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第二話

「もう私物の整理ですが、早すぎますよ」

苦笑しながらコーヒーの入った紙コップを渡してくれた後輩に、

ケネスも同じような笑みを返した。

「なにせ三十年分だからな。少しづつ持って帰らんと。

映画のように退職当日、小さな段ボール箱を小脇に抱えて、

と言うわけにはいかないさ」

ひっかきまわしたデスクの引き出しの中には、実に様々な物が詰まっている。

書類、何かのメモ、領収書。歯ブラシや安全カミソリ、タオルがやたらと出てくるのは

それだけ多くの夜をここで過ごしたことの証だった。

ニューヨーク市地下鉄警察本部。

 犯罪多発地域であるこの街の地下を網の目のように走る、

鉄道で起きた事件を専門に取り扱う部署。

 ケネスはここを後1カ月で定年退職する。

「おや、こんなものがあった。ちょうどいい、前のが割れちまったばかりだからな」

 一番底から出てきた小さなスタンドタイプのミラーをデスクに置くと、

少し曇った鏡面に白髪まじりの縮れた髪をした黒い肌の自分と、

ブロンドの髪に若々しい白い肌の後輩の姿が映る。

「そりゃあ判りますけど、なんとなく寂しいじゃないですか」

「なんだマイク、普段はひよっこ扱いされるのを嫌がるくせに

いざとなったら一人立ちが怖いか」

「そんなんじゃ、ありませんよ」

顔にさっと朱を上らせて、マイクは反論する。

それを見てケネスはすまんと笑いながら謝った。

感情を隠す事も出来ない純朴な坊ちゃんが凶悪な犯罪者と立ち向かえるのか、

と彼が配属された当時は秘かに心配したものだが、中々どうして大した根性で

マイクは決して親切な指導者とはいえなかった自分とコンビを組み続けてくれた。

 大丈夫、俺の知っている事は全部お前に教え込んだ。

今度はお前が新人をリードしろ。 

照れくさいから心の中で、しかも鏡の中の後輩にそっと呟いた時、

全てのデスクの上の電話がけたたましくなりだした。

「地下鉄車両、及び駅構内で大規模な爆破事故が発生、テロの疑いあり」

一瞬の静寂の後、室内に響き渡った声に署員全員に緊張が奔る。

「行くぞ。テロか純粋な事故かだけでも即急に見極めにゃならん」

 やれやれ、この街はぎりぎりまで自分をこき使うらしい。

 鏡の中の初老の黒人男性に今度は小声で呟いて、

ケネスは足早に部屋を出ていく。

 その後をマイクが慌てて追った。


                     ※


「以上で発表を終わります、御清聴ありがとうございました」

 佐々木が壇上で軽く一礼すると、拍手と共に会場が明るくなる。

 その片隅で王が親指を立てて自分に向かって笑いかけているのを見つけて、

 やっと強張っていた表情が緩むのを感じた。

「御苦労さん、嫌がっていたわりには

中々堂に入った話しっぷりだったぜ、佐々木君」

「お前が発表すると言っていたのに、

直前になって籤で決めようなんて言い出すからだろう。

 お陰で寿命が縮んだ、責任を取ってくれ」

「医学的に証明できたらな、まあなんにせよ無事に終わってくれてよかった。

 突っ込んだ質問もされなかったしな」

「まったくだ」

 スーツ姿の男女がごった返す広いホールの一角で、

 佐々木と王はサービスの飲み物片手に安堵のため息をつく。

 第一線で働く臨床医から大学の教授まで集まる

年に一度の大規模な精神医学学会で、二人はつい先ほど

共同執筆した論文の発表を終えたばかりだ。

「二人ともせっかく専門医になったんだから、論文の一つも発表してもいい頃よ。

ちょうど三か月後に学会がニューヨークであるから、そこでやりなさい」

 という院長の気軽な一言で決定した事だったのだが、

言われた方にしては一大事である。

普段の勤務を抱えた上での論文制作は予想以上に大変で、

学会三日前から佐々木は王の部屋に泊まり込んで

「いい加減シャワーくらい浴びて、きちんとベッドで寝なさい」

と彼の母親に呆れられる生活を送ってようやく今日にこぎつけのだ。

