第十話
「悪い、君まで巻き込んだ」
「気にするな、お陰で半日休みが取れた」
ロッカールームで白衣を脱ぎながら、
王はうつむいて謝る佐々木に笑いかけた。
刑事と病室で口論になり、尚且つ掴みあいにまでなってしまった原因を
「連日の勤務で疲労がたまっている」事にされ、
「半日しかないけれど、今日は休みにしてくれ」
と初日からずっと部外者である二人の勤務を管理してくれている
アスラン医師から言われたのは、数分前の事。
「それよりも顔色が悪いぞ。熱でもあるのか」
「いや、ちょっと胸が悪くなる話をさっきの刑事さんから聞いたからだ」
「そうか、じゃあホテルで聞かせろよ」
「でも」
「酷い話を一人で抱え込むと身体に悪いぞ。吐き出しちまえよ」
「……ありがとう」
親友の言葉にようやく佐々木の口元に笑みに似た物が浮かんだ。
病院を出ると、町はすっかりクリスマス一色に飾り立てられていた。
それは先日起きた悲惨なテロを
早く過去の出来事にしてしまいたいという人々の心の現れのようだ。
「コーヒー飲むだろ。買っていくから先に部屋にいっといてくれ」
ホテル近くの移動式コーヒースタンドの前で足を止めた王に、佐々木は頷いた。
泊まっているホテルよりも、ここのコーヒーの方がよほど美味しくて安い。
エレベーターの扉が閉まり一人だけになったとたん、
座りこんでしまいたいほどの疲れが押し寄せてくる。
ミナ、どうしているかな。
ふいにカリフォルニアの恋人の事が思い出されて、口元に苦笑が浮かんだ。
ニューヨークに着いた日以来、電話もメールもしていない薄情っぷりなのに、
今、無性に彼女の声が聞きたかった。
多分怒って拗ねて大変な事になるだろうが、
王が戻ってくる前に久しぶりに電話をしてみよう。
エレベーターが止まった。扉が開く。
「兵衛」
「ミナ」
駆け寄ってきた恋人を佐々木は信じられない思いで見つめた。
「どうして、ここに」
その問いに、ミナは美しい顔の中でも特に印象的な
アーモンド形の瞳で佐々木を軽く睨みつけた。
「大変な事になっているのは判ったけれど、
メール一本くれない薄情な恋人に一言文句が言いたくて
クリスマスと年末年始の休暇を全部返上して、無理やり休暇を取ったのよ」
「……ごめん」
「空港から病院に電話をしたら、半日休暇だって教えられたの。ついでにホテルもね」
そう言いながら、ミナは一転泣きそうな顔になる。
「すごく、心配したんだから。テレビじゃ酷い映像ばかり写すし、
被害者の殆どは子供だと聞くし……ちょっと、兵衛!!」
ミナが戸惑いの声を上げても、佐々木は彼女を抱きしめた
腕の力を緩めようとしなかった。
「ごめん、しばらくこのままで」
厚いコート越しとはいえ恋人の柔らかく暖かい身体を全身で感じながら、
佐々木は切れ切れに哀願する。
今まで胸の底に押し込め、感じない振りをしてきた感情が、
堰を切ったようにあふれ出た。
瞼の裏に蘇る、あの日の光景。弱弱しく泣き声を上げながら、
血まみれで搬送されてくる子供達。
黒色のトリアージタグを付けられた我が子を見つけて泣き崩れる母親、
そして、酷い傷痕の残る子供のような小さい手を握り締めて、力尽きた老人。
「……俺は、救えなかった。医者なのに……大ぜいを見殺しにした」
「そんなことない」
優しい声が耳元で囁かれ、柔らかい掌が何度も頭を撫でる。
「兵衛はきっと全力を尽くした」
その言葉に、佐々木の眦から涙がこぼれおち、
ミナを抱きしめる腕に一層の力が籠った。
「あの、お二人さん」
ようやく佐々木がミナを解放したのは、
呆れたような王の声が背後から聞こえた時だ。
「久々の再開で嬉しいのはよく判るが、そういう事は部屋でやった方がいいと思うぜ」
「あ……えっと、その、ごめん」
耳の先まで真っ赤になって謝る佐々木に、
王は苦笑して両手に持っていたコーヒーの紙コップを押し付ける。
「邪魔者は退散するよ、じゃ、ミナ、
悪いけどこいつの話をじっくり聞いて慰めてやってよ」
「ちょ、王」
うろたえる佐々木とミナに後ろを向いたまま手を振ると、
王はさっさと今降りたばかりのエレベーターに戻ってしまった。
「あ、あの、ごめん、こんな場所で。ちょっと色々あって、だから、俺」
「とりあえず、部屋に入れてくれる?」
しどろもどろに言い訳をする佐々木をミナの言葉が遮る。
「さっきは嬉しかった……、ずっとメールも電話もなくて、
忘れられてると思っていたのよ」
部屋に入るなり今度は自分から抱きついてきたミナの唇に、
