37.香子先輩は遠距離恋愛をしている
「このダンボールどうしますか? 中身は食器みたいですけど」
「キッチンのところへ運んでおいて」
3月になった。
香子先輩は無事に高校を卒業して、来月からは特待生としての大学生活が始まる。
ここはその大学の近くのアパート。先輩の引っ越しを手伝っているところだ。
「わかりました」
中身ががちゃがちゃと音を立てるダンボールを静かに運んで、そっと床に下ろす。
「そっちはどうですか?」
ルーターの説明書とにらめっこしている香子先輩に尋ねると、
「Wi-Fiの設定がよくわからないから見てくれないかしら」
「別に後でもいいんじゃ……」
「ダメよ、ビデオ通話ってデータ量が多いんだから、きちんと設定しておかないと余計なお金を取られるでしょ」
そんなことを考えているとは思わなかった。
金銭感覚がしっかりしている、という新しい一面を知って、得をした気分になる。
「じゃあそのときは普通の電話でも」
「キミの顔を見ながら話がしたいのよ」
「あっ……」かわいい「はい、それは僕もです」
僕は素直にWi-Fiの設定に取り掛かる。
調子が悪いのではなく、コードが外れていただけだった。
「他につなぎ方がわからない電化製品はないですか? 僕がいるときに全部済ませておかないと……」
「それはわたしを機械音痴だと言ってるのかしら」
「頼れる彼氏を演じたいだけです」
「そう」
ジトッとした視線を向けられること数秒。
「じゃあ次はそっちのダンボールをお願い」
「衣類2って書いてますけど、クローゼットの方へ動かしますか?」
「ああ、それね、そこで開けたい?」
「なんで僕に聞くんですか」
「中身、下着だから」
「はい?」
「わたしだと思って、ひとつくらい持って帰ってもいいのよ」
得意げなニヤニヤ笑いを浮かべつつそんなことを言う香子先輩。
だけど、この手の際どい揶揄いをするときは、もう少し赤面を抑えてほしい。
じゃないと、却って挑発に乗ってしまいそうになる。
「……先輩。〝モノより思い出〟って言うじゃないですか」
「……島津君?」
「しばらく会えなくなるわけだし、僕としては思い出がほしいんですよね」
低い声でつぶやきつつ、一歩一歩にじり寄っていく。
「えっ? ちょ、ちょっと、待って……」
制止の声はか細く、押しのけようとする力は弱々しい。
壁際に追い詰めた先輩の両肩に手を伸ばして――
「――ぐあっ!?」
頭頂部に衝撃があった。
香子先輩はいつの間にか抜け出していて、身を守るように体の前で腕を交差させている。その手の形からして、どうやら手刀を食らわされたようだ。なんという敏捷性。
「――あ、アウトよアウト! アンスポーツマンライクファウル!!」
調子に乗りすぎてしまったらしい。
「……すいません」
頭をさすりながら謝ると、香子先輩はため息をつく。
「昼間っから盛らないの。もうすぐお母さんたちが来るんだし……」
「……ああ、そういえば」
「この前だって大変だったんだから、やることやったあとはちゃんと換気しなさいって、しばらくからかわれて……」
何か恥ずかしいことを思い出したのか、顔を真っ赤にしている。
「ホントすいません……」
「学生なんだから清い交際を、ってお父さんにも言われたでしょ」
その言葉で、年始に一度だけ顔を合わせた香子先輩のお父さんを思い出す。紳士的というかインテリヤクザというか、笑顔なのに目は笑っていない、妙な圧のある人だった。そのときに確信したものだ。香子先輩は間違いなくお父さん似だと。
「別に本当に清くある必要はないけど、少なくともそう見えるように振る舞わないと。キミとのことをあんまりとやかく言われたくないし……」
香子先輩はそこで言葉を切ると、軽快な歩調で飛び込んできてキスをした。
「――だから、今はここまで。続きは二人が帰ったあとでね」
「先輩……」
「その顔、アレンのおあずけを解いたときとおんなじ!」
くすくすと香子先輩が笑う。
犬と同列にされた複雑な気分も、その笑顔を見ているとどうでもよくなり、こちらもつられて笑ってしまう。
――二人して、新しい部屋に笑い声を響かせながら。
自分は今、間違いなく幸せだと思う。
だけどこの幸せは、ずっと続くものではない。
山もあれば谷もあり、晴れの日があれば雨の日もある。
手の届く距離にいたときでさえ、そうだったのだ。
今までの生活を続ける僕と。
知らない街で暮らす香子先輩と。
離れた距離が引き起こす、苦労もきっとあるだろう。
それでも僕たちはこの関係を選んだ。
互いを隔てる距離よりも、大切なものがあるから。
「どうしたの? 急に真面目な顔になって」
「頑張らないと、って思っただけです」
「そうね、お互いに」
だから僕たちは遠距離恋愛をしている。
「次はわたしから会いに行くから」
というわけでこれにて完結です。
無茶苦茶かわいい猫系先輩ヒロインを書けて満足しています。
作者の脳内の香子先輩をどれくらい再現できたのかはわかりませんが、読者の皆様にもかわいいと思っていただけたならうれしい限りです。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
皆様が費やした時間のぶん、お楽しみいただけたら幸いです。




