30.香子先輩の不安と迷い
渡り廊下の真ん中で、香子先輩が立ち尽くしている。
僕と媛宮が手をつないでいるところを凝視していた。
この行為に疚しいところはまったくない。
転んだ媛宮を起こすために引っ張っただけのことだ。
それを説明するより早く、香子先輩は回れ右をして立ち去ってしまう。
僕は媛宮の手を離して追いかけようとする。
が、それを妨げるようにチャイムが鳴り響いた。
進学組の3年生は夏期講習の真っ最中だ。
その行動はチャイムと時間割に支配されている。
今から先輩を追いかけても、無理に引き留めたら迷惑になる。
そんな言い訳のような理由を見つけて、僕は香子先輩を追うのをあきらめた。
「……ちょっと島津」
媛宮はむすっとした顔で睨んでくる。
「何」
「あたし今からすごくムカつくことを言うかもしれないけどスルーしてね」
なんて恐ろしい前置きだろう。
僕はどんな罵倒にも耐えられるように心構えをする。
「……どうぞ」
「さっきのこーこ先輩の反応、明らかにおかしかった。例えるなら、内緒で付き合ってるあんたに貴重な休み時間を潰して会いに来たのに、別の女と手をつないでイチャついてるのを目撃してしまった、みたいな反応」
「……すごくムカつくことって言うのは?」
「島津とこーこ先輩が付き合ってるっていう、有り得ない前提を言葉にすることに決まってるでしょ」
「ああ、ムカつくのって媛宮なんだ」
「ごめんなさいこーこ先輩、例え話とはいえ、あたしは先輩に泥を塗ってしまいました……」
「僕は泥か」
平静を装いつつも、媛宮の観察眼に驚いていた。
ほぼ百点満点の回答だ。
さすがは信者。
香子先輩のこととなると、鋭すぎてもはやコ〇ン君レベルである。
「まあ、おっしゃるとおり有り得ないよ」
「でも……、本当に、そういう風にしか見えなかった」
「そう? 僕にはもうすぐ休み時間が終わることに気づいて、まずい、急がないと、って焦ってる顔に見えたけど」
「色ボケ男子には香子先輩の顔がいつも同じに見えるってことでしょ」
「そんなことはないよ」
香子先輩の表情なら、媛宮よりもたくさん知っている。
そのくらいの自信はある。
だからこそ戸惑っていた。
媛宮の言うとおり、さっきの香子先輩はかなり驚いていたようだったから。
今までの香子先輩なら、ああいう場面に鉢合わせたら、仲がいいのね、くらいの皮肉は口にしていたはずだ。それがなかったということは、気持ちに余裕がないのかもしれない。
些細なことを気にして余裕をなくしてしまうほどに、僕との関係に本気なのだとしたら。
それはとてもうれしいが、同時に。
そんなことで先輩の好意を確認して喜んでいる自分を、小さいと感じてしまう。
「……ま、実際、最近のこーこ先輩、ちょっと変わったよね」
「どんな風に?」
「引退したからかなぁ、ずっと張り詰めてた雰囲気が、柔らかくなったっていうか。笑顔が多くなった気がする」
「それは確かに」
「だからって自分に気があるとか勘違いして、突っ走ったらダメだからね。こーこ先輩はまだまだ忙しいご身分なんだから」
媛宮の忠告に、どう返事をすればいいのか迷う。
いっそ本当のことを言ってやろうか。
……いや、やめておこう。
あたしの例え話を本気にしちゃうくらい思い詰めてんの? とか言われそうだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
香子 > 先に帰ってもう家に着いてるから
香子先輩はいつの間にか下校していた。
素っ気ない事後報告のメッセージでそれを知る。
だけどそのまま引き下がることはできない。
部活が終わったあと、僕はまっすぐ家へ帰るのではなく、軽くランニングをすることにした。
目的地は香子先輩の家の近所にある公園。
夕方はそこで犬の散歩をしていると話していたのだ。
島津 > 体力づくりにランニングしようと思います
島津 > 先輩んちの近くの公園で
そのメッセージに反応してくれたのだろうか。
果たして、香子先輩はそこにいた。
柴犬のリードを持つ香子先輩は、長袖のシャツにハーフパンツというラフなスタイル。こちらに気づくと、気まずそうに顔を背けてしまう。
