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脳震盪のような気持ち悪さに耐えながら、前に立つ人物を見上げる。
「…慣れません、呼び戻されるのは」
久しぶりに会ったタドラ大司教は、私のことを一瞥し
「よく戻った」
と抑揚のない声を出した。
彼は初老の、私の上司たる人物だった。
「もう、呼び戻していただけないかと」
「魔王が近くに居ただろう。それでは呼び戻せないからな」
大教会は、神聖力の高い人間を、強制的に『呼び戻す』ことが出来る。
それは、聖女による神聖力譲渡と並び、神が人間に与えた術式の一つであった。
魔王に攫われてすぐの頃は、これで帰れるかもなどと期待したものだ。
しかし一向にお呼びがかからなかったので、てっきり魔界で頑張れということかと思っていた。
「まぁ、いい思いをしてたみたいじゃないか」
私の服を見て言っているのか、魔界での扱いを知った上で言っているのかわからないが、嫌味であることは確かだろう。
彼の態度には慣れたもので、今更気になるものではない。
だがしかし、妙に甘い、この大司教室の匂いが気にかかった。
「…聖女様の結婚式は無事に終わりましたか?」
「あぁ、終わった」
聖女様のウェディングドレス姿が目に浮かぶ。
さぞ美しかったことだろう。
「それでは、神聖力の受け渡しも無事に?」
神聖力の受け渡しは、結婚式のすぐ後に行われるのが通例であった。
「いや。それは、まだだ」
「え?」
タドラ大司教と目が合った。
見慣れたその顔に、何故かぞっとした。
「お前がいないんじゃ、出来ないだろう」
「は?」
「なんで」という言葉が口から出る前に、体の違和感に気付いた。
動きにくい?
いや、もうほとんど動かない。
そういえば私はどうして地面に転がったままなのか。
「今は、お前が聖女なんだから」
タドラ大司教が、笑った。
見たことのないその笑顔に、私はますます混乱した。
私が聖女?
すっかり重い口で辛うじて、「どういうことですか」と言葉を絞り出す。
「今この世界で、最も高い神聖力を持っているのはお前だ。アメリアを聖女にするためには、お前から神聖力を奪う必要がある。魔王がそれを知っていたかは知らんが」
タドラ大司教は何を言っているのか。
体だけでなく、私の頭もちっとも動かなかった。
「歴代の聖女を考えれば、驚くことも無いだろう。ただの女を聖女にしたところで、民衆も喜ばんし、教会も潤わん。聖女の候補に貴族がいるなら、そっちに回すさ」
回す?
どうやって?
タドラ大司教が、ゆっくりと近づいて来た。
もちろん私の体が、そして口が、もう動かないことを知っているのだろう。
それに対して私が出来ることは、ただ恐怖を噛み殺し、男を睨むことだけであった。
「結婚式が終われば、あっちで始末されると思っていたんだがな。まぁ戻ってきたなら戻ってきたでいいさ。聖女のまま死なれて、資格の引継ぎが上手くいかんと厄介だからな」
タドラ大司教は、珍しくよく喋った。
こちらはもう、うんともすんとも言えないのに。
間近に迫る男の手に、小さいガラス容器が握られていることに気がついた。
中には赤黒い液体が入っている。
「これを飲めば、お前の神聖力は消失する」
タドラ大司教の片手が、私の頬を掴んだ。
そして、小さく開かれた私の口に、試験管の中身が注がれる。
「ご苦労だったな」
そう言ってタドラ大司教が歪に笑ったとき、腐った錆を思わせる醜悪な臭いが鼻腔に拡がった。
それに吐き気を催す間も無く、液体の触れた腔内に猛烈な痛みと熱さを感じる。
直に、私は意識を、手放した。




