領内清浄
転移したときから思っていたこと。
いろいろある。
いいことを言えば、イケメン・美女が多い。
彫りが深めで手足の長いモデル体型の人が多い。
俺の感覚では地球のどの民族よりも美形度が高い。
特に貴族階級は美しい容姿の人が多く、まるで絵画から抜け出してきたような人もいる。
あとは、自然豊かで夜空の満天の星がきれいとか。
空気が澄んでいて、天の川まではっきりと見える。
山々は深い緑に覆われ、清らかな川が流れている。
いい面はそのぐらいかな。
悪い面はそれこそ延々と出てくる。
我慢できないのは、まず食事。
料理じゃなくて、素材がまず良くない。
保存技術も未発達で、腐敗を防ぐ方法も限られている。
特に、肉。
半分腐っているのが多く、非常に臭い。
塩漬けにしても完全な保存は難しく、表面が変色している。
その反面、新鮮なのはとても固い。
屠殺直後の肉は筋が多く、調理法も限られている。
主食のパンも美味しくはない。
黒パンとか全粒粉パンだからね。
それに焼き立てじゃない。
数日前に焼いたものを保存して食べることが多い。
特に黒パンはおそろしく固い。
歯が立たないほどの硬さで、まるで石のよう。
お湯や牛乳で煮て食べたりするぐらいだ。
保存食の位置付けが強いからな。
柔らかい白パンは貴族の贅沢品とされている。
次に不満を持ったのは、全体的に空気が臭い。
農村ならば田舎の香水と我慢できなくもない。
牛や羊の糞、堆肥の臭いは農村では当たり前だ。
でも、街なかは洒落にならない。
馬車が頻繁に行き交って馬糞を撒き散らす。
道路は馬糞だらけで、雨が降ると泥濘化する。
人の排泄物とか窓から投げ捨てているレベル。
トイレがないんだ。
臭いというレベルが地球レベルとかけ離れている。
まるで中世ヨーロッパの街並みを再現したかのよう。
俺が領主代理になったからには食事と清潔さは改善していきたい。
食事の改善はちゃくちゃくと進んでいる。
保存技術の向上や、新しい調理法の導入を進めている。
部分的には改善してきているけどね。
大荒野村とか。
そこでは新鮮な野菜や果物が栽培され、品質も向上している。
清潔さについても積極的に推し進めたい。
もちろん、単純に不快であるのだけど、もう一つは衛生上の問題。
こんな不潔な環境ではすぐに疫病が流行るだろう。
ちょっとした傷でもすぐに化膿しそうだ。
実際、子供たちの間で皮膚病が蔓延している。
これは馬鹿にできない問題。
戦争などで兵士たちの主要な死因の一つは病気や感染症と言われている。
戦場での直接的な負傷より、むしろ病気で命を落とす兵士のほうが多い。
第一次大戦の塹壕戦が典型例だよね。
塹壕の中は寒冷、泥水、死体が散乱、多くのネズミ、着たきり雀、身体も洗わず。
壕の中は常に湿気が多く、足元は泥水で浸かっている。
兵士たちは何週間も同じ服を着続け、シラミや疥癬に悩まされた。
犠牲者の全体の三分の一は疾病が死因とされる。
塹壕足と呼ばれる壊疽も多発した。
これが医療技術の劣っていた19世紀だと戦争における大部分の戦死者の死因が病死(戦病死)と言われている。
ナポレオン軍のロシア遠征でも、多くの兵士が寒さと病気で命を落とした。
それだけ不衛生だったわけで、これは街なかでも同様だ。
狭い路地に人々が密集して暮らし、病気が蔓延しやすい環境にある。
傷を受けたらまずは水で洗え、と言われる。
風邪の予防には手洗い・喉のうがいが推奨される。
単純なことだけど、大切なことだ。
これだけでも感染症のリスクは大きく下がる。
以前、鳥インフルエンザなどが流行ったときに、日本のトップクラスの医療従事者が集まって出した予防策。
感染症の専門家たちが何度も会議を重ねて導き出した結論だ。
マスクの着用
ソーシャルディスタンス
手洗い
薬のない時って、これぐらいしかない。
あれだけ医療技術の進歩した現代であっても。
結局は基本的な予防が最も重要なのだ。
コロナの予防策もこれに従ってアナウンスされた。
マスコミ的には不評で検査キットをやたら奨励していたみたいだけど。
感染拡大初期は検査キットの精度も低く、偽陽性・偽陰性も多かった。
検査してどうするつもりだったんだろう。
人のごった返す検査場にわざわざ行くのも謎だ。
そこで感染するリスクのほうが高いのではないか。
しかも治療法が確立されていなかった。
今でも治療法があるのかよくわからない。
対症療法が中心で、特効薬はない。
ワクチンはどうこうと取り沙汰されている。
効果や副反応について様々な議論がある。
