エレーヌの解呪
エレーヌは捕縛されると、王城の塔の最上階にある独房に幽閉された。
独房は六畳ほどの広さで、小さな窓が一つあるだけの殺風景な空間だった。
「ああ! この悪魔! そばに寄らないで! 近寄るな!」
独房の中で金切り声を上げて喚くエレーヌ。
その矛先は訪れたブランシェに向けられていた。
ブランシェは先日『女神の加護』という神聖な力を授かったばかり。
その加護により、彼女の中に眠っていた神聖魔法の力が目覚め、発現した。
今や彼女は聖なる存在へと昇華を遂げている。
悪魔に魂を蝕まれ、呪いをかけられたエレーヌが彼女を嫌がるのは当然のことだった。
「エレーヌ様。今から、解呪魔法を発動させていただきます」
ブランシェが使おうとしているのは神聖魔法の一つ。
以前、伯爵夫妻の呪いを解くためにシスターが使用した魔法と同じものだ。
ブランシェの持つ聖魔法は、女神の加護により神聖魔法へと進化を遂げていた。
より強力な回復魔法へ、清浄魔法へ、そして治癒魔法へとより高次の魔法へと変貌を遂げたのだ。
今回の目的は呪い返しだ。
エレーヌに呪いをかけた悪魔は、マルコシアスよりもさらに上位に位置する存在だという。
そのため、単純に呪いを解くのは非常に困難を極める。
しかし、呪い返しは元の呪いの倍の威力となって返る。
それは全身を焼き尽くすような激しい苦痛となって悪魔を襲うことになる。
さらに、ブランシェの隣にはシスターが控えていた。
人目を避けるように、ひっそりとその場に佇んでいる。
真実教会的にあまり表に出たくないのだ。
無論、その目的はブランシェの解呪魔法を増幅させるためにいる。
この世界でおそらく二人しか持ち得ていない神聖魔法の力を、同時にエレーヌ―つまりその背景にいる悪魔に対して放つのだ。
嫌がる悪魔は必死に抵抗し、解呪を試みる二人に襲いかかってくる。
しかし、そうなれば二人の思う壺だ。
二人は女神の加護という強力な守護に包まれている。
さらに周囲には数匹の黒猫が配置され、結界を張っている。
この布陣で、悪魔に勝ち目などあるはずもない。
数日に渡る解呪の結果、エレーヌの周りを覆っていた禍々しい気配が徐々に薄れていった。
悪魔そのものを討伐するまでには至らなかったものの、少なくとも悪魔は逃亡を余儀なくされたようだ。
だが、これで全てが終わったわけではない。
エレーヌの魂には依然として呪いの残滓が刻み込まれたままだ。
これを完全に浄化する必要がある。
「エレーヌ様。今から、リジェネを発動させていただきます」
「リジェネ!」「ぎゃああああ!」
リジェネは通常の人間に対しては、徐々に体力を回復させる継続回復魔法である。
しかし、それを悪魔的な存在に対して使用すると、全く逆の効果を発揮する。
全身の肉が引き裂かれるような激痛となって襲いかかるのだ。
とはいえ、この行為は対象者の魂を浄化し、救済するための必要な過程だ。
決して憎しみや恨みといった感情から行われるものではない。
「エレーヌはんが悪魔に選ばれた理由でっか? 彼女は転生者でっしゃろ? 転生者は並外れた精神力を持っておりますからな」
俺はこの騒動でエレーヌが俺と同じ転生者であることを知った。
だから、マルコシアスには俺も転生者である旨を伝えてあった。
最近、マルコシアスは頻繁に俺の影に潜んでいることが多い。
様々な場面で重宝する存在となっているのだ。
もっとも、俺の影に常駐している黒猫に厳重な監視を行わせているのだが。
さすがに手放しでマルコシアスを信用するわけにはいかない。
「俺も転生者なのだが」
「あんさんは性格はともかく、人に害をなすような存在やおまへん」
「性格はともかくとは何だ」
