青い絵本を探しています
「青い絵本を探してるんです」
声の主人は私。
自分の声が耳に入るのとほぼ同時に、視界がゆっくりと広がっていく。私の目の前には大きな本棚があり、見上げてもてっぺんが見えない。右を見ても本棚、左を見ても本棚、私は田舎のコンビニの駐車場ほどの広さの空間で、大きな大きな本棚に囲まれていた。
「青い絵本を探してるんです」
声の主人は私。
私の意思に関係なく、再び勝手に口が動く。誰に言っているんだろう。私以外に誰もいないのに。木製の床、顔を上げてもどこまでも続く本棚しか見えないのに何故か明るい空間。これはきっと夢なんだろうと思いながら、私はとりあえず目の前の本棚に近づいてみる。
「コレ、エラブホウガイイ」
私が本棚に並ぶ本の背表紙を見ていこうとした時、後ろからカタコトの日本語が聞こえた。どこか可愛らしさを感じる男の声に、夢だからなのか、私は何故か驚くこともなく振り向くことができた。
「コレ、オススメ」
私の頭ぐらいの高さの所に、白い綿雲のようなものに乗ったおじさんがいた。頭にはターバンを巻き、あごには長い髭をたくわえている。インド映画に詳しくないけれど、インド映画に出てきそうな異国感溢れるおじさんは、つぶらな瞳で私に一冊の本を差し出してくる。彼が持つ、真っ白の単行本サイズの本は、何だか神聖なもののような気がした。
「これは何の本なの?」
「クマーラ、オススメノホン」
「あなたはクマーラさん?」
「ソウ、オレハ、クマーラ」
「そう、でも、私は青い絵本を探しているの」
謎の空間に謎の男と二人っきり、現実世界なら緊張する場面だが、夢だとわかっているから何も焦りを感じない。そんなことより、私は差し出された本を断っている自分に驚いた。普段なら押しに弱いのに、いつもより凛としている自分がいる。
「ソウカー、クマーラ、ザンネン」
「ごめんね、クマーラ」
このおじさん、一人称がクマーラらしい。いつもならあざとく感じると思うのだけど、今は素直に可愛く思えた。
「アナタ、ホン、ヒトツエラベル。スキナノ、モッテカエル」
「そう、ありがとう」
私はこの空間のルールを説明してくれたクマーラに礼を言うと、ゆっくりと本棚を眺めることにした。
気になる本がたくさんあった。
漢字検定のテキスト、地図帳、料理本、本屋でよく見る話題の小説、アニメ化される原作漫画等が無秩序に並ぶ中、興味深いタイトルが、時折私の目に飛び込んでくる。
市場崩壊までの高騰暴落銘柄リスト、宝くじの当選番号、競馬・競艇の結果表、世界の埋蔵金マップ、消滅する国家リスト。読めば大金を手にしたり、リスクを回避できそうな本。
敗者の歴史、一眼レフで撮影した恐竜図鑑、宗教ビジネスで儲けている人物リスト、都市伝説の真実、冤罪事件の真相ファイル。読む前と後で世界の見方が変わりそうな本。
5秒でわかる地球史、5秒でわかるミレニアム懸賞、5秒でわかる相対性理論、5秒でわかるフェルマーの最終定理、5秒でわかるきのこたけのこ戦争の勝者。どんなことでも5秒でわかるという『5秒でわかるシリーズ』。5秒でわかるというタイトルに反して、どの本も広辞苑よりも分厚い。なかでもきのこたけのこ戦争の本が一番厚い。
これらの本はどれも著者名が文字化けしていて、誰が書いたのかは読み取れない。どの本も手にとって読んでみたいと思い手を伸ばそうとするのだけれど、何となくそれはいけないことのような気がして、私は一冊も手に取ることができないでいる。
「コレ、オススメノホン」
大きな文字で『初版本』と書かれた帯が巻いてある、アダム・スミスの国富論を手に取りかけた時、後ろからクマーラの声がした。
「コノホン、ソレヨリオススメ」
私が振り向くと、キラキラと目を輝かせたクマーラが、2人掛けソファーサイズの雲の上から、また真っ白な本をこちらに差し出してきている。
「そうなの。でも、私は青い絵本を探してるの」
「ソウカー、クマーラ、ザンネン」
「ごめんね」
私はクマーラに謝ってから、国富論を手にすることなく、再び本棚の前を歩き始めた。
枕草子、源氏物語のコーナーの前を、こんな本の初版本まであるのかと驚きながらゆっくりと通り過ぎ、グーテンベルク聖書、学問のすゝめ、解体新書の初版本を見てもあまり驚かなくなり、私の感覚が完全に麻痺してからしばらく歩いた後、思わず立ち止まらずにはいられないタイトルが並ぶエリアに辿り着いた。
『本田沙耶の過去』
『本田沙耶の現在』
『本田沙耶の未来』
本棚に私の名前が書かれた本があったのだ。よくある単行本サイズの背表紙、でも、どの本も作者名は書かれていない。過去の本は爽やかな青い色のデザインなのに、現在はかなりくすんだ紺色。未来にいたっては油汚れのような清潔感のない黒い色をしている。私の未来、この背表紙は一体どんな未来を表しているんだろう。私は気になりこの空間で初めて迷わず本棚に手を伸ばした。
「クマーラ、ソレ、オススメシナイ」