「佐々木君」

「岡本先生」

 不意に肩を叩かれて佐々木が驚いて振り返ると、

そこには彼をアメリカに送り出してくれた上司が

にこやかな笑顔を浮かべて立っていた。

「いらしていたのですか、連絡して頂ければ空港まで迎えに行ったのに」

「君がそう言うと思って黙っていたんだ。

論文を発表するまではそれに集中したいだろう。

聞かせてもらったけど見事だったよ」

「そんな」

 耳まで赤くなってうつむく佐々木に、岡本はもう一度笑う。

「あの論文を聞いて君をアメリカに送り出してよかったと思ったよ。

遅くなったけど専門医合格おめでとう」

「ありがとうございます」

 岡本の温かい言葉に、佐々木はもう一度深く頭を下げる。

 インターン終了後僅か1年の勤務実績しかない自分を、

小児精神科のフェローシップ(専門研修医)として

小児の精神治療では全米でトップクラスの

規模と実績を誇るカリフォルニアの病院に送り出してくれたのだ。

いくら感謝してもし過ぎる事はない。

「えっと彼は同僚かな?」

「はい、俺と同時期に専門医になった王陰月ワン インユエ医師です。

王、こちらは俺の日本で勤めていた病院の診療部長の岡本先生」

「はじめまして、中国からの留学医師?」

「こちらこそ、いえ、祖父が頑固なので中国式の名前を名乗っていますが

中華系三世の生粋のアメリカ人ですよ」

 佐々木の紹介で二人は握手を交わす。

「佐々木君は良い同僚に恵まれたようだね。論文の出来もさることながら、

 日本にいたころよりもずっと明るくて良い顔をしている。

帰国後が今から楽しみだよ。あと半年、しっかりと頑張って下さい」

「はい。全力で」

 佐々木が頷くと岡本はじゃあまたレセプションで、と言い残し、

人ごみの中に消えていった。

「レセプションは十九時からだし、

俺たちもちょっと出るか。外の空気が吸いたい」

「同感」

 締め慣れないネクタイを緩め、二人が連れだって会場をでると晩秋の短い日は、

すでに最後の一片を空の端に残すだけになっていて、冷たい風が吹いていた。

「流石に寒いな」

「カリフォルニアが暖か過ぎるんだよ」

 観光資源にもなっている美しい夜景を見ながら歩いて、

たどり着いたのは巨大なクリスマスツリーの点灯式で

日本でも有名なロックフェラービルだ。

「まだ点灯してないんだな」

「11月だからな、でもスケート場はやってるぜ。ほら、コーヒー」

「ありがとう」

 差し出されたじんわりと熱さが伝わってくる紙コップを、

佐々木は両手で包むようにして受け取った。

「TV でおなじみの光景が目の前にあると、なんか妙な気分だな」

「九時間と少し、か。案外近いんだな」

「何が?」

「カリフォルニアから日本までのフライト時間だ。

ニューヨークまでは六時間だったから、

映画を一本余計に見ている間に、着く」

そう言ってコーヒーを啜る王に、佐々木はああ、と頷いた。

「あと半年、か。長いようで短かったよ」

 それだけの時が過ぎれば、彼とは同僚でいられなくなる。そう思うと胸の中に

すっと外と同じ温度の風が吹き込んだような寂しさを覚えた。

「コウベとかいう都市に会ったことのないけど親戚がいるし、京都や東京にも行ってみたい。

案内しろよ、休暇が取れたら押しかける」

「もちろんだ」

「ミナはああ見えて順能力が高いんだ。もともと生まれが日本だし、

日本語もすぐに覚えちまうだろうなあ。寂しくなるけどしょうがない」

「う、うん」

 佐々木はさっきよりも曖昧に頷いてコーヒーを啜った。

彼の法律上の従姉妹で同じ病院に勤める

内科医のミナと付き合い始めてそろそろ一年になる。

 いくら情報伝達手段が発達しているからとはいえ、

大西洋を挟んだ遠距離恋愛など続くわけがないし

年齢から考えて王は自分とミナが結婚して

一緒に日本に帰ることを当然と思っているらしいが、

今のところ二人の間でこの件を話しあったことは一度もない。

「失礼、身分証を見せていただけますか」

突然背後から二人の間に割り込んだ警官に、