「まあ、あんさんには色々と問題がありそうってことですな。ただ、あんさんの根底には人を傷つけようという意図は微塵もおまへんのや。一方、エレーヌはんはな、人生の半分以上を人を恨み続けることで過ごしてきたお方なんや。そりゃ、悪魔にとっては格好の餌食になりまっせ」
「では聞くが、伯爵夫妻もエレーヌと同じような存在だったのか?」
「ああ、あれはな、エレーヌはんとは正反対や。純粋すぎる存在やからこそ、つけ込みやすい。幸せに包まれている彼らを不幸のどん底に突き落とすのは、悪魔にとっては最高の御馳走なんやな」
「ふむ。なんだか、もう一度お前を叩きのめしてやりたい気分になってきたぞ」
「堪忍してーな。どんだけワテがしんどかったか。2年やで、2年。ずーっと煉獄の炎に焼かれとったんや。気絶もできんと。ずーっと正気のまま。あれこそ、悪魔の所業やで」
「う、うむ。では、俺くらいがちょうどよい存在というわけか」
「そうですな。あんさんはそもそも精神力が高うおます。適度に人も悪うおましたからな」
「人が悪いだと?」
「悪人って意味やおまへん。適度に人の世に揉まれとった、ちゅう意味や」
ううむ。
これは褒め言葉として受け取るべきなのだろうか。
どうにも釈然としない気分だ。
◇
さて、この一件で評価が急上昇したのがブランシェである。
もともと完璧な淑女として「ミス・パーフェクト」というような二つ名で呼ばれていた彼女。
この事件で王国中枢部も面目を失っていた事情もあり、ブランシェに聖女の称号を授与することが決定された。
何しろ、彼女は上級聖魔法の使い手である。
それが今や神聖魔法の使い手にまで成長を遂げたのだ。
神聖魔法は真実教会のみが所有していると、真実教会自身が主張している。
しかし、それが単なる聖魔法の一種に過ぎないことは、王国の支配者層には既に知れ渡っている。
一方、ブランシェが授かった魔法は紛れもない正統な神聖魔法だ。
事実、悪魔の呪いを跳ね返し、さらにリジェネまで発動させたのだ。
呪い返しにせよ、リジェネにせよ、それらは伝説級の神聖魔法として知られている。
それはつまり天界と交信できる存在であるということだ。
シスターもこれらの魔法を使用できる。
しかし、極力表立った行動は控えている。
真実教会が何を企むか分からないからだ。
王国内では強力な後ろ盾を持たない身なのだから。
一方、ブランシェは紛れもない王国公爵家の長女。
「ブランシェ、ごめんね。あれ、ノーカン。また昔のように二人一緒にいられるね」
第1王子はこのような内容を、もう少し洗練された言葉でブランシェに語りかけたという。
嬉々とした表情で。
天真爛漫な笑みを浮かべながら。
しかも、大勢の人々が見守る中で。
周囲が呆れ果てるのにも気づかず。
「申し訳ございませんが、私は二人の婚約は既に破棄されたものと認識しております」
「え? そんなはずはないだろう?」
「いいえ、私は公爵家を勘当された身。貴方様とは身分があまりにもかけ離れております」
「いや、勘当は解かれると聞いている。それに何より、僕達は強い愛情で結ばれていただろう?」
「愛情、ですか? 第1王子様。私はあの婚約に対して、愛情など微塵も抱いておりませんでした。あったのは、将来の国母としての責任感のみです」
「え? えぇ? 責任感だけ? 愛情はないのか?」
「はい。これっぽっちも。ミジンコほどの愛情もございませんでした」
これは、周囲で会話を聞いていた人々が後に脚色して広めた言葉だ。
ミジンコの部分はそれに類する微小な生物という意味である。
ブランシェが実際に発した言葉もほぼ同じニュアンスだったという。
結局のところ、このような笑い話とともに聖女認定はブランシェ本人が固辞した。
単なる聖女認定だけでも重要な案件なのに、王国はさらに聖女としての特別な権限と特権をブランシェに付与し、専用の聖堂まで建設して、そこで聖女として活動してもらおうと提案したのだ。
王国中枢部は完全に舞い上がっていた。