佐々木は思い切り強く自分のそれを重ねた。
※
下町の、ゴミが散乱する細い路地を足早に歩くレイラの耳に
パトカーのサイレンの音が聞こえた。
道端に座り込んでいた、眼つきの悪い若者たちが足早に姿を消していく。
思った以上に警官たちの動きが早い、とレイラは舌打ちをした。
一刻も早く安全な場所に逃げなければ。
手荷物検査と称してかばんを開けられれば一巻の終わりだ。
金髪の鬘と青色のコンタクトで別人になりきっている自信はあったが、
それでもこんな場所に女性が一人、しかも大荷物をもって歩いていると目立つ。
流石に焦りを覚えて周囲を見渡すと、
こちらに向かって歩いてくる場違いに身なりのいい男が見えた。
黒人でも白人でもない、アジア系の顔立ち。
片手にガイドブックらしい物を丸めて持ち、
辺りを見回しながら歩を進めているところをみると、
地理に不慣れな観光客だろうか。チャンス、かもしれない。
レイラは一度わき道に入り靴を脱ぐと、
男の前にさも全力で走ってきたかのように飛び出して、
そのまま恋人にするように胸の中に飛び込んだ。そのまま数秒、
二人の脇を、やかましい足音が通り抜けていく。ちらりと見れば制服を着た警察官だ。
真昼間から道端で抱き合っている不埒な男女に忌々しげな視線を向けるが、
それだけだ。
「……どうしたの?」
かけられた困惑した声に精一杯怯えた表情を作って顔を上げると、
男らしい端正な顔が声と同じ表情をして見下ろしていた。
「すいません、柄の悪い男達に絡まれて。
少しの間でいいからツレのふりをしてください」
そう言ってもう一度男の胸に顔をうずめる。
ややあって男の腕が背中にまわされる感触を得て、
レイラはニヤリと笑った。
※
突然細い路地から目の前に飛び出してきて、そのまま自分に抱きついた女性を
王は一瞬自分の荒れ狂う心が見せた白昼夢かと思った。
エレベーターの扉が開いたとたん、
目に飛び込んできた固く抱き合う親友と血のつながらない従姉妹の姿。
ミナがここにいる事の驚きと、微かな喜び、
そして焼けつくような佐々木への嫉妬。
荒れ狂う感情の嵐を理性を総動員して押さえこみ、
二人に軽口を叩いて再びエレベーターに
早足で乗り込む。扉が閉まるまでの時間が恐ろしく長く感じられた。
早く、早く閉まれよ。俺が佐々木を押しのけてミナに抱きついてしまわないうちに。
千々に乱れる心に蹴飛ばされるように、
足早にホテルを出て当てもなく通りを歩く。
ようやく足が止まったのは、
無料の風俗店案内が突き刺さっているスタンドの前だった。
断ち切ったと思っていたのに、しつこく頭をもたげ続ける
従姉妹への恋心とそれを一時の肉欲で宥めようとする浅ましさ。
その両方に乾いた笑みを向けながら、それでも
大きな胸を腕でかくしただけの美女が、悩ましげに腰をくねらせている
表紙のガイドを抜き取る。
今は誰でもいい、とにかく暖かく柔らかい体を抱きしめて
刹那的な快楽におぼれ、全てを忘れてしまい。
そして裏表紙の地図を頼りに再び歩きはじめ、
治安の悪そうな下町に足を踏み入れた時、
軽い衝撃と共に彼女が抱きついてきたのだ。
瞬きをし、深呼吸をしてもその姿は消える事はなく、
コート越しに伝わってくる女性の体温と鼓動に無意識に喉が鳴った。
すぐ脇を通り抜けて行った数人の警官の視線にようやく我に帰って
「どうしたの?」
と問いかける。
「すいません、柄の悪い男達にからまれて」
怯えた表情で理由を説明する女性。その切れ長の青い瞳の美しさにどきりとした。
褐色の肌に金色の髪。珍しい組み合わせだが、
人種のるつぼのこの国では皆無ではない。
「少しの間でいいのでツレの振りをしてください」
再び顔を胸に押し付けられ、戸惑いながらその背に手を回す。
そのまましばらく時が過ぎた。
「誰も追ってこないよ」
「よかった。突然すいません」
恥ずかしげに三度うつむく女性に王は笑みを向けた。
「いや、少し驚いただけだから気にしないで。
よかったらこのままこの地区を出るまで一緒に行こうか」
「あ、ありがとうございます。あの、私エミリーと言います」
「王月陰。その荷物持つよ」
と彼女のかばんに手を伸ばし、その足が何も履いていない事に気づいた。
「パンプスだと走りにくくて」
小さな声で理由を告げるエミリーを、カバンごと王は抱きあげた。
「あ、あの」
うろたえる彼女に
「何が落ちているか判らないだろう、このまま靴屋までいこう」
と言って王は歩きだした。