またかとため息をつきつつ二人は携帯していたIDカードを見せる。

「これで三回目だぜ。そんなに不審そうに見えるのか?俺たちは」

 それを確認し、鷹揚に頷いて去って行った警官の後ろ姿に王が呟いた。

「俺のせいかな」

 呟いてうつむく佐々木の両の眼もとから顎までには、かなり目立つ傷痕がある。

コートの袖から覗く右手にも同じようなものがあり、

それに胡散臭げな視線をすれ違いざまに向けていく人も多い。

 親が企てた無理心中に巻き込まれた際に負った傷だが、

事情を知らぬ人から見ればさぞ気味悪く見えるのだろう。

「そんなわけないだろう」

 いつものように身長が頭一つ分低い佐々木の長く癖のある髪を

ぐしゃぐしゃとかきまわしながら、王はことさら強い調子で言った。

「あのテロ以降ニューヨークがやたらと有色人種に厳しくなったのは評判だろ、

それにしても今日は異様にパトカーが多いな、何かあったのかもしれない」

 王の言うとおり目の前の通りを次々と

サイレンを鳴らした警察車両が走りさっていく。

佐々木はそれを何げなく目で追っているうちに、

まだ通りの案内板に『世界貿易センタービル』の名前が残っている事に気付いた。

 超高層ビルに飛行機が突っ込むという映画の中のような

テロが起こったのはまだ佐々木が日本で医大に通っていたころだった。

随分と昔の事のように感じていたのだが、

実際はまだ街のあちこちに痕跡が残っている程度の時間しかたっていない。

「日が落ちると流石に寒いな、そろそろ戻るか。

飛行機は午後だし観光はまた明日すればいい。

ミナに何を土産に買って帰るんだ」

「まだ考え中」

「もうすぐクリスマスだろ、精々奮発しろ。……ちょっと待ってくれ、電話だ」

と王はコートのポケットから携帯電話を取り出す。

「はい、……なんだって」

 さっと顔色を変えた友人に、佐々木がどうした?

と問いかけた時、自分の携帯電話も鳴りだした。

勤務先の病院からだ、なんだろう。

 学会でニューヨークにいることは職員のほとんどが知っているから、よほど緊急の用件か。

胸騒ぎを覚えながら通話ボタンを押して、聞こえてきた声に驚いた。

「佐々木、TVのニュースを見た?ニューヨークで何が起こったか知っている?」

「院長先生、どうしたんですか」

「まず質問に答えて頂戴」

 典型的な田舎の陽気な老婦人といった容姿にふさわしい穏やかで優しい声が、

今は強張り、震えてすらいる。こんな院長の声を聞くのは初めてだ。

「いえ、今発表が終わったところで何も知りません、何があったんですか」

「地下鉄で大規模なテロが起こったの。

電車が五両と駅が三つ爆弾で吹き飛ばされて

死傷者は未だに予測がつかないわ」

「なんですって」

 先ほどからパトカーがやたらと多かったのも、

頻繁な職務質問もそのせいだったのか。

「ニューヨーク市はテロの被害者の為にM病院付属の

S教会を専門の治療施設にすることを決めたわ。

今は医師をかき集めている最中。佐々木、うちの病院からも

貴方と王を治療に派遣することに決めました」

「治療って、先生、俺たちは精神科医ですよ。

外傷の臨床からは何年も離れています。役に立てるとは……」

「注射や点滴もできるし、素人より役に立たないとは言わせないわよ。

それに貴方達が本当に必要とされるのは、多分明日以降。」

「どうしてですか」

「今はそれをぐだぐだと説明している暇はないわ、

とにかくS教会に行って指示を仰ぎなさい。

佐々木、全てを抱えこめとは言わないけれど、全力を尽くしなさい」

「はい」

 まだ言われた事が良く飲み込めないまま返事をして電話を切ると、

 同じように困惑顔の王と目があった。

「誰からだ」

「院長、俺達をテロの被害者の治療に派遣することに決めたって」

「こっちはM病院からだ。至急こい、だそうだ。

テロが起きたのが15時で、やっと救助が始まったらしい」

「行ったところで役に立つのか」

「さあな、とりあえず行くしかないだろう」

そう言って王は手を上げてタクシーを止めた。

                

