17.香子先輩と口実
瀬川香子が彼氏と別れた。
その事実はあっという間に全校生徒に知れ渡るだろう。そうなると、フリーになった香子先輩に近づく男子が増えることは確実。ただ、話が広まるのは今夜からとしても、実際にリアクションがあるのは明日の朝以降だ。少なくとも今のところは、先輩にちょっかいをかけてくる者はいないはず。
その考えは甘かった。
練習が終わった、男子バスケ部のロッカールームでは、数名の男子が早くもアップを始めていた。
「……とりあえず、瀬川を送って行こうと思うんだが」
「抜け駆けはやめろよ」
「おいおい、傷心に付け込むつもりか?」
「心配してるだけだって。試合が近いこんな時期だしな」
「確かに」
「OGどもにあんなに責められて、気丈に振る舞っちゃいたが……」
「きっとショックを受けてるよな。それをケアしてやらないと」
「下心なんてないさ。ああ」
彼らの態度は露骨だった。どいつもこいつもギラついていた。
ロッカー内側の鏡を見ながら髪型を整えたり、キメ顔を見せる角度を確かめたり、制汗スプレーを必要以上に振りかけたりと、身づくろいに余念がない。
これはまずい。
僕は急いで帰り支度をすませて、ロッカールームを後にした。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「急にどうしたの? こんな薄暗くてひと気のないところで待ち合わせなんて」
帰宅する際のメインルートである正門や裏門から外れた、グラウンドの片隅。メッセージでの呼び出しに応じてくれた香子先輩が、ニヤニヤ笑いながら問いかけてくる。
「別に妙なことをするつもりはないですから」
「妙なことって?」
明らかに面白がっているが、今はそれに付き合っている時間はない。
「先輩は狙われてるんです」
そう告げると、すぐに状況を理解したのか、顔つきが引き締まる。
「……誰から?」
「複数人です。特に危険なのは〝伯鳴高校の流川〟の異名を持つ戸枝先輩ですね」
顔の良さはもちろん、抜群のドリブルテクを持つ戸枝先輩は、男子バスケ部一のモテ男だ。相手を抜くたびに応援席の女子生徒が騒いでいる。ただあまりスタミナがないし、派手なプレーに走った挙句ボールを奪われることが多いので、チームメイトの評価は今ひとつだ。
「ああ、そっちね」
しかし香子先輩はなぜか気の抜けた様子である。
「他に警戒すべき野郎がいるんですか?」
「男バスの同級生なんて……、下心が見え見えだし、興味ないわよ」
「でも帰り道にまとわりついてきたら嫌ですよね」
「多少、鬱陶しくはあるわね」
「じゃあついてきてください。目立たずに外へ出られるルートがあるんですよ」
グラウンドの片隅の、フェンスとフェンスのつなぎ目には、人が一人なんとか通り抜けられる幅のすき間が開いているのだ。さすがにそこを張っている生徒はいなかったので、僕たちは誰にも見つからずに脱出に成功する。
「ふーん、こんな抜け道があったの」
両腕をぐっと上へ伸ばしながら、香子先輩が言う。
「はい、粟木に教えてもらったんです。あいつ遅刻多いから」
本当は高明先輩に教わったのだが嘘をついた。
「そう」
と香子先輩は特に気にした様子もない。
「二年以上も通ってる学校なのに、まだまだ知らないところがあるのね」
感慨深げに抜け道を眺めていたが、やがて歩き出す香子先輩。
僕はそれについて行きたいと思う。
だけど意思に反して足が動かない。
プライベートな相談に乗ったり、列車で遠出をしたりしているのに、今さら一緒に下校することをためらうなんて、我ながら順番がおかしいと思う。
ただ、その原因はわかっている。
香子先輩に頼まれていないからだ。
相談や遠出は、先輩からの依頼だった。それ以外の、自分から動いたいくつかの事柄については、先輩の助けになるという確信があった。
しかし、一緒に下校しようとは頼まれていないし、そうすることが先輩の助けになるとも思えない。自分がそうしたいから、という理由だけで先輩の隣に並べるほど、僕はポジティブな人間ではないのだ。つまり『なんでついてくるの?』という目で見られるのを想像するだけで足が動かなくなってしまう。
一緒に帰りたい相手がいるが、一緒に帰る口実がない――そんな悩みを抱えている人がこの世にどれほどいるのかはわからないが、彼ら彼女らは、その相手にどう声をかけているのだろう。
「ねえ島津君」
香子先輩がこちらを振り返った。
足は止めない。
こちらを向いたまま、後ろ歩きで前へ進んでいる。
「ちょっと気になったんだけど。戸枝が〝伯鳴高校の流川〟なら、キミはどんな異名があるの?」
「いや、ないですよ僕には」
「伯鳴のメガネ君とか?」
香子先輩は少しずつ遠ざかっているので、声もだんだん遠くなっていく。
「かけてないんですが。……というか先輩」
「何?」
「危なっかしいんで、後ろ歩きはやめてください」
「後ろ歩き……? わたしはキミとしゃべりながら歩いているだけよ」
その堂々たる屁理屈は、最初は何を言っているのかわからなかった。
だけど、ゆっくりと。
雨水が地面に浸み込むみたいに、少しずつ理解できてくる。
つまり、こういうことだ。
――私に前を向かせたかったら隣に来なさい。
遠回しにそう言っているのだ。たぶん。
一歩も踏み出せない僕のために、香子先輩は理由をくれた。
うぬぼれかもしれないけれど、今はそう思っておくことにしよう。
「……メガネ君じゃなくて、せめて三井にしてください」
「それは無理ね、キミが三井に匹敵する色気を出せるようになるには、あと5年はかかるわ」
そんな他愛もない話をしながら隣に並ぶと、香子先輩はようやく後ろ歩きをやめたのだった。