まあ、僕はテレビを見なかったからよくわからない。
ネットニュースで必要な情報だけ確認していた。
◇
清掃関係の魔導具はすでに完成している。
効き目も改良を重ねているから、そこそこいい感じになってきた。
最初は効果が弱く、すぐに魔力も切れていたが、今では長時間の使用が可能だ。
・排泄物処理魔導具(排泄物やゴミを分解する)
汚物を魔力で分解し、無害な物質に変える。
悪臭も消し去る効果がある。
・浄化魔導具(体や衣類をきれいにする)
汚れを魔力で分解除去し、清潔な状態に保つ。
シャワーのような効果もある。
・消臭魔導具
悪臭を中和し、さわやかな香りに変える。
空気中の雑菌も除去する効果がある。
この三つが当面の武器だな。
欲を言えば、各家庭にこれらの魔導具があって絶えず清潔にしていてほしい。
理想は全世帯に行き渡らせること。
それは女神教会門前街では実現できている。
ゼロから街を作り上げたから。
計画的に魔導具を配置できた。
でも、例えば領都であるフェーブル街。
人口一万人以上、二千世帯前後がひしめく。
狭い街区に多くの人々が密集して暮らしている。
魔導具の数は一気に揃えられない。
生産能力にも限界がある。
それこそ、十年計画でもできるかどうか。
魔石の調達も課題だ。
公共トイレを作るとか、道路沿いを掃除しまくるとか。
そういうのにも重点を置いた。
まずは公共空間の衛生状態を改善する。
このために清掃員も募集している。
清掃普請だ。
重労働じゃない。
不潔な部分に魔導具を振りかざすだけなのだから。
特別な技術も必要ない。
魔石は自動充填だ。
魔素が切れても別の魔石に取り替えるだけ。
複雑な操作は不要。
報酬は1日八時間三千ギル程度。
一般的な日雇い労働より良い条件だ。
山のように募集が来たよ。
特に貧しい層からの応募が多い。
魔導具の数も限りがあり、管理する人もいる。
今は希望者をローテーションしている。
一週間交代で仕事を回している。
「なんで、オレたちが掃除をしなくちゃいけねえんだよ!」
ジャイニーがいつものように不満そうな声を上げる。
「ジャイニー。指導者自ら率先して範を示す」
俺が諭すように言う。
「それに最近太り気味だって嘆いていたでしょ? ちょうどいい運動じゃないですか」
スキニーがさらに被せてくる。
いつもの会話だ。
「運動なんて、朝晩しっかりと領軍の訓練でしごかれているぞ!」
「まあまあ。それにしても、すぐに効果が出るものだなあ」
俺は街の変化に感心する。
「そうですね、坊ちゃま。始めて一週間。あれだけ臭くて汚れていた街ですが、異臭がなくなってきましたよね」
「ああ、坊ちゃま。ワシにもやらせてもらえんでしょうか」
通りがかりの老人が声をかけてくる。
「え、何。ボランティアの申し込みですか。ああ、ようこそ。スキニー、おまえの貸してやれよ」
「いいですよ」
「何言ってるんだよ。オレの道具だろ! 貸すのって!」
「ジャイニー、すぐさぼろうとする」
こうしてボランティアでもやる、という人が出てきている。
そりゃ清潔なのはすぐにわかるし、気持ちがいいからね。
目に見える形で街がきれいになっていく。
いったん清潔な環境を知ると、もう不潔な状態には戻れない。
快適な生活を実感すると、誰もが清潔さを求めるようになる。
ボランティアを望む人には契約魔法を結んで魔導具を優先的に譲渡している。
使用方法や管理の責任も契約に含まれる。
それがまた好評でボランティア希望者が増えた。
街の清掃活動が住民主体で広がっていく。
中には契約魔法を甘く見て全然ボランティアに励まなかったり、魔導具を売りに出そうとする人もいる。
貴重な魔導具を私物化しようとする輩もいる。
そういうのは契約魔法で阻止されるし、仮にそういう行為をしたら領を追放だ。
契約違反は厳しく罰せられる。
領の追放は半分死刑宣告に近い。
この時代、よそ者は激しく差別される。
特に、村ではそうだ。
生きていくのが極めて困難になる。
村は強い共同体になっている。
ワン・フォー・オールの精神が強い。
それだけ、村というチームプレイが重視される。
村人同士の結びつきが強い。
互いに助け合い、支え合って生きている。
そんな中でよそ者が紛れ込んだら。
村の秩序を乱す存在として警戒される。
下手すると、殺害されるから。
よそ者狩りという言葉もある。
結局、追放者は森や荒野をさまようことになる。
食料も住処もない荒野での生活。
魔物や盗賊の危険もある。
一般人では死にに行くようなものだ。
生き延びられる可能性は極めて低い。




