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澄みきった冷たい光に包まれ、遠くに小鳥のさえずりを聞く。
そこにハーブティーの香りが緩々と立ち込む理想的な朝を、私は今日も、難なく迎えた。
ここ、魔王城で。
「今日は魔王様、夜までお出掛けだそうです」
豪華な鏡台の鏡に、アシナの残念そうな顔が映る。
陶器のような白い肌に、ラムネ色の目をした彼女は、私にあてがわれた専属メイドの内の一人であった。
「それは…残念ね」
残念なのは、嘘ではない。
魔王が居なければ、私はこの部屋から出ることを許されないからだ。
とは言うものの、ここで豪華な調度品に囲まれながら過ごす一日に、なんの不満も無い。
「でも、今日もとびっきり可愛い髪型にしましょうね!聖女さま♡」
アシナが櫛を片手に意気込む。
それに私は、笑顔で応えた。
心の中で、『聖女じゃないんだけど』と断りを入れながら。
私が魔王城に囚われたのは、今から十日程前のことであった。
聖女を攫ってきたつもりだろうが、私は聖女ではない。
元聖女候補、今は聖女様の替玉だ。
貴族のご令嬢たる聖女様とは、姿形も全く違う。
リスのような髪色に、暗い色の目をした私とは、似ても似つかないお方である。
そのため、連れて来られたのが私で良かったという話なのだが、私にはまだ、やらなければならないことがある。
それは、三日後に迫った聖女様の結婚式までバレずに偽物聖女を続けることと、
「あっ、そうだ!聖女さま、魔王様のためにハンカチに刺繍しませんか?魔王様、きっとお喜びになられます!」
「ワァ、ステキー」
そのために、人間の宿敵たる魔王からの溺愛を受け入れることだ。
「それでは刺繍セットをお持ちします!」
アシナが、私の棒読みに鈍感で助かる。
魔王と私の仲を疑うことのない彼女は、嬉々として部屋を後にした。
この世界には、神聖力の最も高い女性だけが使える、特別な術式が存在する。
それは、神に選ばれた勇者に、自らの持つ神聖力を譲り渡すこと。
この特別な役割への敬意をこめ、我々はその女性のことを『聖女』と呼ぶ。
聖女は、『勇者との結婚』に伴い、その術式を使う。
これにより力を得た勇者が、魔王を討ち滅ぼす。
魔王の出現周期と整合した、百年周期で繰り返されるこの英雄譚。
これを魔王は止めようとしている。
それで聖女を攫ったのだ。
しかし、囚われた聖女が取るべき行動は決まっている。
それは自らが死を選び、次いで神聖力の高い女性に、聖女の資格を譲ること。
つまり魔王は、折角攫ってきた聖女が死なないように、何らか策を講じる必要がある。
緊縛するだの、昏睡させるだの方法は色々とあるだろうが、それはそれは優しい魔王は、聖女をドロドロに甘やかすことにしたらしい。
こちらに連れてこられてからというもの、移動の自由こそ無いが、華美なものに囲まれ、美味しいものを食べ、さらになんと魔王『さま』から愛されるという恵まれすぎた生活を強いられている。
それに対して偽物聖女たる私には、聖女の義務を果たすことなく生き続ける理由が必要であった。
そうするともう、魔王からの溺愛を受け入れるしか道はない。
「魔王のことを好きになってしまったので死にません♡」という、頭お花畑な聖女を演じる他なかったのだ。
「どんな図柄を刺繍されますか?」
色鮮やかな何色もの刺繍糸に、大小様々な金の刺繍針。
アシナの持ってきたアンティーク調の刺繍セットは、明らかに私の腕前に見合っていない。
「ここではどんなモチーフが一般的なの?」
「うーん、動物やお花を刺繍することが多いですかね。あとはイニシャルとか…」
馴染みのある図案が聞けて安心する。
「それなら、動物にしようかしら」
「あ、聖女さま」
アシナから声を掛けられ、刺繍糸を物色していた手を止める。
「まず、ハンカチに一滴、血を垂らしていただかないと」
「えっ、血?」
「はい、血」
なにそれ怖い。
「魔族にとって血は、色々と特別な意味があるんですよ。血の染みの上に刺繍をしたハンカチは、恋人へのポピュラーな贈り物です♡」
「そ、そう。でも私、魔族じゃなくて人間なんだけど、その、いいのかな」
「まぁ!人間であることを卑下なさる必要はございません!」
いや、卑下したつもりはないんだけど。
そんなこちらの気も知らず、アシナは私の手を取りながら
「魔界では、魔族も人間も平等です。種族の違いが、恋の障害となることはありません!」
と語気を強めた。
たしかに魔界では、種族による差別は無いようだ。
魔王城で働く人間もいるそうで驚く。
一方、人間界で暮らす魔族などというものはおよそ聞いたことがない。
魔族は『人』だが、神を信仰するか否かという点において、人間と敵対する種族だと理解されているからだ。
ただし、人間と魔族の外見的な差はほとんど無い。
魔族の方が、肌や目、髪の色のバリエーションが豊かという程度である。
そのため、人間のふりをして人間界で生活している魔族が居てもおかしくはないのだが少なくとも、魔族が魔族として人間界の市民権を得るということは不可能であった。
いずれにせよ、業に入っては業に従えである。
アシナの見守る中、私は手近な刺繍針で、自分の人差し指をプツリと刺した。
かすかな痛みを伴って、指先に血が滲む。
そこにハンカチを押し当てると、布地に小さな赤い染みが出来た。
「聖女さま、絆創膏を」
「あ、ありがとう。でも大丈夫」
差し出された絆創膏を、手でやんわりと断る。
傷口はもう塞がっていた。
高い神聖力があれば、そこそこの怪我はすぐに治る。
さて、それじゃあ刺繍に取りかかるとしよう。
忌々しい魔王を騙し抜くために。
私が選んだのは黒い刺繍糸だった。
アシナに「素晴らしいカラス」だと絶賛された黒猫の刺繍は、ハンカチの隅っこに小さく収まった。
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