                         ※


「失礼、電話をもらった小児精神科医の王と佐々木です」

「ああ、待っていたよ。白衣と聴診器はこれを。

それからこのリボンを肩口につけて。

 皆知らない者同士だからリボンの色で専門を見分ける為だ。

赤が救急救命医で黄色が外科医、白が整形外科医で、君たち精神科医は青だ。

今日は当病院のアスラン医師の指示を仰いでくれ」

 到着したM病院に付属するS教会はすでに白衣姿の医師達が大勢集まっていた。

付属と言っても地域の教会も兼ねているのだろう。

メガ教会と呼ばれる千人以上を収容できる大きな建物で、

そこに治療器具、薬剤などが続々と運び込まれている。

長椅子は臨時のベッドになるようだ。

「よろしく、アスランだ。君たちは精神科医だそうだけど、

勤務はどこの病院で?外傷の治療経験は皆無か?」

「佐々木、兵衛です」

「王陰月。カリフォルニアの××精神病院勤務。

佐々木は日本人だけど英語の意思疎通は問題ない。

小児精神科専門医だが、二人共精神病救急科での勤務も行っている。

重症の外傷患者の治療経験はインターンの時に半年だ。佐々木は?」

「日本でインターンの時に、救急救命室で同じく半年間」

 手を差し出してきた長身で茶色い巻き毛の医師の肩口には

赤いリボンが揺れている。

その手を握り返しながら、二人は手早く自己紹介をした。

「精神科とはいえ救急科勤務の実績があるならありがたい。

軽傷患者の治療は任せられるな。

君達が本当に必要とされるのは多分明日以降だ」

 院長と同じ事をアスランは言った。

「今日、君達は教会の入り口で患者を選別してもらう。

現場で救急隊員がトリアージタグをつけているが、

もう一度ここで確認して各専門医に引き渡してくれ。

その時の患者の取り扱いは十分に注意して、

不自然な衣服の下の膨らみや腹部の張りには特に、

ペットボトルを携帯していたらその内容物にも。」

「昨年のテロの教訓ですか」

王の言葉にアスランは頷く。

昨年、同時多発テロの追悼式の日、小規模な爆弾テロが起こった。

死者はなく怪我人は全て最寄りのERに搬送されたが、

その中に怪我人を装ったテロの実行犯が紛れ込んでいたのだ。

ペットボトルに詰められた液体状の爆弾が処置室で爆発し、医師三名と看護師二名、

そして命が助かった事を家族で喜び合っていた本当の怪我人五名が犠牲になった。

このニュースはその日のうちに全米を駆け巡り、以来大部分の州で

一定量以上の液体は公共の乗り物や建物に持ち込み禁止となっている

「そうだ、患者をすべてここに収容するのもその為だ。

彼らは犠牲者でもあり、容疑者でもある。

どうか気を抜かずに対処してほしい」

 硬い表情で二人が頷いた時、サイレンの音を響かせて

次々と救急車が教会の前に到着する。

「五歳、両腕切断でひん脈」

「四歳、広範囲の熱傷。気管が腫れて挿管できません。血圧は100-65」

緊迫した声を張り上げて、救急隊員がストレッチャーに乗せられた小さな身体を

駆け足で運び入れる。

「六歳」「五歳」

「なぜこんなに子供ばかりが」

 瞳孔の反射や呼びかけ、痛みに反応するかなどを調べながら

佐々木が悲鳴に似た声を上げる。

「小児外科医、直ぐに来てくれ!!」

「爆破された地下鉄に遠足帰りの幼稚園児が百名近く乗っていたんです」

返されたやはり悲鳴のような救急隊員の声に、

「最悪だ」

と王は呟いた。


続く


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