12.香子先輩と朝帰り
香子先輩とホテルで迎えた朝。
そんな風に言うとすごく見栄っ張りみたいだが、少なくとも嘘ではない。
窓から差し込む陽光のまぶしさに目を覚ますと、香子先輩はすでに起きていた。昨日と同じ服を着ていたが、まさかその格好のままで寝たとは思えないので、着替えも済んでいるのだろう。
「おはよう、よく眠れたかしら」
物音に気付いたのか、こちらを振り返る香子先輩。朝日を背にした立ち姿は神々しささえ感じさせる。つまり女神。
「おはようございます、はい、おかげさまで」
「そう、よかったわね。わたしは全然眠れなかったけど」
先輩はため息をつきつつ、こちらをじっと見つめてくる。
顔を見られているが、目は合わない。どこに注目されているのだろう。鼻か、口か、それとも……、
「あ、もしかして髭生えてます?」
僕はあわてて口元を隠す。昨日の朝は気合を入れて髭を剃ったし、剃り残しがないかも確認した。僕はあまり髭が濃くないので、一日くらいではそんなに伸びないはずだけど、やはり香子先輩ともなると身だしなみの要求レベルも高いのだろうか。
「……大丈夫よ、つるっつるだから」
その割になぜか香子先輩はムスッとしている。
つるっつるなのが気に食わないのか?
野性味あふれる男が趣味だったとか……?
それは合わせるのに苦労しそうだ。
「あの、眠れなかったって言ってましたけど、具合が悪いんですか?」
「あなたのせいじゃないから気にしないで」
突き放すような素っ気ない返事。
しかし、それにショックよりも違和感を感じる。
先輩が眠れなかったことを、どうして僕の責任と結びつけるのだろう。
まさか昨日の夜、僕が眠ったあとに何かあったのでは。
「あのぅ、もしやわたくしめが、寝ぼけて何か失礼なことを――」
「――何もなかったわ。なんにも」
香子先輩は食い気味に僕の言葉をさえぎった。
「昨夜のキミは虚無でした」
「虚無……」
確かにそうかもしれない。快眠と清々しい目覚めの代償として、何か大切なチャンスを失ってしまったような、根拠のない喪失感がある。
「細かいことは気にしないで。昨日は列車の中でずっと寝てたから、夜になっても目が冴えてたのよ」
「そうですか」
反射的にうなずきつつ考える。昼間に寝たから夜は寝られなかった、というのはごく当たり前の理由なのに、なぜかすんなり受け入れられない。
思い返すのは昨夜の香子先輩の様子だ。あの時点で先輩はかなり疲れていた。それでも眠れなかったのなら、何か精神的な問題があるのではないか。
やっぱり、まだ高明先輩のことが吹っ切れていないとか。
「……本当に大丈夫ですか?」
「こっちを見ないで」
「えっ……」
突然の拒絶に固まっていると、
「あっ、違うのよ、その」
さすがに言い過ぎたと思ったのか、あわててフォローを入れてくる。
「いつもの朝晩のスキンケアとかできてないから、あんまり見られると……」
顔をふいっと横に向けて、か細い声で言い訳をする。その頬はうっすらと赤くなっているように見える。いきなりそんなしおらしい態度を取られると感情が追いつかない。
ともかく、先輩が落ち込んでいるなら僕はフォローするだけだ。
「せ、先輩は化粧をしていなくてもきれぃモニョモニョ……」
「――は? 〝化粧してなくても綺麗〟は褒め言葉じゃないから」
がんばって柄にもないセリフで元気づけようとしたのに、すごく冷たいトーンで返されてしまった。すっぴんを見られると恥ずかしい……、と頬を染めていたのは僕の妄想だったのではないか。それくらいの落差だった。
「えーと……、そう、なんですか?」
「ええ。だって、化粧にかける手間や努力を全否定してるじゃない」
「…………なるほど」
香子先輩が怒った理由は、女性特有の気まぐれなどといった、男性には理解できないタイプのものではなかった。シンプルなその理由はすとんと腑に落ちて、僕は素直に間違いを認める。
