33.香子先輩の決断
「特、待生……?」
風子さんの言っていることがわからなかった。
特待生。それも県外の大学から。
言葉の意味はわかっていても、頭が理解を拒んでいた。
「初耳っていう反応ね。あなたの態度や二人の様子を見させてもらって、もしやと思ったんだけど」
風子さんはため息をついて、苦笑いを浮かべた。
それで風子さんからの圧は和らいだのだが、今度は僕と香子先輩の緊張によって、この場の空気は張り詰めたままだ。
「……あとは二人の問題だから。あまり時間はないけれど、よく話し合ってね。それじゃあ島津君、気をつけて帰りなさい」
どうにかうなずきを返すと、風子さんはいたわるような眼差しを残して、奥の部屋へと引っ込んでいった。
「――香子先輩」
振り向いて呼びかけると、香子先輩は叱られた子供みたいに肩を震わせる。
「えっ……、と、その、お母さんの言ったことは」
怯えたようなその態度にも、今は気づかう余裕がない。
「……途中まで、送ってくれませんか?」
二人で夜道を歩くのは、あの夏祭りの夜以来だった。
日が沈んでも温度が下がらない熱帯夜は相変わらずだが、僕たちのあいだの雰囲気は大きく変わってしまっていた。こちらの顔色をうかがうような香子先輩。あえてそれを気にかけない僕。
「スポーツ特待生ってかなり好待遇のやつですよね。学費とか受験料とか、他にもいろいろ免除される……」
「ええ、そうよ」
話を持ちかけてきたという大学は、バスケットをしている高校生なら誰でも知っていて、そして憧れるような強豪だった。インターハイでのプレーがスカウトの目に留まったということだろう。
「すごいじゃないですか、なんで言ってくれなかったんですか」
「キミがそういう反応をするってわかってたからよ」
「そういう反応?」
「すごいですね、おめでとうございます、がんばってください――っていう、わたしが話を受けることが決まってるみたいな反応よ」
「え……、受けないんですか?」
「だって、また遠恋になるじゃない……」
拗ねたような口調の裏には、運命を呪うような沈痛な響きがあった。
それを言われると、僕も言葉に詰まってしまう。
香子先輩は遠距離恋愛の経験者だ。距離とともにお互いの心も離れてしまい、相手の浮気によって破局。遠距離恋愛の悪いところばかりを知ってしまっている。
そのネガティブな経験を覆すだけの、説得力のある言葉を僕は持っていない。
それに何より、僕だって香子先輩と離ればなれになりたくはない。
だが――
「それでも僕は、受けた方がいいと思います」
香子先輩の表情がさらに沈むが、かまわず説得を続ける。
「特待生っていう話のすごさもそうですけど……、先輩が今までバスケを頑張ってきたことが、認められてうれしいんです」
それを『また遠恋になるのが嫌だから』という理由で断ろうとするのは。
この上なくうれしくて、だけどあまりにも申し訳ない。
「僕だって遠距離恋愛はちょっと辛いですけど、でも、バイトしてお金を貯めて会いに行きますから。来年は先輩と同じか、近くの大学を受験します。そうすれば――」
香子先輩が静かに手を上げた。
話を止めて、という合図。
「……ありがとう」
そして立ち止まる香子先輩は、ありがとうと言った割には喜びが感じられない表情で。
「特待生のこと、黙っていてごめんなさい。帰って考えてみるから、今日はここまで、ね?」
そう言われると、これ以上引き止めることはできなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
翌朝は、最近の日課である二人での登校はできなかった。
その代わり、呼び出しがあった。
早朝の体育館に来てほしいと、先輩から呼び出されたのだ。
「おはよう」
香子先輩はすでにコートに立っていた。
その姿は制服ではなくTシャツとハーフパンツのジャージ。
そして足元はバッシュ。
部活を引退した3年生のする格好ではない。
「先輩、もしかして……」
