第二十四話
クリスマスが後数日後に迫った日、ニューヨークに今年初めての雪が降った。
灰色の空から柔らかく舞い落ちる冬の使者は、
ゆっくりと時間をかけて地上を美しい白色で覆い尽くしていく。
ケネスはその様子をM病院8階の窓から見つめながら、
「14日か」
と呟いた。
ニューヨークの上空ではなく、大西洋上に
核弾頭を積んだ旧ソ連の軍事衛星が墜落した日からそれだけの時が流れた。
あの日、全米、いや全世界から注目されていた
レンガ建ての小さな建物は今は周りに人影もなく
雪だけが静かに降り積もっている。
「俺の周りも、早くこんな風になって欲しいものだ」
今度は厚い唇に苦笑の欠片を浮かべて、ケネスはもう一度呟いた。
今や彼は「テロを未遂に終わらせた正義の警官」であり、
ありとあらゆる賛美の言葉が連日雨のように降り注がれている。
マスコミの取材は警察署どころか家にまで押し掛けてくる有様だ。
今日もタクシーを二台乗り替え、やっと追い掛けてくる連中を巻いてここまで来た。
「ケネスさん」
名前を呼ばれて振り返れば、そこに立っていたのは両頬と手に酷い傷痕が残る
小柄な日本人の医師。
「佐々木先生、お久しぶりですね。お元気そうで良かった」
「ええ、ケネスさんも」
笑顔で挨拶を交わして、二人は並んで廊下の隅にある長椅子に腰を下ろした。
テロが起こった日と同じように。
「先生、怪我の具合はいかがですか」
「ああ、心配かけてすいません。もう殆ど治ってますよ、
明日か明後日にはこれも取れるでしょう」
と佐々木は、左手に巻かれた包帯を苦笑して見つめる。
「あの時は本当に驚きましたよ。
先生は発砲したばかりの銃身を躊躇なく握りしめたんですから」
「知らなかったんですよ。発砲したばかりの銃身があんなに熱くなっているなんて。
まあ、銃をあんなにまじかに見たのも初めてだったんですけど」
「そうだったんですか」
佐々木につられるように、ケネスもまた苦笑した。
「しかし、そのお陰で私はレイラの命を奪わずに済んだ。礼を言いますよ。
しかし、先生は勇敢な方ですね。いつ発砲するか判らない銃口の前に
いくら防弾チョッキを着ているとはいえ、立ちはだかるなんて」
「勇敢だったわけじゃない、ただ悔しかったんです」
と佐々木は小さく首を振った。
「目の前でこれ以上人が死んでいくのは。
俺は医師で、人の命を救うのが仕事ですから」
「なるほど」
「ケネスさんは今やすっかり英雄ですね」
「お恥ずかしい話です」
ケネスは俯いて頭を掻いた。
「この国は相変わらずです。英雄を作り上げることばかり熱心で、
英雄に倒された『悪者』がなぜ生まれたのか、その訳を少しも考えようとしない」
だから、ケネスはいくら要請されても、目の前に大金を積まれようとも
翌日の新聞に「警察官として市民を守る当然の務めを果たしただけ」
と短いコメントを発表しただけで、
その後の取材やメディアへの露出を断固として拒み続けてきた。
「私は単なる殺人未遂者です。いや、殺人者ですね。
その昔戦争で数え切れないほどの人を殺しましたから。
レイラの事を非難する資格はありませんよ。彼女はこの奥ですか?」
佐々木は頷く。
この病院の8階は特別料金を払わねば入ることのできない個室が三つしかない。
そして今、このフロアにはレイラ唯一人が厳重な監視のもと、入院をしていた。
「手術と輸血のお陰で命に別条はありませんが、まるで貝のように口を閉ざして
何もしゃべらない。今、王が精神面の主治医として治療に当たっています」
「王医師が?」
「ええ」
「そうですか、実は今日ここに来たのは彼女にこれを渡そうと思ったからですよ」
とケネスがポケットから取り出したのは、古びた写真。
あのアパートに残されていた、恐らくレイラの家族を写したモノ。
「私からは渡せません。佐々木先生、お願いできますか」
「はい」
もう一度佐々木は頷いて、ケネスの手から写真を受け取った。
※
「傷の具合はどう、痛まない?」
「食事もずっと拒んでるんだってね。栄養だけなら点滴で補えるけど
やはり口から食べたほうが回復が早いよ」
穏やかに喋り続ける王に、ベッドの上で上半身を起こしたレイラは
まっすぐ前を見つめているだけで、返事はおろか、彼の方を見ようともしない。
金髪の鬘と青いカラーコンタクトは取り去られ、僅かに髪が伸び始めた坊主頭が
