第三話
どっしりとした木製の扉を開けると、鉄さびと消毒薬の混じった何とも言えない匂いが
二人の鉄道警察官を包んだ。
顔をしかめるマイクと、どこか懐かしそうな表情を浮かべるケネス。
テロの被害者が臨時で収容されているM病院付属のS教会。
テロ発生から二十四時間が経過しているので、
被害者たちは皆しかるべき治療がなされ、
軽傷者は帰宅し、重傷者は機械に取り囲まれたベッドに横たわっている。
その間を足早に動き回っているのは医師や看護師達。
枕元でじっと動かないのは恐らく患者の家族たちだろう。
おぞましくも、懐かしい光景だとケネスは思う。
四十年程前の前線から一歩退いた野戦病院とそっくりだ。
枕元の家族がおらず、ベッドに横になっているのが
子供でなく、若い兵士だったという違いはあるけれども。加えて……。
一つのベッドの枕元で悲痛な声が上がった。
脇に立つ白衣の青年が壁の時計を見て何かを告げる。
悲痛な声が一層大きさを増す。
ケネスは心の中でテロの犠牲者の数を一名上書きした。
足音とフラッシュと共に、何本かのマイクが一斉に泣き崩れる家族につきだされる。
マスコミか、これはあの時にはなかったな。
かわりにうだるような熱気と病気を仲介する蚊がわんさといた。
「そっと、しておいてやればいいのに」
隣にいたマイクが忌々しそうに舌打ちする。
ケネスは小さくうなずいた。病院側としてもマスコミを追い出したいのだろうが
そうするとパパラッチのように強硬手段に出られるかもしれない。
だから、苦肉の策として大手新聞社やテレビなど
まだ節度ありそうな連中だけに取材を許可したのだろう。
彼らにとっては部数や視聴率を伸ばす絶好の素材なのだ。このテロは。
英語に混じって聞き慣れない言葉も飛び交う、
外国のメディアもいるのか。その中で
「ドクター、日本の方なんですか。是非お話を」
聞き覚えのある懐かしい外国語がケネスの耳に届いた。
亜熱帯の国に送り込まれる前に派遣されていた極東の国の言葉。
見れば先ほどの白衣の青年にマイクが突き付けられている。
後輩よりずっと若く見える、
顔に目立つ傷のある青年はどうやら医師だったらしい。
「この状況が見えないのか、話す暇があったら患者を診ます。失礼」
男にしては甲高い声できっぱりと言い切って立ち去って行く医師に、
ケネスは拍手を送りたい気分になった。
ふと気がつくと、隣にいたはずのマイクがいない。
慌てて辺りを見回すと、手で口を押さえて教会を出ていくところだった。
「すいません、なんだか気分が悪くなって」
「ああ、構わん。少し休んでろ」
少し離れたベンチに腰を下ろした後輩にそう言って、
ケネスはポケットから古びた写真を引っ張り出した。
少し不鮮明ではあるが、将来かなりの美女になりそうな
少女が気の強そうな眼差しでこちらを見返していた。
レイラ。本名か偽名なのかは判らないがそれが彼女の名前、そして。
「イスラム系国際テロリスト。マナスの幹部で百三十名の犠牲者を出した
このテロの、主犯」
ケネスの呟きは、晩秋の冷え切った空気の中に瞬く間に溶けていく。
この国は、ほんとうに懲りると言う事を知らない。
四十年前あれほど痛い目にあったと言うのに
同じような事を繰り返して、また、悲劇がおこった。
今度は声に出さずに胸中で呟いたケネスの左手には、
醜く引きつれた広範囲のやけどの跡があった
※
ニュースキャスターが読み上げるテロの犠牲者の数が増えるたびに、
室内の熱気が徐々に高まっていくのをレイラは肌で感じる。
うちっぱなしのコンクリートの床に置かれた
旧式のブラウン管のTV以外照明も暖房も付いていないのに、
羽織っていたコートを脱ぎたくなった。
「妹と甥は、立派だったわ。今頃父と天国で再開して褒めてもらっている。
ありがとう、レイラ。貴方のお陰で諦めていた復讐が果たせた」
東洋と西洋の血が長い時間をかけて混じり合った
民族特有のくっきりとした大きな瞳に涙をためて、隣の女性が呟く。
「いいえ、貴方達が勇気を出してくれたからよ」
その肩を抱きしめながら、ケーキに偽装した爆弾を車内に置き去りにした女は答えた。
私達が祖国で苦しんでいる間、長い事この国で怠惰な平和をむさぼっていた
貴方達にはこの位の役目を引き受けてもらって丁度いいのだけれども。
胸中で吐き捨てながら、しかし顔には女の顔に浮かぶのは慈愛に満ちた笑み。
C-4の製造で手についた油脂を落とすために強力な洗剤を使い続けたため
すっかり荒れてしまった手に、女性の被ったスカーフの優しい絹地の感触が心地よい
この国に来て二年、彼女達と接触して一年、やっと計画を実行に移す事が出来た。が、
室内の女性達全てが達成感に満足した様子の中、
一人レイラだけが心に巨大な穴があいたような虚無感を噛みしめていた。
TVの中のキャスターが、死者が百を超えたと震えを隠しきれぬ声で告げると、
誰からともなくコーランの一節を唱え始め、
じきにそれは斉唱となって室内の空気を震わせた。
「まだよ、まだ足りない」
その中でレイラだけが別の言葉を、
飢えた獣の眼つきでテロの惨状を伝え続けるTVに向かって吐き捨てた。
そして、翌日。
「これだわ」
同じテレビ画面を見つめ、レイラはにやりと笑う。
そこにはテロの被害者が収容された
M病院付属のS教会の様子が映し出されていた。
突き付けられたマイクに向かって、
黒い髪の小柄な青年が理解できない言葉で叫び返している。
そして、その肩を宥めるように叩く、同じ色の髪の大柄な青年。
そして二人はまたあわただしくベッドにと駆け戻って行く、
どうやら医師らしい。
多分、彼らが全力を尽くしてようやく助けた命達。
これらをもう一度吹き飛ばしてやったら
こんどこそこの胸に開いた巨大な穴がふさがるかもしれない。
二日後、一年行動を共にした同じ国の女性達に最後の指示を下して、
レイラはアジトにしていた家を出た。
「警官がここを嗅ぎ付けたら、渡した銃を撃ちまくって抵抗しろ」
この言葉に素直に頷いた女性たちの顔を思い浮かべながら、
レイラは十分に離れた場所の公衆電話から警察に電話を入れる。
「テロに関わりのある人物が出入りしている家がある住所は……」
それだけ言って相手が名前を尋ねる前に受話器を置いた。
これで少しは時間が稼げる。
受話器を置いた瞬間に、女性たちの顔は綺麗に消え失せていた。
使い終わった道具をいつまでも覚えてはいられない。
まだ厳戒態勢が敷かれたニューヨーク。
かばん一つを抱えてレイラは雑踏の中に紛れ込んだ。
続く