「昨日ね、帰ってからずっと考えてたの。一晩中寝ないで。それで決めたわ」
香子先輩はその場で軽快にドリブルをし、ジャンプシュートを放った。
ボールはきれいな弧を描いてリングに吸い込まれる。
十日ほどとはいえブランクを感じさせない動きだった。
「特待生の話、受けることにする」
「そう……、ですか」
ほんの少しの残念さと、大きな安堵。
この気持ちの比率が、実際に遠距離恋愛を始めるようになっても変わらなければいいと思う。
ところが香子先輩は、感情の読み取れない平坦な表情で。
――僕の感傷を吹き飛ばす宣告をする。
「……だから、別れましょう、わたしたち」
ボールのバウンド音が収まると、セミの鳴き声が主張を始める。
人が少なくても夏の体育館は騒がしい。
だけど今はその騒がしさが、僕の動揺を覆い隠してくれる気がした。
「理由を、聞いてもいいですか」
「遠恋ができる自信がないの。距離が離れて、接する機会が減れば、相手への気持ちがどうしても薄れて行ってしまう。それは前回で体験済みだから」
「じゃあマメに会うようにしましょう。毎週末に僕がそっちへ――」
「簡単に言わないで。移動費も時間もバカにならないわよ。それに週末はお互いよく試合が入るでしょ?」
「でも……」
「一度や二度なら大丈夫かもしれない。だけど、10回20回と続けていくうちに、会いに行くことに喜びよりも負担を感じるようになる。続ける理由が、恋愛感情から義務感へとすり替わっていく。相手への好意よりも、不満を募らせるようになる。不満はすぐに不信になる。もともと向こうは自分のことなんてそんなに好きじゃなかったのかもしれない。だから遠恋という選択ができたんだ――って」
香子先輩は淀みなく遠距離恋愛を否定していく。
昨日の夜にずっと考え続けたであろう結論を。
それを口先だけで否定するのは簡単だ。
だけど、その言葉にはきっと何の重みもない。
香子先輩の考えを覆すだけの説得力もないだろう。
無言の時間はそう長くは続かなかった。
昇降口の方から、数名の足音と話し声が聞こえてきたからだ。
そろそろ気の早い部員がやってくる頃合いだった。
「……わかりました。じゃあ、今からただの、先輩と後輩に」
「ええ、元どおりに」
香子先輩はそう言って背中を向けてしまう。
女子部員たちが館内に入ってくる。
「あれ? こーこ先輩? その格好、ひょっとして?」
女子たちがざわつきだす。引退した先輩が部活に顔を出した。しかもインターハイで実績のある人が――となると、特別な理由を想像するのも当然だろう。
「ええ、実はね――」
女子部員の輪の中心で質問攻めにあう香子先輩。
僕はそこから遠ざかりながら、心の中で彼女に別れを告げた。
なんて、潔く終わると思ったら大間違いだ。
別れを切り出されることはわかっていた。
ひと晩中寝ないで考えたと香子先輩は言った。
お互い様だ。
僕もひと晩中寝ないで考えていた。
ただし、こちらが考えていたのは香子先輩の出方だ。
想定したパターンは三つ。
ベストなのは、特待生の話を受けたうえで、僕との付き合いも続けてくれること。
遠距離恋愛になるパターン。
二番目が、特待生の話を受けたうえで、別れを切り出されること。
別れたうえで先輩が県外へ進学するパターンである。
三番目は、特待生の話を断って、僕との関係を優先すること。
先輩が残って、付き合いを続けるパターンだ。
僕としては、別れることよりも、先輩が特待生の話を断ることの方が嫌だった。
僕との関係を優先するあまり、自分のやりたいことを犠牲にするなんて、それで喜べるほど僕は倒錯していない。喜んだとしても一瞬だけだ。
ともかく、特待生の話を受けたうえで、別れ話をされるのは想定内。
遠距離恋愛がいずれお互いの負担になる、という理由も想像どおり。
今のところ、それを覆すだけの説得材料は思いつかないが――
まだ時間はある。
面と向かって別れを告げられたショックは、想定していてもなお甚大だったが、それでもまだ、やれることはあるはずだ。