痛々しかった。
「雪が……」
「はやく、殺しなさい」
王の言葉を遮って、何の感情もこもらぬ声でレイラは呟く。
銃で撃たれた両肩の手術を終え、彼女が麻酔から目覚めて以来
喋るのはこの一言だけだ。
「それで、君はいいのか?悪魔の化身のような
テロリストと言うレッテルを張られたまま
死刑になってそれで満足なのか?」
問いかけに答えはない。
「早く、殺しなさい」
切れ長の瞳で虚空を見つめたまま、もう一度レイラは繰り返した。
その時
「佐々木だけど、ちょっといいかな」
細く開けられた扉の隙間から、酷い傷痕の残る手が数枚の写真を王に手渡した。
「これは、君の家族かな」
ベッドの上に並べられる、古びた写真。
それを見たとたん、レイラの切れ長の瞳から涙が一筋零れおちた。
「言いたい事があるんだろう。この国の人たちにさ」
それを指先で拭ってやりながら、王は再びレイラに語りかける。
「早く……」
「言えよ、せっかくアメリカにいるんだろう。爆弾で人間をいくらふっ飛ばしても
写真を見て泣いていても、君の心の内は誰にも伝わらない。その口は何の為にある
言葉は何の為に覚えたんだ。今の君は全米、いや全世界の注目の的だ。百人以上の
命と引き換えに手に入れたポジションを無駄にするなよ」
また、レイラが涙を流す。
「早く殺しなさい」
と呟きながら。
「殺させるか、俺は医者だ。壊れた心を治す精神科医だ」
泣き続ける彼女の顔を覗き込みながら、王は続けた。
「俺は絶対に君の心を君の言葉で語らせて見せる。それが、あの日俺の目の前で
死んでいった……俺が救えなかった人々へのせめてもの償いだ」
血を吐くような医師の叫びに、初めてレイラの瞳が王の方を向いた。
※
「お久しぶりね、王先生」
「ああ、半年ぶり、かな」
分厚い防弾ガラスを隔てて王とレイラは向かい合う。
ニューヨーク郊外にある重犯罪者専門の刑務所。
あのテロから一年半が経過していた。
「判決は、もう知っているわよね」
微かな笑みすら浮かべながら、レイラは問いかける。
その肩口をすっかり伸びた癖のある茶褐色の髪がさらさらと撫でた。
「ああ」
対照的に硬い表情で王は頷く。
「TVで見たよ。残念だな、ニューヨーク市は二〇〇四年に死刑を憲法に反すると
裁定したはずなのに」
「私は百人以上の罪なき人を殺したテロリストよ、当然な判決よ」
「俺はこの国を法治国家だと信じていたよ。上告は?出来るはずだよ」
王の言葉にレイラはゆっくりと首を振る。その表情は穏やかで優しげですらあった。
きっとイラクではこんな表情を家族に向けていたのだろう。と王は思う。
「何度も言ったわよね、私にはもう生きている理由がないと。
それに死刑囚の特権のお陰で先生にまた会う事が出来た」
「そうなのか」
「お礼が言いたかったの、出来れば直接」
「え?」
驚く王にレイラは続ける。
「私は暴力を暴力で返す方法しか知らなかった。でも、ニューヨークの上空に
核爆弾を落とそうとしても叶えられなかった出来事が……」
「叶いそうだろう、今」
複雑な表情で王はレイラの言葉を引き継いだ。
「そうね、私は裁判で自分がテロに奔った理由を語った。たったそれだけなのに」
「イラクからはアメリカ軍が撤退しかけてるし、グアンダナモ基地からは
政治犯が釈放されそうだ。言っただろう、言葉はどんな凶器にも勝るって」
レイラの証言は、何の修正も加えぬまま全米、いや全世界に流された。
まだ若い女性が淡々と語る悲しくも恐ろしい話に
多くの人々が想像力をかきたてられたからかもしれない
米大統領選が迫っていた事も、幸運だったのかもしれない。
ともかく数十分の証言が、何度テロを繰り返しても
実現できなかった事をあっさり成し遂げようとしている。
「ええ。先生の治療のお陰ね。本当にありがとう」
「結局、君は死刑になってしまうけどね」
苦笑と言うには苦すぎる表情を王は浮かべた。
半年の歳月をかけて、王は頑なに閉ざしされていたレイラの心をこじ開け
己の心の内を言葉にする方法を訓練し、
さらに裁判が始まってからも法廷が開かれる度に彼女の側につきしたがい
その心を支え続けてきたのだ。
「私は、先生を騙して、人質にして、殺そうとまでしたのに」
「言ったはずだよ。俺は祖母を尊敬しているって。だから真似をしただけだ」