「そのようなものは御免こうむります」
これもまた、ブランシェが実際に使用した言葉ではない。
ただし、貴族の子女としてはあり得ないような強い口調で、聖女認定および付随する一切の提案を断固として拒否したという。
「そもそも、王国に尽くす余裕など微塵もございません。フェーブル領の政務をこなすので精一杯なのです」
ブランシェの心は既に完全に王国から離れていた。
彼女はフェーブル領に来て初めて、真の自由を、自分で決定を下すことの意味を、そして本物の責任というものを理解したのだ。
言わば黄金の鳥籠の中で生きてきたブランシェにとって、フェーブル領での日々は新鮮そのものだった。
既に王国の至宝として認識されていたブランシェに対し、彼女の意思を覆せる者は王国中枢部には誰一人としていなかった。
公爵家に対しては、王国は様々な形で補償を行った。
公爵家への正式な謝罪に加えて:
- 多額の賠償金の支払い
- 新たな領地の追加付与
- 特別な商業権の認可
- 王室との関係修復のための諸施策
といった具合である。
また、エレーヌに操られていたとはいえ、当事者である第1王子には厳格な処分が下された。
廃嫡処分という重い決定がなされたのだ。
- 王位継承権の完全剥奪
- 所有財産の全面没収
- 国内辺境地域への永久追放
- 王子の称号を含む全ての称号の剥奪
などの処分である。
王子の側近たちも同様に、それに準ずる厳しい処分を受けることとなった。
当然ながら、第1王子の母である第1王妃は猛烈な抵抗を試みた。
しかし、その訴えはほとんど顧みられることはなかった。
その背景には、第1王妃の実家であるバレール侯爵家の急速な没落があった。
公爵家の商売は順風満帆どころか、驚異的な発展を遂げていた。
公爵家との取引関係がなければ商売が成り立たないとまで言われるほどだった。
それと反比例するように、商売敵たちは次々と経営難に陥っていった。
特に公爵家と商品が競合していたバレール侯爵家の没落ぶりは目を見張るものがあった。
ほぼ全ての貿易品目において売り上げが激減したのだ。
価格が割高な上に、品質面でも見劣りしていたからだ。
公爵家は、輸入元と直接転移魔法陣を結び、商品を直接輸入する体制を確立していた。
船舶を使用し、危険な海路を何ヶ月もかけて運ぶような旧来の商人たちが太刀打ちできるはずもなかった。
◇
「閣下、商売の方も順調のようですね」
「ああ、これも全てレナルド君、君のお陰だよ」
俺はブランシェと共に公爵邸を訪問していた。
様々な事後報告を行う必要があったからだ。
「それでね、ブランシェを巡って周囲が異様な盛り上がりを見せているんだよ」
「ああ、フェーブル領でも同じ状況です。ブランシェに一目お会いしたいと、大勢の領民が熱望しております」
「それでね、ちょっと困った事態も発生していてね」
「はあ」
公爵は山のような書類の束を、ドンと机の上に置いた。
「これは全て、ブランシェに届いた釣書の一部なんだ」
釣書――結婚を前提とした自己紹介状である。
王国中はおろか、国外からも大量の釣書が殺到しているという。
「ところで、どうかね、レナルド君。私の娘」
「え、どうか、とおっしゃいますと」
「将来を誓い合うというのは」
「え」「お父様!」
このような微妙な話題を、ブランシェがその場にいる状況で切り出されるとは。
「是非とも、お願い申し上げます!」
俺は反射的に立ち上がり、即座に返答していた。
90度に頭を下げながら。
考える時間など必要なかった。
これ以上の相手など存在するはずがない。
いや、比較すること自体が無意味なほどの、唯一無二の存在なのだ。
ブランシェの頭越しになされたこの会話。
幸いにもブランシェも頬を赤く染めるだけで異存はなさそうだった。
こうして、俺たちは晴れて婚約することとなった。