私の右手の人差し指が本の背に触れかけた時、後ろから声がした。私はそれを聞いて思わず手を止め、それから振り向いて宙に浮かぶ彼を見た。彼は真剣な目をして私を見ていた。
「ソレ、ノット、ブルー」
「確かに青くはないわね。でも、私の未来が書いてあるみたいなんだけど」
「ソレ、イマ、オススメシナイ」
「どういうこと?」
「ソレ、ノット、ブルー」
青くない。私の未来は青くない。何故か『青くない』と言われたことが、焼き魚の小骨のように引っかかる。激痛ではない。でも、すごく気になる引っかかり。
そもそも、私はどうして青い絵本を探していたんだろう? 青い色は好きだ。でも、青い絵本なんて心当たりがない。動物が出てくるとか、昔話だとか、内容ではなく色の情報がない。そんな本に心当たりなんて……
……あった。
それがいつだかはもう思い出せない。でも、強烈な青のインパクトを感じた本を見た記憶がある。それは絵本じゃなく、写真集だった。地球上の最も美しい青をコンセプトにした写真集で、幻想的な海の中の景色や、ヨーロッパの美しい街並み、光り輝く青い洞窟など、ページをめくる度に思わずため息が出てしまうような美しい写真が掲載されている。
そうだ、あれは就職活動を始める前の頃だ。青くて美しい写真集を見て、私はこの本に載る全ての場所に行きたくなり、その夢を叶えるために働いてお金を貯めようと思ったんだ。目標金額は正直なところ目を背けたくなるような金額だったけれど、いつか必ず実現してやる、私はそのことばかり考えて働き始めた。なのに、今の私はどうだろう?
社会人として10年ほど働いて、何か手に入れられただろうか。特に目標もなく、ただ目の前の仕事を淡々とこなして成果を上げる。上司のご機嫌伺いをして、早く出世できたらいいなぁなんて考える日々。ああ、なんて味気ない毎日だろう。
もう一度本棚を見ると、くすんだ現在の私の本は、たしかに今の私の毎日にぴったりな色だった。ということは、この未来の色は……
「コレ、オススメノホン」
私の心が音を立てて折れかけた時、明るい声が後ろから聞こえた。声の主は絶対にクマーラ。彼が手にする本もきっとさっきと同じだろう。
「ホワイト」
彼の明るい声を聞いた途端、魔法の呪文のように私の心の中のもやもやがすっと晴れた。ホワイト。そうだ、彼の持つ本は真っ白だった。
「コレ、ブルー、デキル」
クマーラのその一言で、私の中の何かが吹っ切れた。私が振り返ると「ダカラ、クマーラ、オススメシタ」とにっこり笑いながら彼は言った。
「そうね、クマーラは最初からその本をおすすめしてくれていたわね」
「ソウ、コレ、オススメ」
彼と私は顔を見合わせ、くすくすと笑った。笑いながら私は選ぶ本を決めた。
「私、これにするわ」
「ソウ、ソレハイイネ」
クマーラはそう言って私に本を渡してくれた。真っ白な本を受け取った瞬間、そこで私の視界は突然真っ白な光に包まれ、ぷつりと意識が途切れた。
アラームが聞こえる。
スマートフォンから大音量で流れる黒電話の通知音。黒電話を使ったことはないけれど、アラーム機能を使い始めた頃から通知音はずっと黒電話の音にしている。この音だと何となく目がバチっと覚めるのだ。鳴り続けるアラームを止めて私はむくりと起き上がる。
変な夢を見た。自分でもそう思う。誰よ、クマーラって。雲に乗って浮いてたし。私は疲れているのかもしれない。そんなことを考えながら目をこすると手が濡れた。少しじゃなく、しっかりと指が濡れている。どうやら私は寝ながらかなり泣いていたみたいだ。
「もしかしてストレスをためこんでるのかも……」
不安になり、思わず大きな独り言が出た。朝日によって薄らと明るくなった一人暮らしの部屋に独り言が寂しく響く。
パタン
ベッドの側で何かが倒れるような乾いた音がした。ベッドから降りてみると一冊の真っ白な本が落ちていた。買った覚えはない。でも、見覚えのある白い本だった。
そっと手に取り、パラパラとページをめくってみる。本はどのページも真っ白で、ページ番号すらなかった。
「ホワイトって言ってたけど、これは真っ白すぎじゃない?」
また独り言が出た。でも、今度は寂しくなかった。これがおすすめの本と言ったクマーラを思い出すと、何故だか温かい気持ちになった。
真っ白だとわかりつつも、本を閉じるのが惜しくて、私は丁寧にページをめくり続けた。最後のページめくった時、私は驚いた。最後のページの真ん中に文字が書かれていたのだ。
書かれている文字を読み、私は思わず吹き出し、そしてそのまま声を上げて笑った。普段一人で笑ったりしないのに我慢ができなかった。ひとしきり笑って、心が更に温まった私は今日から頑張ろうと決意した。頑張るとはいっても、さて、何から始めよう。それから考えなくちゃいけない。
「ありがとう、クマーラ」
彼に届くかわからないけれど、私は声に出してお礼を言った。
クマーラからもらった真っ白な本。その最後のページには拙い文字で、私が学生時代に憧れた美しい青の写真集の名前と出版社名が書かれていた。そしてその下に小さくこう書かれていたのだ。
『コレ、オススメノホン』