世に別れを告げ旅立っていった。