「確かに。すいませんでした」
「まあ、わたしは気にしないわ、先輩だから。後輩の過ちを指摘して、正しい道を示してあげる。だけど、対等な相手……例えば恋人なんかにとっては、そういう無神経な言葉の積み重ねが、イライラを募らせたりするのよ。だから注意した方がいいわ。わたしは先輩だから笑って聞き流すけれど」
なぜかやたらと先輩風を吹かせてくるが、そこに突っ込んだらまた氷点下の視線で睨まれるかもしれない。ここはノーコメントを貫こう。沈黙は金。
◆◇◆◇◆◇◆◇
そんなこんなで妙にイライラしている香子先輩とともにホテルをチェックアウト。帰りの列車では寝不足を挽回するようにずっと眠り、そして帰りつくころには機嫌も戻っていた。
一日ぶりに降り立った最寄り駅。
休日の早朝ということもあって、下車したのは僕たちだけだ。
ホームに人の姿はない。
「急げば部活に間に合いますね」
「ええ、そのために早起きしたんだから」
「インターハイもうすぐですもんね」
今後の話をしながら駅舎を出る。
このとき、僕たちはすっかり油断していた。
長距離移動の疲れもあったし、地元へ戻ってきて気持ちが緩んでいた。
だから周囲が見えていなかったのだ。
「……こーこ先輩?」
横合いからの声に振り向くと、そこには知った顔が立っていた。
女子バスケ部2年の媛宮乃愛が。
部活へ向かう途中らしく、女バスのジャージ姿だ。
「あら、媛宮さん。おはよう」
「あ、はい、おはようございます、こーこ先輩。それと……」
媛宮はぎこちなく笑い返してから、こちらへ疑いのまなざしを向けてくる。
「どうして島津が、先輩と一緒なの?」
「僕はぐうぜん同じ便だっただけで」
「でも、さっきの列車は先輩の家と逆方向からだった」
媛宮は視線を鋭くして僕の言い訳を切り捨てる。
うかつだった。先輩の家の場所なんて考えてなかった。
「そうなんですか?」
僕は知らん振りをして話を振ると、
「ええ」
と香子先輩はうなずいた。
それだけだった。
嘘もごまかしも、何の説明もしない。
それがどうしたの? という態度だ。
まさかそれで押し切るつもりだろうか。
「それに二人とも、よそ行きって感じの服だし……」
やはり駄目だった。疑いは晴れない。
媛宮は眉をハの字にしたまま近づいてくる。
「先輩も島津も、昨日の練習出てなかったし……」
「そんなの偶然だよ。そして偶然は重なることもある。一日に二度も同じ車にはねられて、二度とも無事だったお婆さんもいるって話を聞いたことあるし」
媛宮はそんなたわ言には反応せず、僕と香子先輩を交互に見た。
そして、口元を引きつらせて、
「もしかして……、浮気……!?」
よりにもよってそんな結論を出してしまう。
「ふっ、あはははは……!」
大声で笑いだす香子先輩。
ある意味では事実を言い当てているが、それで笑えるのは本人だけだろう。
「いやいや、違うから」
と僕はシンプルに否定することしかできない。
「だ、だよねぇ……、ごめんなさい先輩、島津なんかと浮気とか失礼なこと言って」
ぎこちなくうなずく媛宮。なんかて。
先輩への失礼を撤回するのはいいが、それをこっちへぶん投げるのはやめてほしい。
「大丈夫よ、気にしてないわ」
香子先輩はくすくすとほほ笑む。そこでようやく先輩の狙いがわかってきた。媛宮の暴走を誘って場を乱し、すべてをうやむやにしてしまう作戦だったのだ。さすが女バスの司令塔。策士である。
「それにある意味、当たってるから」
「えっ……? それってどういう……」
「実はね、わたし、浮気されてたの」
香子先輩は自分の顔を指さしながら、本当のことを言ってしまった。
僕の感心を返してほしい。
「えっ……、えっ?」
媛宮は僕と先輩のあいだで視線をキョドキョドさせている。
困惑が極まって説明を求めている顔だが、こっちを見ても無駄だ。
だって、僕も同じ顔をしているだろうから。