憎しみを連鎖させるのではなく、断ち切る。
「何十年後かに、俺の子供がもしかしたら、
君の国の人間と親友か恋人になるかもしれないから」
「私達は無理だったけど」
そう言ってレイラは少しさびしげな笑みを浮かべた。
「いつのころからかしら、先生の言葉を心の支えにするようになったのは。
もう少し早く出合っていればよかったと、思うようになったのは」
「……」
その言葉に王は無言で冷たく分厚い防弾ガラスに手を押し付ける。
そこにレイラはそっと自分のそれを重ねた。
「上告しろよ、レイラ」
「レイラ、じゃなくてサウサン……私の本名よ。先生にだけ知っていてほしかった」
「サウサン」
清涼な響きの名を王が口の中で転がすと、分厚い防弾ガラスで隔てられた女性は
まるで初めて恋をした女子学生のように顔を僅かにあからめて、はい。と答えた。
そこに、冷酷無比なテロリストの面影はもはや欠片もない。
「時間です」
冷徹な刑務官の声が、面会の終了を告げる。
「名前を教えてくれてありがとう、一生忘れない」
その言葉にレイラ、いや、サウサンはもう一度嬉しそうに笑うと、刑務官と共に
分厚い鉄の扉の向こうに消え、それ以後二人があう事は二度となかった。
※
「……先日レイラ……いや、サウサンの死刑が執行され、どういうわけか
遺髪が俺の所に送られてきた。佐々木、申し訳ないがどこか適当な場所にこれを
埋めてくれないだろうか。せめて髪だけでも故郷の土に帰してやりたくて。
そして、迷惑ついでに一緒にこの種も頼む。
サウサンはイラクの言葉で百合と言う意味らしい。
咲くかどうかは判らないけど、何もないよりましだろう」
親友から久しぶりに届いた手紙を読みながら、佐々木は同封された小さな包みを開ける。
現われたのは一房の黒髪と小さな種そして、CD。
「Desperado。刑務所の中で彼女が良く聞いていたそうだ。
俺もあれから時々聞いているんだけど
何となく彼女の事を歌っているみたいだろう」
「……そうだな」
呟いて、佐々木はCDを傍らのデッキにセットする。砂漠の砂で良く故障するけれど
イラクの難民キャンプでは貴重な娯楽道具だ。
王がアメリカでレイラを治療していたころ、
佐々木は国境なき医師団の一員として妻になったミナと共に、
イラクにやってきた。米軍が撤退してもこの国はまだ平和にはほど遠い。
流れ出した少し物悲しいメロディに、直ぐに近くで遊んでいた子供達が集まってくる。
「先生、それ何の曲?」
「手紙、だれから?」
口々に尋ねる子供達の間をゆっくりと歌声が流れていく。
Desperado, why don't you come to your senses?
You been out ridin' fences for so long now
Oh, you're a hard one
I know that you got your reasons
These things that are pleasin' you
Can hurt you somehow
(なあ、いい加減目を覚ませよ。
長い間フェンスの上に腰かけて、嫌にならないか。
君は君なりに理由があるみたいだけど、赤絨毯だと思っているそこは
実は茨の上なんだぜ)
「だれかこの辺りで見晴らしが良くて、
ついでに花が育ちそうな場所を知らないかな」
佐々木の問いかけに、次々と子供達が口々に様々な場所を喋り出した。
Desperado, why don't you come to your senses?
Come down from your fences, open the gate
It may be rainin', but there's a rainbow above you
You better let somebody love you, before it's too late
(なあ、いい加減目を覚まして、目の前のドアを開けなよ。
向こうは雨降りかもしれないけど、虹だって出るさ。大切な人の手を握れよ。
手遅れにならないうちに)
ここまでお読みいただいてありがとうございました
このお話は昨年別の場所に発表し、一度ここでも発表した作品です
この度大幅に加筆修正し、ここに完成版として完結します
ご意見、ご感想を下されば大変うれしいです