僕はまっすぐ先輩へ向かうのではなく、外周のランニングコースに沿って大回りして、後方から香子先輩に近づいていく。トコトコ歩く犬に合わせて軽く流している香子先輩と、インターセプトからの速攻並みのスピードで駆ける僕。その差はすぐに縮まって――
そして、あと数メートルまで近づいたあたりで柴犬が反転した。
「えっ? アレン?」
柴犬のアレン(和の顔立ちに洋の名前というミスマッチ)はグルルルル……、と唸り声を上げる。目はまっすぐに僕を睨み、鋭い歯はむき出しだ。香子先輩まであと少しというところで思わぬ妨害である。
右から回り込もうとしたら、
「――わうっ!」
左から回り込もうとしても、
「――おんっ!」
ご主人様を守る忠犬に阻まれて近づけない。くっ、ナイスディフェンス。
香子先輩を惑わせる不届き者とでも思われているのだろうか。
そんな風にアレンを攻めあぐねていると、天から救いの手が。
「こーら、アレン。駄目じゃないの」
香子先輩がしゃがみこんで、アレンの頭にそっと手を置いた。
猛犬はそれだけで魔法のようにおとなしくなる。
角のようにピンと立てていた耳は平伏し、
噛み殺さんばかりだった唸り声は静まり、
怒りに濁っていた目をうっとりと細める。
完全にご主人様の言いなりかと思いきや、首をぐんっと上に伸ばして、香子先輩の手のひらをぺろぺろと舐め始めた。
「あはっ、くすぐったいじゃない、もう」
たったそれだけで無邪気な笑い声を上げる香子先輩。いつもの凛とした雰囲気も、体育館でのショックを受けた様子も、アレンの舌によって溶かされてしまっていた。なるほど、香子先輩をリラックスさせるにはそうすればいいのか。
飼い犬にだけ見せる無防備な笑顔に見惚れながら、犬になりたいと思っていると、ふと、香子先輩と目が合った。その表情が笑顔のままで固まる。
「……練習が終わったあとなのに、がんばるのね」
「やっぱり体力が基本なので」
「そうね、体力は大事だわ」
「はい、体力はすべてを解決します」
そんな中身のないやり取りを続けたあと、香子先輩はすっと立ち上がった。
「ええと、その……、体育館では、おかしな態度を取ってしまってごめんなさい」
「僕の方こそ、誤解されるようなこと……」
「転んだ人がいたら手を取って助けるのは当たり前でしょ」
「でも、先輩が嫌がるなら」
「そういうのは駄目よ」
香子先輩が僕を見据えた。
言葉と視線でこちらを制しようとする。
「そうやってわたしに気を遣うあまり、他の人への配慮が欠けてしまって、周りから疎まれる……、そんなあなたにはなってほしくない」
「……はい」
「それに、あのときのは、女子とベタベタしていたことにショックを受けたわけじゃないのよ」
香子先輩は軽く笑おうとする。
「あ、そうなんですか?」
が、その笑顔は長くは続かない。
「……ごめんなさい、ちょっとだけ嘘。本当はもっと、別の……」
香子先輩の唇が動いて、何か言葉を紡ごうとする。
しかし、声は出てこない。
その表情が。振る舞いが。
すべてが不安を表しているのがわかった。
そいつを少しでも紛らわせられるように。
僕は香子先輩の両肩に、そっと手を置いた。
細い肩がびくんと震える。
「悩んでいることがあるなら、言ってください。話を聞きます。相談に乗ります。解決するために力を尽くします。だからんむ」
僕の言葉はそこで止まった。
先輩の人さし指と親指が、僕の唇をつまんだからだ。
香子先輩は笑っていた。
ただ楽しいのとは違う。
ただ嬉しいのとも違う。
彼氏の熱意にほだされて、頼り甲斐を感じている――
というのとも違う。むしろ逆で。
小さい弟が背伸びして家事を手伝うのを、やさしく見守る姉のような。
その表情の意味を、僕は後で知ることになる。
今この瞬間は、別のことで頭がいっぱいになってしまったから。
「ありがとう。……それじゃあ、うちに寄って行って」
「え……」
先ほどの悩みとは、まるでつながりのなさそうな誘い。
しかしそのオーダーは一足飛びで最優先事項になった。
ならざるを得ない。
「先輩の家に……?」
「ええ。時間は大丈夫でしょ」
「はい、それはまあ……」
「緊張してる?」
「それもまあ……、ご家族とか……」
「それなら心配いらないわ」
香子先輩は肩に置いていた僕の両手をそっと外し、回れ右して歩き出す。
「今、家には誰もいないから」
その短い言葉を理解するのと同時に。
――おんっ! とアレンが高らかに鳴いた。




