大切なもの26
遅れて駆けつけた田鶴子は数日前まで一緒に過ごしていた明日香のあまりに変わり果てた姿に言葉を詰まらせた。佐知と同じ田鶴子も涙を見せず明日香の体をあやすように擦り続けていた。病院から一緒に付き添ってきた泉が田鶴子に声をかけた。
「沢村さん、明日香ちゃんを抱いてあげてください」
「よろしいのですか」
「あなたは明日香ちゃんの母親同然のお方でしたもの 明日香ちゃんもあなたに抱いてもらいたいはずです」
泉は明日香を田鶴子の腕に乗せてくれた。愛しい明日香を胸に抱いた田鶴子はその体を生前していたようにゆらゆら揺らし始めた。
「覚えているかしら 泣き止まない明日香ちゃんをこうして揺すってあげたのよね、覚えているわよね明日香ちゃん」
ずっしり重たかった明日香の体は今は嘘のようだった。死の現実を思い知らされ田鶴子は初めてこみ上げてくる感情を顕にした。
うっうぅ・・嗚咽と共に涙が零れていた。
「どうしてこんなに早くママのところに・・そんなに急いでママやおじいちゃんのところに行かなくたって」
明日香のお世話が出来ると楽しみにしていた泉も傍らで流れ落ちる涙を手のひらで抑えていた。
あれから10日佐知と田鶴子は悲しみ癒えぬままいつもの生活に戻っていた。手塚からいっこうに連絡がない佐知は雅和の病状が心配で仕事も手付かずの状態だった。
「佐知さん、みないさちさ~ん」
呼べども答えない佐知の前に秀行が目を吊り上げて立っていた。
「秀行先生そんな怖い顔してどうかしましたか」
「どうしましたかじゃないよ 最近の佐知さんはミスが多すぎると思わないか 頼んだ仕事はきちんとやってくれないと困る」
「すみません、気を付けます」
「昨日頼んだ資料だけど閉じ方がばらばらで順番どおりに閉じられていなかったんだ 悪いけどこれから閉じ直して、といってもあぁもう時間がないか とにかく僕も手伝うから急いでとりかかろう」
「はい」
完璧な仕事をしていた佐知の単純なミスは雅和が起因していると秀行にも分かっていた。
「佐知さん手塚さんからの連絡は」
「それがあれ以来何も・・・毎日待っているんだけど」
「彼が入院している病院の医師に僕が電話して聞いてみようか」
「そういえば医大のお友達がいるって言ってましたね 彼のこと聞いて貰えますか、お願いしてもいいですか」
「あぁ電話して聞いておくよ」
「宜しくお願いします 彼は風邪ひとつ引かず体だけは頑強だったから体の回復は問題ないと、でもメンタルのほうが・・」
「メンタルか、彼のメンタルの心配もいいけど僕の事も少しは考えてくれると有り難いんだけどな」
「秀行さんもしかしてそれって焼きもちですね」
「僕は焼きもちなんか・・」
「あっ目を逸らした 目をそらすのは当たっているからだわ」
「ほら手を休めない 佐知さん笑っていないで早く手を動かして」
「はいはい、わかりました」
「はいはいって僕はこれでも君の上司なんだよ」
「そうでした 皆井佐知、言い直します はいわかりました 上司殿これで宜しいでしょうか」
「佐知さんには敵わないな」
叱られても舌を出して笑うお茶目な君のかわいさに僕はいつも骨抜きになってしまう・・
久しぶりに見せた佐知の屈託ない笑顔は秀行の心を踊らせたが時折見せる憂いに沈んだ顔が気になって仕方なかった。愁いを帯びた佐知の瞳の中にいつも井川雅和という男の影が見えるような気がしてならなかった。
「あっ忘れてたわ 患者さんに頂いたペアの映画招待券がありますが今度のお休みに行きませんか」
「ごめん、友人と会う約束がはいってるんだ」
「それなら予定のない時にします」
「誰か受付の人を誘って行ってきたらいいよ」
「駄目、私は秀行先生を誘っているのよ 秀行さんと行きたいの だからいつか時間を取って私と・・ ん、その笑顔はOKなんですね よかった久しぶりの映画待ち遠しいです ありがとう秀行さん」
笑顔で頷いた秀行は休日一人で雅和の入院先に向おうとしていた。
医大の友人斉藤から電話がはいったのは数日前のことだった